第4話
どうせ眠れないベッドなのだからと一晩徹夜したところ、三分の一と言えるぐらいまでは編み上がった。あと一晩でどこまで行けるか、考えながら朝食を摂っていると旦那様には不思議そうな顔をされる。不思議になることがありますか。明後日があなたの誕生日だなんて知らなかった妻なんですよ。流石に無作法にも程があるでしょう、それは。思いながらこっくりこっくり舟をこいでいると、珍しいね、と言われる。顔を上げると、いつものように洗面台で冷たい水を出し洗ったはずの顔はまだしょぼしょぼしている気がした。実際瞼は腫れぼったい。
「どうかしたのかな、サーニャ。顔色が悪い」
「い、いえ、何でもありません。お気遣いなく」
「気遣うよ。君は僕の妻なんだから、体調が悪いのは気になる」
「体調は悪くないんです、本当。よ、夜中まで本を読んでいて、多分その所為です」
「何の本?」
「えっと」
「即答できない所を見るとそれも嘘?」
「違います! 編み物の本です!」
間違ってはいない。知らない編み方を覚えるために、屋敷の図書室から借りたものがあったからだ。だが嘘と言えば嘘。そんなもん読んでられっかと躍起になって編み棒を動かしていたんだから。
おろおろしているメイドたちに、にこっと笑いかける。いつもなら赤くなってくれるはずなのに、今日は余計に心配そうな顔をされてしまった。どうしてだろう、上手く行かない。早く朝食も食べ終えて、編み物の続きもしなきゃいけないのに。今日の昼にかかっていると言っても過言じゃない。デザートのチーズケーキがちょっと喉に詰まる。お茶で流し込むと、まだ旦那様は胡乱げに私を見ていた。いや本当。後ろめたいことはないんですったら、コスタス様。
そう呼びたいための努力で心配されてしまっていると思えば、本末転倒にも程があるけれど。私は駄目な奴だな、と思ってしまう。今はそんな考えに囚われているわけには行かないのに。
ふうっと息を吐く姿は、十五歳に見えない。もう少し大人びて見えた。大旦那様がその気質を見抜いて早期引退されたのも解る気がする。この人は多分、相当に賢しい。出来損ないの伯爵令嬢を引き受けて下さる程度には優しい所もあるし、その体調の機微を察してくれるのだから、夫としても満点だろう。夫。そう、私はこの人の妻なのだ。
だからこそ、頑張りたい。迷惑になりたくない。だったら私が言う言葉は、嘘じゃ駄目なんじゃないだろうか? ごまかしじゃ、失礼なんじゃないんだろうか?
「あの、」
「朝食が終わったらひと眠りすると良い。いつもよりクマが酷いよ、サーニャ」
いつもより? 私、そんなに観察されていた?
「は……はい。ごめんなさい」
「謝る事じゃない。僕も詮索しすぎた。君はまだこの屋敷に来たばかりなのに、そんなに早く慣れてもらおうとは思っていないよ。君のペースで進めてくれれば良いから。だからくれぐれも、身体は労わって」
「はい……」
「怒っている訳じゃないんだ。それは本当。だからどうか、そう肩を落とさないで」
優しくて良い人なのに、私はそれに返せるものを何も持っていない。宝石も指輪もドレスも、何も持たされずにここに来た。出来る事は限られている。例えば借り物ばかりの編み物。料理は知識しか知らないし、使用人の仕事を奪うのは下品とされているからそれは役に立たない。私は一体何を出来るつもりでここに来たのだろう。沈み込んでしまいそうになりながら、朝食の時間は終わった。
昼までになんとか半分まで編み上がった膝掛けは、どうにかなりそうだった。よかった、ほっとしながら昼食に出ると、起きていたね、と言われてしまいバツが悪くなる。だけど、と旦那様は笑ってくれた。
「少し元気になりはしたみたいだ。編み物は順調かい?」
「は、はい! 順調に行っています」
「なら、良かった」
にこ、と笑われて、大人っぽさと子供っぽさの両方を兼ね備えた碧眼が細められる。ごくごくありふれた金髪と青い眼の私には、その眼が眩しく見えた。魔法のように綺麗な眼。緑は出にくい色だと聞いた事がある。すぐ黒になってしまうとかで。私と旦那様の子供は何色になるのかな、なんて、また早すぎる母性が開花しそうになった。駄目駄目。今はこの人の事を一番に考えなくちゃ。
「午後のティータイムは摂れそうかな?」
「はい、あまり編み棒ばかり握っていても疲れてしまいますし」
「それは僕もそうだな。書類にばかり向かっていると肩が凝ってしまう。リラックスできる時間に妻と過ごせたら、それは最高の贅沢だ」
「……私が来る前までは、どうしていらしたんです? お茶の時間」
「一人で庭を眺めながらぼーっとしてた」
「ぼーっと」
「ぼーっと」
くふくふ笑うけれど、それって楽しいんだろうか。文脈から察するに今の方が楽しいらしいのは解るのだけれど、私なんかと一緒で楽しいなんて不思議な人だな、と思う。外に出ないから話題も乏しい、趣味の編み物の事だってこの二か月は全くしていなかった。いつも旦那様の仕事の進捗を聞いては頷くばかりで、ちっとも夫婦らしい会話はしたことが無くて。大体夫婦を知らない私には夫婦の会話と言うものを知らない。
父はいつも私をこんな風に、出来損ないの魔女に生んだ母を責めていたし、母はその怒りを、やるせなさを、私にぶつけていた。せめて一人前なら良かったのだけど、私は半人前にもならない。目立たない所には今でも痣が残っているのを、入浴を手伝ってくれるメイドさんたちは知っている。ナターリアさんが何かを言いかけて止めた。なんだろう。
昼食を終えて部屋に戻ろうとする私を、ナターリアさんが呼び止めた。使用人が口を出す問題ではないと思うのですが、と前置きをして。
「旦那様のお母様は早くに亡くなっていて、大旦那様も仕事でティータイムをとることはなかったのです。ですからおそらく奥様に、甘えているのだと思います」
「甘えて」
「はい」
ぽんっと頬に熱が上がると、ちょっとだけ笑ったナターリアさんはアナスタシアさんたちの方へと戻って行った。
甘えられていたのか。
だったらやっぱり、もっと甘やかしてあげなければなるまい。
鼻歌交じりに編み物を勧めて行くと、それはすいすい進んでいった。
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