第27話

 険しい顔でそこに佇んでいたのはコスタス様だった。意外と早い帰還に、馬車を急がせてきたのかと思う。私は比較的のんびり歩かせていたから、距離が縮まったのだろう。そんな事を考えながらへたり込みそうになると、にたにたした笑いを浮かべたお父様が、慇懃無礼にその姿に礼をする。ドアを閉めずに入って来たコスタス様は、それに返さず、私を背中に隠した。まだハイヒールを履いた私よりは小さな背中が、今はこんなにも心強い。


「何用か、リョーリフ伯爵殿。主のいない間に妻を恫喝するのが伯爵家のやり方か。否、伯爵家と我が侯爵家はもうなんの関りもないと言ったのは貴殿のはずだ。我が妻に、何をしているのか」


 振り上げたこぶしをゆっくりと下げ、お父様はクククッと喉を鳴らす。コスタス様の態度は侯爵として伯爵に接するにはもっともだった。お父様は今、コスタス様より階級が低い。そして社交界での立場は、昨日の舞踏会で示された。傅く人々。コスタス様はもう、立派な侯爵なのだ。横暴な所のある伯爵家とは、違う。領地も資産も、桁が違う。


「勘当したとはいえ娘は娘ですからなあ。正直目の上のたんこぶになられるのは困るのですよ、侯爵殿」

「勘当した時点でその感情は無意味と思って頂きたい。アレクサンドラは我が妻だ。何を強要しようとしていたか、その書類を見せて頂けるか」


 ぐっと手を握ったお父様は、しぶしぶと言った様子でそれをコスタス様に見せる。くしゃくしゃになった紙に書いていることは私には見えないけれど、多分コスタス様はすらすらと読んでいるのだろう。そしてその背中から怒気が迸るのを私は感じる。ちょっと怖い。妖精たちもすっかり髪飾りに隠れている。


 コスタス様はびりっと紙を縦に割いた。それから横に。細かく裂いてぱらぱらと床に落としたそれを、だんっと踏み付ける。お父様はその怒気にちょっと狼狽えたようだった。一歩下がり、杖が音を立てる。物陰でこちらを窺っているメイドさん達も、私を支えている執事さんも、それには驚いたらしい。顔でそれが分かる。

 思えばコスタス様の怒った顔なんて、地下で妖精たちと話していた時しか見たことがない。勝手に外に出た時でさえ、怒った様子は見せなかった。ただ私に懇願した。優しい人だから怒ることもないのだろうか、思っていたけれどそんな事はないらしい。プライドは持ち合わせている。妻を侮辱された時とか、家を侮辱された時とか。正当な怒り方は知っている。滅多に見せないだけで。


 どんな顔をしているのだろうな、とちょっとだけ気になったけれど、多分見ない方が良い。彼を見る目が変わってしまいそうだ。


「侯爵家と男爵家は姻族だ。私には正当な継承権がある。それを妻に破棄させようとはどういうことだ、伯爵殿」

「否――それは、娘しかいなかったからで」

「私がいたらどうしていたと言うんだ」

「……穏便に、署名を願い出たまでのこと」

「あなたは私の妻を脅迫し署名を迫った。立場が弱いと踏んで恫喝した。それは許されることではない! 即刻国王陛下に報告し沙汰を待つ! 今日はもうお引き取り頂こう、伯爵殿!」

「ッ、若造がぬけぬけと!」


 振り上げられるのは杖、私は執事さんの手を払ってコスタス様の前に出る。

 サーニャ、と叫ばれた気がした。

 頭を打つのは固い感覚。

 慣れた感覚。

 そうだ、私は慣れている。

 愛されないことに、慣れている。

 それなのに愛を知りたいなんて、おこがましかったんだろう。やっぱり。

 私は所詮魔女の出来損ないなのだ。

 愛されたいなあと思ってしまった事が間違いなのだ。

 この人の足を引っ張るだけなら、死んでしまった方が良い。

 その方が、ずっと良い。

 折角風向きが良くなって来たんだから、私の所為でそれを無くしてしまうことは出来ない。

 私はこれで良いんだ。

 これが所詮私なんだ。

 誰にも愛されない、私らしい態度なんだ。

 せめてコスタス様をお守りすることが、私の出来ること。

 痛いなあ。

 血が出たかもしれない。

 でも良いや。


 メイドさん達がばたばた出て来て、私の身体を起こす。ナターシャさんが医者を呼ぶようリリーさんに言い付ける。私は意識がぼうっとしている。薄目が開いて何となく見える事や聞こえることを理解もせずに眺めている。コスタス様が真っ青な顔で私を覗き込んだ。サーニャ、と呼ばれている。返事をしたいのに声は出ない。舌が喉を塞いでいるようだ。

 お父様は流石に戸惑った様子だったけれど、杖を鳴らして開けっ放しになっていた玄関に向かって行くのが見えた。その足を引っ張って転ばせたのは黒い鞭だ。コスタス様の手にはいつの間にかいつかのあの鞭が握られている。怒った顔。顔を赤くして、睨みつけて。すっかり精悍な若者になっている様子に、私はやっぱり何にも感じない。

 転んだお父様が何か喚いている。よく聞こえない。周りの音が分からない。耳がキンとする。脳震盪の症状だ。脳出血までは行っていないだろう。担架を持って来たナースチャさんに、その上に乗せられる。運ばれるのは私の部屋までだ、多分。こんな天井してたんだ、なんて今さら思う。花々の描かれた綺麗な天井画。大奥様は花を育てるのも好きだったみたいだし、その所為だろうか。


 玄関からはお父様の怒鳴り声。コスタス様の声はもう分からない。最近低くなってたものな。なんだか気恥ずかしい。思いながら私は目を閉じる。ベッドに運ばれて毛布を掛けられて、そっとしておかれる。

 リリーさんが連れて来たお医者様が脈を取ったり傷に包帯を巻いたりしていたけれど、その頃にはもう私の意識は殆ど無くなってしまっていた。


「サーニャ」


 ベッドの横に座っているコスタス様が、私の手を握る。


「どうか――無事で」


 心配そうに湧いて来た妖精たちを指を動かすことで宥めて、私は今度こそ意識を失った。

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