立葵、散る

西野ゆう

咲き続けたあなたへ

「残った蕾の数だけ夢が見れるの。違う?」

 私の答えを聞いた父は正解かどうか教えてくれず、ただ残された立葵の蕾を小さな呟きで数えている。

 私はそんな父を邪魔しないように、しゃがんだ私の視線より高い位置に咲く立葵を見上げた。そして、まっすぐに伸びる立葵の先にある空を見上げた。無色の空が広がる中に、ポツンと色が置いてある。

 曇天の梅雨空の中に現れている小さな青空は、神様が開けた覗き穴のようだ。しかし、こちらからは神様の姿は見えない。

「十七。まだ茎が伸びて増えそうだけど、今数えられる蕾は十七だ」

 十七。私の歳と同じ。そして、特別な感情を与える数でもあると思う。国によっては死を連想させる数字らしい。

 私は「じゅうしち」と声に出しつつ、膝の上のトートから鉛筆とノートを取り出した。そして付箋が貼られているページを開く。

 そこには短い文章が乱雑に書かれている。誇張でもなく私にしか読めないかもしれない。いや、私にも読めない文字もある。それらは大抵、書かれた文字よりも大きな感情に埋もれてしまったものたちだ。

「あれ? お父さんの出した問題ってなんだっけ?」

 私の鉛筆の先は、ノートの紙を少し凹ませただけで横にも縦にも滑り出さなかった。最初に書くべき文章が私の頭のどこにも残されていない。

「立葵の花が咲き終わったらどうなるか。だよ」

「あ、そっか」

 私は父が言った言葉をそのままノートに綴った。そして、おかしなことに気付く。いや、自分がおかしかったことに気付いた。

「じゃあさっきの私の答えって、問題にはちゃんと答えられてなかったね」

「いいんだよ。あまり良い問題じゃなかったし」

「そうなの? でもさ、せっかくだから答えを教えてよ」

 立葵の花の方を見て私に背中を見せる父。父の背中はいつも決まって悲しみが満ちている。そして私はそんな背中から目を離せなくなる。

「立葵は梅雨葵とも呼ばれていてね。梅雨入りと共に花が咲き始めて、梅雨明けと共に花が終わるって言われているんだ。だから正解は梅雨が明ける、だよ」

「じゃあさ、梅雨が明けなかったら花は終わらない? 夢を見続けられる?」

「夢の話はお前の当てずっぽうだろうに」

 そう笑う父の背中もやはり悲しい。その背中が、少しだけ広がった。父も空からの視線を感じたのか、神様の覗き穴を見上げたのだ。

 私はそこに隙を見つけたかのように父の背中から視線を外し、ノートの上の鉛筆を走らせた。


 残された夢は

 蕾の立葵


 蕾の数と同じだけの音で短い文を書き綴ったのち、私はノートを閉じた。閉じて裏表紙側を膝の上に置くと、さっきつまんだ付箋に掠れた文字が見える。

「じんせいちかみちクーポンけん」

 私の字だ。子供の頃の。いや、私は今でも子供なのだからその言い方は正しくない。もっと幼かった頃の文字。母がまだ私と父の隣にいた頃の文字。私から母に送った手書きのクーポン券だ。

「これ、今すぐ使っても良いの?」

 それが私の聞いた母の最後の言葉だ。


 私が七歳の誕生日を迎えたばかりの夏、近所のスーパーからの帰り道で母が溜息と共に溢した。

「もう、疲れちゃった」

 手を繋いでいた母の、母とは思えない弱音に私は彼女を見上げた。眩しい太陽の下に、母の頬に輝いている雫があった。目深に被った白いニット帽も眩しかった記憶がある。

「あのね、あたしね、疲れたらヒミツの近道通ってるよ」

 母の手を下に引っ張りながら私は言った。

「人生にもないかな、近道」

 小学生になったばかりの子供に、この時の母の真意など理解できるはずもない。結果、私は残酷な言葉とプレゼントを送った。

 以来、私は夏が嫌いになっていた。梅雨の雨が降り続くように毎年願っていた。天からの涙はしょっぱくないから。

「ずっと咲き続けるなんて、無理なんだよね」

「ん、そうだな」

 不思議だ。父のその短い返事でも、私が考えていること、感じていることを理解してくれているということが分かる。

「止まない雨はないって言うもんね」

「それは普通、困難ばかりは続かないよって希望を持たせる言葉だけどな」

 苦笑であってもようやく私の方へ振り向いた優しい父の笑顔に、私の悲しみもいくらか溶けた。

 私は最後にもう一度、目を閉じて手を合わせた。天に開いた覗き穴に向かってではなく、地に横たわる母の名が刻まれた石に向かって。

「母さんは、咲き続けていたんだろうな」

「ん、そうだね」

 父の手が私の肩に触れる。

「また来月な、あおい

「また来月ね、お母さん」

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立葵、散る 西野ゆう @ukizm

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