第33話

 コスタス様が帰って来たので今日からの私は一週間自室で書類整理だった。幸い書き物机があるし、椅子はふわふわだし、問題はない。あるとすれば大旦那様を怒鳴る声がたまに響いてくることだろうか。ああまた。仲が良いなあとくふくふ笑っていると大旦那様に憑いて来た妖精の一人がねぇ、と話しかけてくる。


『サーニャは二人が喧嘩していて心配にならないの? コスタスったら怒鳴りっぱなしよ? 喉を傷めちゃいそう』

「そうですね、今日のお茶はジンジャーはちみつミルクティーにしましょうか」

『そうじゃなくてー、不安にならない? 私たちはいつも、いつ追い出されるか心配になっちゃう。今までずっと手紙のやり取りはしていたけれど』

「それなら大丈夫ですよ。私の家みたいにぷっつり途絶えていた訳ではないんですから」


 そしてそのまま無くなってしまったわけではないんだから。

 あの二人はじゃれ合いのようにしているだけだろう。コスタス様も素を晒せる相手がいると安堵していると言ったところだろうから、私はこっそりそれを見守るだけだ。それにしてもコスタス様ったらあんなに口が悪いなんて知らなかった。くそ親父、なんて言葉を使うのも初めて知った事だ。結構猫を被っていたのかな。私は被っていた猫が外れ掛かっている所だけに、対比がちょっと面白い。


 ずっと隠されていたコスタス様。悪いようにはしないからという約束を守ってくれているのだろうと思っていた。だけど素を晒せばあの通り。まだまだやんちゃなお年頃と言う事だろう。それが私には楽しい。いつか大旦那様と大奥様のように屈託なく話すことが出来る日も来るのだろうか。だとしたらそれは嬉しいかもしれない。楽しいかもしれない。

 今度は本を投げる音がした。あの書斎で何が行われているのだろう。楽しい親子喧嘩か。私と父とのそれとは違う、対等な位置の人間だと認めているからこそ成り立つ喧嘩。羨ましいな、と素直に思った。楽しそう。でも私がそれを覗き見ることは出来ないだろう。親子のプライベートだ、それは。ちょっと聞き耳を立てているだけで充分。それも本当は聞かれたくないだろうけれど、そんなに声を荒げていたら嫌でも耳に入っちゃうんだから仕方ない。


「サーニャ様、紅茶をお持ちしました」

「ありがとうございます、ナースチャさん。お茶の時間にはジンジャーはちみつミルクティーを出して頂けますか? コスタス様の喉が心配なので」

「はい、解りました。ふふ、半年前まではいつもあんな調子だったんですよ、あの二人」

「え、そうなんですか?」

「旦那様が学校を卒業してからさっさと引継ぎ書類作って逃げちゃいましたから、大旦那様。その前に領地のあれこれを教えている時は、情報量が多くて旦那様も苛々しちゃっていて。あんな風に怒鳴り合って、ある日突然湯治の旅に、ですから。それから随分苦労したんですよ、旦那様」

「私との結婚式が出来ないぐらいに」

「そうなんです。折角お嫁さんが来たのに仕事で暇が作れなくて。ああでも、近いうちにきちんと採寸したサーニャ様だけのウェディングドレスを手配しようとは思っているみたいですよ。内緒ですけど。今まで大奥様のドレスばかりだったから、とびっきりのを作るんだって張り切っていましたから。その前に領地が増えて挨拶回りとか書類整理とかまた増えちゃったみたいですけれど。春には、って」


 そんなこと考えてくれていたのか。春なら大奥様の丹精した裏庭でガーデンパーティー調にするのも良いのかもしれない。いつだか知れない私の誕生日も近いはずだ。ちょっと嬉しくなって紅茶を口に含む。角砂糖一個分の甘い味がした。それが幸せで、えへ、と笑う。ナースチャさんも穏やかに微笑していた。こんなに嬉しいこともない。結婚式、楽しみだな。無事に私が侯爵夫人に納まれればいいのだけれど。私なんかがそんな身分になって良いのか分からないけれど、でも大旦那様やお爺様、屋敷のみんな、誰よりもコスタス様が喜んでくれたらそれで良い。

 私もそんな祝福される花嫁になれるのかなあ。考えられなくて想像はぽわぽわしている。普通のデイドレスだって知識が覚束ないんだもの、ウェディングドレスなんてもっと分からない。親は結婚していなかったし、うちにもドレスはなかった。父に引き取られてからは、学校の制服ぐらいしか都合してもらえなかったんじゃないだろうか。そう思うと女子としては憧れざるを得ない。燕尾服姿のコスタス様は何度か見たことがあるけれど、私に関しては全くだ。全く想像が出来ない世界。


 でも侯爵夫人ともなったらシーズンにはティーパーティーを開いたり舞踏会では他所様の相手もしなくちゃいけないだろう。社交界とは恐ろしいところだ。何せ権力がものを言う。侯爵より上は公爵しかいないけれど、そしてそう言う人たちは少ないけれど、でもちゃんとお相手できるようにしなくちゃいけないな。仕事が一段落したら講師を雇ってもらってちゃんとしたマナーを身に付けよう。幸い書類仕事は毎日こなして行って慣れて来ているから、書類の溜まりは微量だ。結婚式の頃にはその接客で忙しくなるだろうしあっちの領地とこっちの領地で二度上げなきゃならないだろうけれど、それも嬉しい苦労だと言えるだろう。


 また怒鳴り声がする。心地良い親子の歓談だ。羨ましくもある。お茶の時間にはもう少し。そうしたら、ちょっとだけ大旦那様のフォローをして差し上げよう。でもそうしたら拗ねられちゃうかも。コスタス様も意外と子供な所があるみたいだし。そんなところをもっともっと見せて欲しい。私だって魔女であることを認めたのだから。今はまだコスタス様と向こうのお屋敷の人たちにだけしかそれは晒していないけれど。あとは大旦那様か。

 でもどうしてそれこそこんな湯治にはぴったりの寒い季節にわざわざ帰って来たんだろう。そればっかりは納得できなくて、後で妖精に訊いてみようかな、と私は紅茶を飲み干した。熱いお湯が喉を通り過ぎていく感覚にぎゅーっと目を閉じながら、はふ、とまあるい息を吐く。お茶を下げて貰ってから、私はまた書類に向かった。


 私はこの時妖精に旦那様の突然の帰郷の理由を聞いておくべきだったと、後悔することになる。

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