最後の取り立て

 徹夜明けの苛立ちを紛らわせるように、自分の懐に腕を乱暴に突っ込む。着崩れたジャケットの内ポケットを漁ると、昨日取れたシャツのボタンやらどこで入れたものか分からない安全ピンなど細かい雑貨が打ち合って、じゃらじゃらとかすかに音を立てた。ほどなく取り出したいつもの銘柄の煙草を、一本口に咥える。


「火、どうぞ」

「ああ…悪いな」


 隣で待ち構えたようにライターを構える部下。今日はいわゆるカチコミという仕事の為に、うちの金融の金を使い込んだ男のアパートを訪れていた。アパートの室内は荒れている。自分が荒らしたというわけでは無く、この部屋の持ち主の生活態度に依るものではあったが。数か月前に入社したばかりでまだスーツに真新しさの残る部下が、同じくあどけなく見える顔でにっと笑って、こちらに会釈する。

 どうやら自分は、金融に勤めるカチコミ専門の取り立て屋として、それなりに部下や上役の信頼を集めているらしかった。だが、自分でこの仕事を誇った事は一度もない。当たり前と言われる程度の事かもしれないが、普段からしかめているせいで眉の間には深いシワが刻まれ、仕事柄生傷も絶えないせいで近所の子どもにすら嫌われる有様だ。子どもに遠巻きにされるという体験は、くだらないようでなかなか気持ちに堪えるものがある。

 加えて、昼夜も分からぬような過酷な取り立ての連続。車の長距離移動もいい加減腰に来る年齢になった。色々と潮時なのを感じ始めたのも、無理らしからぬことだと思って欲しい。


「ぐ…ぐぅ…」


 奇妙なうめき声が目線の幾分下のほうから聞こえてくる。威圧するために掛ける事にしているサングラスを親指で押し上げて、何万回もそうしてきたように鋭い目つきを作って声のほうをねめつける。傷だらけの顔を腫らした今日のターゲットが振るえあがり、隣の部下が腰を曲げて下品な笑い声を上げた。




「なーんか、違うんだよ…」

「またその話か、おっさん」


 自分を唯一怖がらない子どもである彼の隣で、自分は噛み煙草を咥えながらブランコを揺らす。

 昼下がり、徹夜の仕事を終えた自分は、嫌な思い出ばかりの一夜から寝付くことも出来ずに、非番の日を近所の公園で過ごしていた。当初こそ遠くから自分に視線を投げてはこそこそ話をする主婦連中が疎ましかったが、彼女らも強いものである。一か月もそこに通ううちに、子どもから目を離して遊ばせる上に世間話まで平気で打ち上げるほどになった。

 それでも先も言ったように自分に寄りついてくる者などおらず、この近くに住んでいるらしい彼が専ら唯一の話し相手となっていた。


「大体よぉ…俺のようなモンの仕事が必要になる世の中がおかしいってんだよ」

「仕方ないでしょうが、大人の世界には色々事情があるんだよ」


 自称十一歳らしからぬ事を平気で言い始める彼である。

 彼は世間で言う所の鍵っ子というものらしく、しかも体が弱いせいでろくに小学校にも通えずにいるらしい。団地住まいのせいで隣近所の家や子どもとの繋がりもなく、両親は彼の治療費を稼ぐために慈善活動や仕事に出ずっぱり。渦中の彼がこれだけ子どもっぽくない成長を遂げるのも、まあ仕方のない所なのかもしれない。しかし。


「で、お前さん、また今日も家を抜け出してきたんかい。寝てなくて良いのか?」

「寝てれば病気が治るというならそうするけどさ。悪くなるばっかりなんだよ。わかるでしょおっさんにも」

「その噛んで含めるような説明の仕方はどうかと思うぞ」


 素性を知ればいささか同情の余地はあるが、いかんせん生意気に過ぎるのではないか。ついつい仕事向けの顔で睨みつけると、こちらをちらっと見た主婦の一人が短く小さい悲鳴を上げて、慌てて目をそらすのが視界の端に捉えられた。こちらも慌てて片手でそちらから目を覆い咳払いする。その拍子に噛み煙草が零れ落ちて、砂まみれになって転がった。

