彼と私の嘘

「まだ言ってない事があるんだ」


 年の終わり、真っ暗な夜道を初詣の神社に向かって歩きながら、彼はそんな風に話を切り出した。

 ちょうど除夜の鐘つきが始まった所らしく、遠くから聴くとどこかしら間の抜けたような音が断続的に冷たい空気を震わせる。子どもの頃はどうしてもこの鐘をつきに行きたくて、親にせがんではみるものの自分が夜遅くまで起きていられずに結局この歳まで叶わなかった。あの頃はまだ、たくさんの可能性があって、そしてその可能性の先に綺麗な未来があると私達は誰も疑っていなかった。

 河の流れが対岸を削り取るように、私の思いも記憶も時間と共に少しずつ擦り切れて、今では未来という物に希望を掛け合わせて考える事は減った。これが大人になるという事なのだろうか。


 今年は一年を共に過ごした彼と私とで、年が変わる瞬間に神社で願掛けをしよう、という話になっていた。


 彼がポケットに突っ込んだ両腕に、恋人の自分はついぞ腕をからめるなどしたことがない。クリスマスのデートでもこんな風に、ただ二人、黙々と街を散策していたように思う。

 甘い空気は既に無くなっていた。それでも私も彼も、相手との関係を分かちがたく思っているのがどんな瞬間にも感じられた。少し先を行く彼が、時々ちらちらとこちらを振り返ってよこす視線や、彼から贈られたミトンの手袋を私が手にはめたままぎゅっと握る時の温かさ。さりげなくペアルックをしようなどとうそぶいてお互いの腕に巻いた朱色のリストバンド。

 そう、それらは思い出という鎖となって、私達を永遠に繋ぎ止める。そう確信していた。


「君の他にお付き合いしている人がいるんだ」


 私の確信は単なる期待でしかなかったのだろうか。



 彼と言う人物を知ったのは大学のサークルで一緒になってからだった。

 文芸サークルなどという名目で集まっては酒を飲むような不真面目な私達ではあったが、将来、大人、社会人、というような言葉がいよいよ目前に迫ってくることに、勉強ばかりして来た若者は耐えられないのだろう。

 私も例にもれず、最初はきっちり受けていた講義にも単位が取れるギリギリの時間数しか通わなくなり、残った時間を友人との旅行や、その費用捻出のためのバイトにつぎ込むようになっていた。どこにでもある話である。周りもそうであったから別に自分が情けないとは思わなかったし、こんな風にしていたっていつかは大人になり、子どもを産み、老いて死ぬのだという事実もどこかで客観的に受け入れていた。


 だから、達観なんてしないように、今を、とにかく今その瞬間の刹那を追い求めた。

 何度目かのサークルでの飲み会に、彼がやってきた。


 初めて目にした彼は、わずかな既視感と、背が高いのに強く幼さを感じさせる面立ちをしていた。トレーナーにジーンズというラフな格好で、しっかり整えられていないらしい髪があちこちではねている。見た瞬間、ああ、この人は女性付き合いや近所付き合いの下手な、退屈なタイプだ、と思った。

 しかし彼は、飲み屋に入ってくるとくるりと面子を見まわし、私に目を留めた途端満面の笑顔で言ったんだった。



「”やあ、君はやっぱり僕の運命の人だな!”」

「…なんだい?」

「覚えていないならいいの」


 いつかこうなる事も、結局自分は予想していたのかもしれない。ただ、出会った頃からずっと優しかったこの人の態度に甘えて、ずるずると見ないふりをして結論を伸ばしていたのかもしれない。

 彼が当時”運命の人”などと言ったのは、実は小中学校と同じ学年で過ごし、彼のほうが私に好意を持っていたからだと以前彼の口から知らされた。高校になって別の学校に通うようになっても、時々近所で顔を合わせるたびにどきどきしていたんだとか。…私は一切気付かなかったのに。


「その人、どんな人?」

「うん…?」


 彼は少し照れたように笑ったらしかったが、ちょうど彼の向こうの街頭からの光が逆光になって表情はよく読み取れなかった。


「なんというか、君と正反対の人だよ。主体性があって、ちょっと乱暴で、でもだからお互い気兼ねせずに済む」

「私には気兼ねしてたのね」

「君が気兼ねしてるんだよ」


 僕にね。

 相変わらず彼は淡々と歩きながら言葉を並べる。まるで、ここに来る前に全て用意していた言葉であるかのように、揺らぎなく、明瞭な判決文。


「…私、あなたに何もしてあげられなかったわ」

「そんなの僕だって同じさ。きっと、お互い相手を大切にし過ぎたんだよ。失いたくないって、思い過ぎたんだ」

「その人のほうに行くのね」

「君と居ると辛いからね」

「そう…」

「でも」


 気が付くといつの間にか神社の境内に辿り付いていた。深夜であるせいか、ややトーンを落とされた喧噪が私と彼を包んで行く。足元に感じる砂利の感覚がやけに懐かしかった。


「僕は君と居られた時間幸せだった。だから、ごめん。君はもっと良い人と幸せになるべきだ」

「勝手なのね」

「ごめんね」



 ふと顔を上げると、少し前方でこちらに手を振っている女性の陰が見える。ああ、そういう事か。

 もう、どうしたって終わりなのだ。


「湿っぽいのは嫌いなんだ」

「…そうね。今までありがとう」

「こちらこそ」


 彼が前方の女性に駆け寄る。私はそれを確認した所で背を向けた。

 分かっていた。いつだって相手を好きだったのは彼のほうばかりで、私はそんな彼の好意に付け込んでいたのだ。リストバンドを巻いた腕がジンジンと熱かった。それでも、何か支えが取れたように体が軽くなるのを感じた。曖昧だった私の、曖昧だった部分が一つ、確かな種となって自分の奥底に根付く。きっと、今度サークルの飲み会でまた彼に会っても笑えるだろう。

 そんな下らなくも退屈しない日常を、私は生きていくのだろう。



「相変わらずお人よしね、あんた」


 傍らの女性がぼやくのを、僕はちょっと泣きそうになるのを耐えつつ受け流す。


「ずっと好きで、今も好きなんでしょ?」

「うるさいな。姉さんには散々説明したろ。僕と居たら彼女が駄目になっちゃうんだよ」

「はいはい。でも、覚えときなさい。あんたも幸せになる権利くらいあるのよ」


 鐘の音が夜空に吸い込まれていく。

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