第26話
コスタス様は残っている書類も少しあるとのことで、遅れて行くよ、と私の頬にキスをして先に馬車を走らせた。昼食を頂いてからの事だ。私は気を紛らわすために馬車の中で編み物を続ける。手袋を外した手にはマメが出来ていて不細工だった。あの時沸いた妖精たちは顕現するのに力を使ったのか、水晶の髪飾りの中でぐったりしている。
ありがたかったけれどちょっと危ない橋渡りでもあったと思う。あれでコスタス様の中の妖精観がまた悪くなってしまっていたら、いよいよ私は居場所がない。
進む馬車の中でマフラーを無心に編み続ける。眠気は解消されたのかショックが強かったのか、そうなかった。むしろギンギンに冴えて、居ても立っても居られないぐらいだった。編み目はどんどん増えて行く。十センチほどだったものは二十センチほどに。もう少し増えるだろう。一メートルぐらいになったらブローチも作ってお爺様に差し上げようと思う。
果たしてコスタス様が侯爵になったのは私の為だったのだろうか。私が送った肩掛けと膝掛けの所為だったのだろうか。それはどうなのか分からないけれど、無関係ではないのかもしれない。でもやっぱり、その大本は大奥様だと思う。大奥様からの最後のプレゼント。貴族としての。私には絶対に出来ない事だ。だから私の与えた所は、むしろ治水工事の案件なんかを目立たせたぐらいのことだろう。
それもコスタス様が毎日遅くまで計画立てていたからこそだ。多数の領地にまたがる河川の増設。綿密な計画書。寒い夜の仕事を助けるのには多少役に立ったかもしれないけれど、あくまで多少だ。私は何もしていない。私は何も出来ていない。役立たずの出来損ないの魔女だから。何にも出来ない魔女だから。
それでも魔女は魔女なのだ。コスタス様に忌み嫌われる魔女なのだ。どうしようもない存在。いっそ生まれてこなければ良かったのに。そうしたら、母の代わりにされるようなこともなく、コスタス様には素敵な花嫁が出来て、侯爵領も平和裏に譲渡されただろう。
私はいつも誰かの足を引っ張って、呪われる。疎まれる。厭われる。
そう言うものだと自分でも理解しているから、いっそ生まれてこなければ良かったと思ってしまう。
男爵領の人たちが優しいから、そう思ってしまう。
コスタス様が優しいから、そう思ってしまう。
愛を知りたいなんて、やっぱり過ぎた願いなのだ、私にとっては。
暗くなる頃に男爵領の屋敷に着いて、明かりが灯っているのにホッとする。だけど馬小屋に見覚えのない馬たちがいること、知らない馬車があることに私は首を傾げてしまった。貴族の中でもあまり裕福ではない男爵家では、馬車は二頭立てが一つしかない。社交のシーズンになったらもう一つぐらい増やそうかと言っていたぐらいだ。うちの馬でないそれに、妖精たちがわらわらと出て来る。もう少し隠れていて、と小声で頼むと、不審そうにしながらも彼らは髪飾りに帰って行く。
玄関に向かうと優秀な執事さんはぴったりのタイミングでドアを開けてくれた。旦那様は、と訊ねられて、少し仕事が出来ました、と返す。侯爵に繰り上がった事は昨日のうちに伝書鳩で知らせておいたから、そこは飲み込んでくれただろう。
ただ、執事さんはどこか曇った顔をした。私を屋敷の中に入れて、ショールを預かってから、実は、と言いかけた所で声が響く。
「久し振りだな。アレクサンドラ」
客間から出てきたその声に、びくっと声が震える。
そこにいたのはお父様だった。
「侯爵夫人か。良い身分になったものだな」
まさかお祝いを言いに来たわけじゃないだろう。がだかた肩を震わせていると、執事さんも、そこらに隠れていたメイドさんたちも、心配そうにこちらを見ている。
そうかあの馬車と馬は伯爵家のものか。わざわざこんな辺境の男爵領に伯爵がやって来る理由は何だろう。私を利用するためだろうか。肩の震えが止まらない。ショールがないのが突然心細くなったけれど、姿を消している妖精たちが盾のように私の前に立ちはだかってくれているのが何とも健気で頼もしい。
短く整えた髭に触れてから、お父様はにたりと笑う。醜悪な笑顔だと今は思ってしまう。昔はそれでも笑いかけてくれるのが嬉しかったはずなのに。今の方が正常なのだろうか。お父様は変わっていない。
ダブルのスーツの懐に入れた手が出したのは、何かの書類らしかった。距離があって何が書いてあるのかは見えない。クッと笑ってお父様は私を憐れむような見下すような眼で見る。ぎゅっと執事さんが腕を掴んでくれたのが心強い。
「爵位の返上の書類だ。お前とリュミエールの坊主には侯爵など過ぎる階級だろう? わざわざ用意してやったのだ、お前がサインすればそれで事足りる」
「なっ」
「お前のような娘が私より上の階級にいるなど、目障りで仕方がない。男爵の爵位を返上させないだけ良いと思え。早くサインをしろ、アレクサンドラ。城に向かう伝書鳩は待ちかねているぞ」
相変わらず傲慢な態度を崩さずに、お父様は言う。がたがた震える肩、今ここで私がサインをすれば大奥様の最後のプレゼントが台無しになってしまうだろう。だから私は、ぎゅっと手を握り締めて、お父様を睨みつける。ほ、とお父様は少し驚いた顔をした。私がその命令に逆らったことがなかったからだろう。
でも子供はいつか親の元から消えるのだ。今がその時だと、私は思う。妖精たちが私の気配の変化に気付いたのか、見上げたり見下ろしたりしてくる。大丈夫。私は、大丈夫。だって私には屋敷のみんながいる。妖精たちもいる。何よりもコスタス様が、いる。
「お父様。あなたは誰を前に何を言っているのか御分かりですか?」
「アレクサンドラ?」
「アレクサンドラ・ド・リュミエール侯爵夫人です。伯爵が何を言おうがそれは変わりません。伝書鳩、城に届ける書類をあなたの爵位返上にしても良いのですよ」
「なっ」
「私はサインなどしません。旦那様の名にかけてこの男爵領も、侯爵領も、守り通します。私は侯爵夫人になったのですから」
喉は震えて威圧感なんてちっともなかっただろうけれど、カッと顔を朱に染めたお父様はぐしゃっと手に握っていた書類を握りつぶす。メイドさん達はガッツボーズをして無言で喜んでくれた。執事さんは私を見下ろして、驚いたように、だけど優しく、肩にショールを掛け直してくれる。ほっとした。やっぱりお守り代わりでもあった方が良い。
だんっと持っていた杖を鳴らしたお父様は、それを鳴らしながら私に近付いて来る。殴るつもりだ。構わない、慣れている。だから私は目を背けない。対決しなくてはならない。私だけで、立ち向かわなければならない。
その手が降り上げられると同時に、ドアが開いた。
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