 彼は少し笑ったらしい。気まり悪くなってぼりぼりと耳の後ろを掻く。

 まったく、彼の前ではまるで自分のほうが子どものような気がしてくる。今にしたって狼狽している自分の前で、この自称十一歳は平然と口の片端をつり上げているのだ。


「で、おっさんは今日も昼ごはんは独り?」

「今日”も”とか言うな。独りだよ」

「良かった。じゃあ一緒に食べようよ。安い弁当でも良いからさ」

「…お前、一度ご両親と話をさせて頂きたい所だぞ主に教育方針について」


 だが自分もそれなりに会話を楽しんでいるからこそ暇さえあればここにきているのである。恐らく彼も同じなのだろう、珍しくはしゃいだ声を上げたその子どもは、少し高い位置のブランコから慣れた仕草で飛び降りると、はっとしたような顔を作った。短パンのポケットをくしゃくしゃとまさぐって、何かを取り出してこちらに差しだす。


「これ、おっさんに。ママとパパから」


 よくよく見ると、それは五百円硬貨二枚であった。どうやら心配していたよりもマシな教育方針を取っているようだ。


「受け取れねえよ。ガキからまで取り立てしてたら今日の非番の意味がねえ」

「おっさんは硬いね。堅気でもないのに」

「お前が大人になって消費者金融で金を使い込んだ時までのツケにしといてやるっつってんだよ」

「なにその絶望的な未来予想」


 彼はけらけらとそこは子どもらしく笑うと、硬貨をポケットに大事そうにしまい直した。自分も狭いブランコの座席から腰を上げ、伸びをする。悪くは無い気分だ。彼が手を伸ばしてきたので自分の手を差し出して、小さな手がそれを握るのを待って近くのコンビニへと歩き出した。



 暗い病棟。深夜を過ぎても尚暗い廊下の明かりが、今にも消えそうなくらいに心もとなく揺れている。息を切らせて膝に腕を掛け上体を持たれかけさせた自分は、緊急治療室のかろうじて閉め忘れられたカーテンの隙間に見知った彼の顔を見つけ、青い額から冷や汗を流した。


「なんてこった…なんてこったよ」


 今日も取り立てが終わり、やや昼を過ぎてはいたが話し相手を求めていつも通り公園を訪れた。幾分深刻そうな顔で立ち話していた主婦の一人が恐る恐る近寄ってきて、普段の話し相手の子どもが入院したらしい事を告げた。

 その瞬間無我夢中で駆け出して、町内の病院と言う病院をしらみつぶしにあたり、彼の氏名からようやくここに辿り着いたのが十数分前。それでもなぜか汗は止まらず、心臓が嫌な音を立てた。悪い予感が胸いっぱいに広がって行くのを打ち消すように、頭をガンガンと殴る。どうして昨日の段階で彼の異変に気付く事が出来なかったのか。こんな未来があって良いものか、神よ。


「…あの」


 周りも見えなくなっていたらしい、いつの間にか一メートル手前程まで人が、しかも二人近づいて来ていた事にようやく気付いた。まだ若い夫婦らしいその男女の身恰好を見て、すぐに察する。彼の両親だ。

 こちらが相手の身分に気が付いたことに、相手も気付いたらしい。少し柔らかい表情になった男性が、女性と共に深々と頭を下げた。


「あなたですね、息子がいつも話していた取り立て屋さんというのは。いつも大変お世話になっていたと伺っております。息子のために色々して下さったそうで…」

「いや、そんな。そんな俺は…」


 目の裏が熱くなり、自分は慌てて両手で顔を覆った。


「目の前でこんなことになってるお子さんに、なにもしてやれてねえです」

「良いんです」


 やけに落ち着いた父親の声に、両手を卸してよくよく見れば、彼の両親は疲れ切った顔をし、その表情には救われたという気持ちすら感じられた。両親らが、ではない。”彼が”救われた、という表情だ。


「息子はずっと病気の発作と学校で友達も出来ない孤独に苦しんでいました。…それを幾らかでもあなたが軽くしてくださった。私達こそ息子のために何もしてやっては来ませんでした。ただ命を長らえるのが精いっぱいで」


 父親が、肩に掛けた鞄から大切そうに何かを取り出した。五百円玉ばかりが光る、透明な貯金箱だった。


「息子にはいつも昼食代を持たせていたのですが、あなたがご馳走して下さっていたそうで。息子は、いつかあなたにこのお金を返す事が出来る事を楽しみにしていました。…息子はもう助からない、と先生がはっきり仰いました。だから、受け取ってあげてください」


 情けない事に膝が笑った。だが、踏ん張ってなんとかまっすぐに彼の両親に向き合う。涙を耐えた目は、いつものように鋭く細められていた。


「たしかに徴収いたしやした」


 両親がまた深く頭を下げ、自分はカーテンの間から覗く彼の顔を一瞥して、静かにそこを去った。


 自分が取り立て屋を辞め、介護士の資格を目指し始める一か月前の事だった。

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