野花の騎士

 身を切られるように寒い昼だった。太陽はもうとっくに天辺に上り、薄雲の向こうから必死で地面を熱しているというのに、冬の空気は何も意に介していないかのように凍てついた風を野山に吹かせる。それでも、エアコンの室外機も無く地面がコンクリートで舗装されていない田舎のこの地にあって、寒さそのものは都会に居た頃に比べれば幾分マシに感じられた。

 新聞紙の上に腰を下ろして投げ出していた脚をぶらぶらと遊ばせながら、僕は今日もあの子の事を考えている。

 目の前から徐々に下って行く山の腹である草原が、冷たい風になびいてかすかに波打つのをぼんやりと見つめていた。


 幼い頃から僕は体が弱かった。昔なじみだったあの子が、一回りも二回りも小さい体で、図体ばかり大きな僕の使用人のような、後見人のような、そんな役割を果たしてくれていた。

「私は君の騎士だから」

 事あるごとに礼や詫びを口にする僕に、その子は誇らしげに、どこか腹立たしげにいつも同じセリフを口にした。僕は尚更恐縮してしまって、でも温かい気持ちになったのを覚えている。


 両親は僕の体に巣食う病の名まで知らされていたらしかったが、どうやら良くない種類の病気だったようだ。僕の一番古い記憶である四歳の誕生日の時からもう、両親仲は険悪でありいつも口論を繰り返していた。お前が悪い、あなたのせいだ。なにかにつけてそんな風に言い争い、しかし両親ともに僕を愛していたらしく離婚をすることはついぞなかった。僕の病気に立ち向かう時だけは夫婦手を取り合い、ずいぶん高額な治療法や珍しい治療薬を求めて無理をしたらしい。僕が小学校に上がる前にばたばたと両親のほうが先にあの世に逝ってしまった。

 それからは、幼稚園でずっと一緒のクラスであったあの子がずっと僕の親代わりだった。


 思い返せば小学校の入学式のあの日、周囲が親子そろってあちこちに幸せな群衆を作る中で、僕は独り手持無沙汰に桜の木の元に突っ立っていた。今に比べれば春先の事で幾分和やかな気温の下、しかし昨日飲んだ薬が切れかかっていたせいか僕はじっとりと汗ばむ手でランドセルの肩掛けを握りしめていた。熱いわけではなく、体の表面が酷く冷えていた。それなのに心臓辺りがどくどくと脈打って、不快な熱をまき散らしている。

「大丈夫?」

 ああ、いつもそうだ。僕が何か困っていたり、解決法を求めているときには決まってあの子が目の前に現れる。

「ほら、今日の薬。水買って来たから飲んで」

 そして天使のように完璧な解決法を示してくれるのだ。



 足元に生えていた小さな花を摘んでみる。まるであの子のように可憐で、力強く、しかしあまりにも小柄な花だった。僕はいつものように甘酸っぱさと、花を摘み、同じようにあの子を摘んでしまったことに対する苦い後悔に身を委ねる。幼い頃は熱が出て眠れない時にはいつも、傍らにあの子がいて小ぶりな冷たい手で僕の目に蓋をしていてくれたっけ。

 思い出して自分の手を瞼の上に置いてみるものの、それはやけに熱を帯びていて、ちっとも心地よくは無かった。もう一方の手につまんだままだった野花を見やり、さて、これは押し花にしてしおりにでもしようかとその場から立ち上がった。


 くらり、といつもの立ちくらみ。

 それも毎回の事なので一切思うところは無く、ただ以前のように支えてくれるか細い手が無い事をひたすら悔やんだ。


 僕が高校に上がる頃、親の遺した金が底をついた。それまで身よりも近くの縁者も無い身のままなんとか暮らしてはいたが、さすがにそのまま都市部に住まい続けるわけにもいかず、その頃から親身になってくれていた一族お抱えの弁護士の計らいもあって僕はこの田舎の山村に療養も兼て身を移した。

 最後のお別れの瞬間、あの子はただ寂しそうな声で、一言「いつか迎えに行くから」と言ったんだった。

 その時の彼女の表情がインクで黒く塗りつぶされたように記憶の中から消えていた。自分にとって思い出したくない程辛い表情だったのか。



 舗装されていないボコボコと曲がりくねった山道を下りながら、軽く歌を口ずさむ。両親が小さい頃に買ってくれたちゃちな特撮のヒーローの歌だ。あの子も好きだった、完全無欠のヒーロー。”僕の騎士”の好きだった英雄。

