昔日の騎士
あの頃、兄は騎士で、私はお姫様だった。
お父さんにせがんでかってもらったちゃちなおもちゃの剣を手に、その当時納屋としても使われていたボロいガレージの中を駆け回った。ビールのプラケースやタイヤを積み上げて城を作り、その上に登っては、兄と将来を誓った。
「一生、あなたをお守りします」
兄はガラクタの城の上に立つ私の前に跪き、頭を垂れる。プラスチックでできたティアラを冠されて、私は満面の笑みで頷くのだった。
「許す。いつまでも私の傍にいなさい」
あの頃の兄は、もういない。
今、同じ家に住んでいる男は、パッとしない高校生活に見切りをつけて部屋に閉じ籠り、ゲームを作っているんだか小説を書いているんだか、とにかく一日中パソコンのキーボードをカタカタと叩いては、声にならない呻きを漏らしている。
彼の部屋の扉の隙間からその後ろ姿を覗くたびに、感情とも言えない悍ましい疼きが胸に突き上げた。
「嘘つき」
あの頃の兄は、もういない。
その日はバイト先の居酒屋で、酔ったおっさんに絡まれて危うく尻を触られそうになり、一発その顔を殴ってことを収めた帰りだった。
猛烈にむしゃくしゃしていた。そのおっさんに対してもそうだが、店長ももう一人のバイトの女の子も、私ではなく客の味方をしたのである。
「お客様にその態度はないんじゃない」
床に擦り付けるように頭を下げて謝らされたあと、店の裏手で詰められた。
「金を払ってもらってるのはこっちなんだからさあ…そのお金の中から君のお給料が出ているわけで。わかる?」
「私の体を触る対価としてお金をもらってるわけじゃないです」
憮然として言い返した私に、店長は深々とため息を吐いてみせた。
「そういうことじゃないんだよなあ。まあ、君はまだ社会に出てもいないわけだからわからないんだろうね」
いっそこいつのことも殴って気持ちよく店を辞めてやろうかと思ったが、なけなしの理性が自分の拳を押し留めた。歯を食いしばってその場は頭を下げ、恐々と顔色を窺ってくる同僚の子の視線を振り切って帰宅した。
今日もあいつの部屋の窓には煌々と灯りが灯っている。…このところ昼夜を徹してずっと何かをやっているようだ。部屋の前を通りかかるたびにキャラキャラしたテンポだけの音楽が漏れ聞こえてくるし、どの時間に外から窓を見上げても灯りが消えていない。ちゃんと寝てすらいないんだろうか。
両親が若い頃にローンを組んで買ったという築三十年の中古物件は、あちこちが傷み始めていたもののまだ十分に使用に耐え、私が苛立ち紛れに軽く壁を殴ってもびくともしない。同じように鈍感極まる感性を持った両親も、私の苛立ちにもあいつの放蕩っぷりにも何もリアクションを起こすことなく、今日も平然と床の間で新聞を読んだりお茶を入れたりしている。
どいつもこいつもクソ野郎だ。
ドスドスと足を鳴らしながら廊下を進むと、今日もあいつの部屋の扉がかすかに開いていて、そこから何かの音が漏れているのが耳に入った。
いつまでそうしているつもりなんだろう。現実を見ろよ。あんたは勇者でもヒーローでもなく、高校三年生の、受験間近でドロップアウトして部屋に閉じこもっている引きこもりの…私の、お兄ちゃんで。私の、騎士だったんじゃないのかよ。
どこに行っちゃったんだよ。一生私のそばにいると言ったじゃないか。嘘つき。嘘つき。
涙の滲んできた目に、通り過ぎる一瞬部屋の中の様子が過ぎる。
天井からロープがぶら下がっている。その先に何か大きなものが、引っかかって揺れている。部屋を煌々と照らしているパソコンの画面には、どこかで見たような女の子のイラストと、その前に跪く線の細い騎士ーー。
「…お兄ちゃん」
猛然と扉に突進して部屋に入ると、あいつの体が、私の兄が、天井の梁から垂らされたロープの先で、ぶらぶらと小刻みに揺れていた。
「…お兄ちゃん!」
そこからはもう、夢中で。
そこら中からものをかき集めて足場を積み上げ、その上に登り、硬く結ばれたロープの結び目をなんとか解いて。ぐったりする兄の体を抱き止めて、床に横たえた。
恐る恐る兄の胸部に耳を当てると、心臓はどうにか動いている。呼吸も、浅いものの途絶えてはいない。どうやら首を吊った直後だったようだ。
高校の課外で習った心臓マッサージの手順を思い出して、兄の胸に手を当て何度か強く押すと、そいつはゴホゴホと咳き込んで、大きく呼吸し、目を開けた。
「…あ?」
「何してんだよ…何してんだよお前…」
私の怒りの形相を見て、数秒ことの次第を考えたらしい兄は、まつげの長い目を伏せて私から目を逸らす。この後に及んでそれかよ。私が今まで何を考えて、お前に何が言いたかったか。わかるか。わからないのか。
「…私がどれだけ心配したか」
ようやく絞り出した掠れた声に、兄はぴくりと身を震わせ、やがて小さな声でつぶやいた。
「ごめん」
パソコンのモニターに映し出された女の子と騎士のイラストは、兄が描いたものらしかった。
騒ぎを聞いて駆けつけた両親にこっぴどく叱られた兄は、それから少しずつ学校に行くようになり、今は受験間際だと言うのにサボった分の勉強を猛スピードで巻き直しているらしい。少しずつ自分のことを話してくれるようになった。
兄が高校二年の冬。いじめられていた生徒を庇ったことが原因で、兄を巻き込んだいじめが始まったこと。その陰湿な手口は、いじめられている当事者の気持ちを深く抉ったものの、教員にもPTAにも露見しないものであったこと。元々いじめられていた当の男子生徒が、いつからか兄をいじめる側に加担していたこと。
「何も信じられなくなってしまった」
兄は冷蔵庫から買い置きしておいたコーラの缶を取り出しながら、ぽつりぽつりと語ってくれた。
「せめて自分の生きてきた証を、何か残してからいなくなろうと思ったんだ」
それから小説を書いたりプログラミングを独学したり、イラストを描いたりと色々やったらしい。兄にそれら膨大な作品を一つ一つ見せてもらった。苦しみが滲み出た作品群からは、兄の当時の苦痛がありありと伺えた。
「だからって、家族にまで何も言わずに死のうとしないでよ」
「悪かったと思ってる。でも、あの時は死ぬことしか考えられなかったんだ」
こっちにもコーラを一本投げて寄越して、二人でボソボソとそれを啜った。甘ったるい液体が、シュワシュワと泡を立てながら喉を流れ落ちていく。
「ごめんな」
「私も、悪かったよ。何も知ろうとしなかった」
「なあ、覚えてるか。ちっちゃい頃、よくガレージで遊んだよな」
兄の目に、昔日の光景がゆっくりとよぎった。
「あの時誓った言葉、思い出したよ。もう、あんなことはしない」
「許す。許すから、ずっとそばに居て」
兄はゆっくりと頷いて、窓に差す西陽に目を細めた。
おかえり、私の騎士。
ーーー
三題噺ガチャ
「ガレージの中」
「剣」
「遊ぶ」
より制作
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