 小学校の帰り道、音程の外れたハーモニーを奏でながら二人威勢よく家路をたどった。

 低木の茂みに、人影を察して走り去っていく小動物たちがかすかな振動を与え、僕の下手くそな歌に梢の伴奏を付ける。細く走り抜ける風は吹奏楽器の音色のようだった。

 この山村に来てから、そんな風に細かな季節の機微によく気が付くようになっていた。都会では意識し辛いという事以上に、そう言ったものしか自分の気を紛らわせてくれるものが無い、というのが正しいのだろう。だがおかげで初めは打ち解け辛かった農家の古い住人たちとも、必要に迫られて何度か会話するようになり、どうにか近所づきあいをする程度の間柄を保てた。自分ひとりの為に一人分の半分程度の食事を用意して、それを黙々と平らげ、後の時間は掃除や洗濯をして過ごした。それでも余った時間はこうして野山に出て涼む。

 山奥のこの場所は夏も冬も大して変わらず過ごしやすく、時々やってくる嵐の晩にも隣近所の者達がわざわざ見回りに来るためにそれほど心細さはなかった。


 しかし、起伏もなく変わらない毎日が、少しずつ自分の心に暗い影を広げて行った。一生このまま世捨て人のような生活をして、そしていつか体が限界を迎えて死んで行くのか。

 気が付くとそんな事ばかりが頭を巡っている。


 裾野を下り切ると、大きな岩が目に入る。自然にそこに転がっているわけでは無く、山仕事に出掛ける際の要するにベンチとして、山村の者達が利用しているのだ。僕はいつものようにそこに座って、隣に生えている今は丸裸の桜の大樹を見上げた。いつもよりも急いで下ってきたためか、わずかに肩が上下して息が切れた。

 山の天気は変わり易い。そして、数年住まっていると、天気の微妙な変化の兆候が肌で感じられるようになっていた。思った通り、今薄曇りだったと思った空から、しと、しと、と冷たいしぶきが降り落ちてくる。まずい。考えた以上に早く雨になりそうだ。立ち上がろうとすると、また眩暈がした。

 しかし今度の眩暈はいつものものよりもひどく吐き気を伴うもので、僕は桜の木に身を預けてじっとその波に耐える。

 その間にも雨は急速に強くなり、すぐに周囲も確認できない程の豪雨に代わる。手から押し花にしようとしていた花が零れ落ち、僕は桜の木の根元に力なく蹲った。



「駄目。まだ行かないで」

 喘ぎのような高い声に目を開いてみると、自分の体が宙に浮くようにして雨の中を移動するのが感じられた。どうやら自分は誰かの肩におぶさっているらしい。長身で細身のその人物は、より背の高いひょろひょろの僕を担いで、一歩一歩苦しそうに土を踏み締める。懐かしい匂いがした。あの子がいつも使っていたシャンプーの香りだ。

「もうちょっとだから。大丈夫だから」

 まるで自分に言い聞かせるようなその子の声を聴いたところで、僕の意識は再び闇に沈んだ。



 次に目を覚ますと、体がぐったりと重かった。どうやら熱も出ているらしい。目の周りがじんわりと熱く、生理的な涙が溢れて視界がにじんでいる。しかし、どうやらそこが山村に設けた自分の自宅であるらしいことが分かった。

 自分とは違う寝息を感じてそちらをなんとか見やると、見覚えのある面立ちの女性が、びっしょりと塗れた格好のまま頭からバスタオルを被ってうつらうつらしている。ああ、やっとこの時が来たのだ、と思った。その顔を見つめていると不思議と熱が引いて行き、目に溜まっていた涙があふれ零れ落ちた。自分の枕元に、あの時確かに手からすべりおちた野花が添えられているのを見つける。


 女性がこちらの視線に気づいたようにゆっくりと身を起こし、そして、記憶のものよりも幾分低いトーンで僕に語りかけるのを満たされた気持ちで聴いていた。

「大丈夫?」

「うん。君は?」

「大丈夫。だって私は君の騎士だから」

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