白い電槽

 秋雨けぶる初秋も過ぎ、この所秋晴れの天気が続いていた。ただ、僕が引きこもっているこの部屋まで日が差し込むことは無く、あでやかな光は皆遮光カーテンですっぱりさえぎられてしまっている。申し訳程度に灯った電燈が、時折点滅しては僕と机の影を壁にちらつかせた。

 部屋から滅多に出なくなり、通販で食料や水などすべての日用品を揃えて生活するようになってどれくらい経っただろう。最初の頃は一か月が経ち毎月一日を迎えるたびに憂鬱な気分になったものだが、自分の誕生日すら忘れてしまった現在に至っては、生とはつまり惰性だった。時折聞こえてくる雨音を聞いて外の天気を知る程度で、他に興味がある事と言えばパソコンの決して大きくない画面の中で展開される、仮想の住人とのやりとりばかりだった。


 いじめ、というにはあまりに些細で長過ぎる苦痛であったと思う。中学の頃、元々病気勝ちだった母が亡くなり、めっきり元気を失くした父を励ます事も出来ない自分が情けなく成って、僕は自ら命を断とうとした。飛び降りという方法を選んだのは、それが割かし確実な自殺法であると聞いた事があったからだ。しかし、どういうわけか飛び降りに選んだ学校の屋上で煙草をふかしていた体育教諭に見咎められてしまい、それで目論見が失敗したどころか口の軽い教諭づてに、僕の自殺未遂は瞬く間に学校中、世間中に広まった。


「お前は私を最後において行こうというのか」


 父が僕に掛けた最後の言葉だった。それを機に、僕に直接話しかけてくる人間は全く居なくなり、手を出してくる人間がいない代わりに僕の半径二メートル以内に近づく者も減った。時折、教師から言付かった用事などでいやいや近づいてくる同級生も居たが、その目にありありと「気持ち悪いヤツだ」という僕への感想が浮かんでいた。

 父に至っては、あからさまに僕を避け始めた。

 夜遅くまで飲み歩くようになり、僕が寝静まったと思しき時間まで帰ってこない。それも、帰ってくればいい方で、時折三、四日という長さで家を空ける事すらあった。そして、僕が何か話しかけようとするたびにただ僕の存在を無い物と思い込もうとしていた。


 母が亡くなった当初から枯れてしまっていた涙は、やはりもう流れる気配もなかった。

 父が一週間帰らなかった翌日、僕は高校に出掛けるのを辞めた。



 誰の感情も流れ込まないよう、ただひたすらに自分を遮断したかった。毎日眠ったようなただ横になっていただけの様な、曖昧で浅い眠りをむさぼり、後の時間はネットの人付き合いに興じた。楽だった。ボタン一つで目の前からも、自分の手の届く所からも永遠に消してしまえる彼らとの関係が。

 そして今日も、僕は最近根城にするようになったチャットの総合サイトにアクセスしていた。訪問者が自由に設置できるチャットルームの一つに、見知ったタイトルのものを見つける。


「魔巣窟」


 自分ももう二十歳間近だったと思う、無論こんな中二臭いタイトルは失笑ものでしかなかったが、しかしだからこそそこに行着いたのだろう。いつものようにタイトルをクリックしてチャットルームに入室する。



――黒さんが入室しました

黒:オハ。

白:おはよう。今日も良い天気だね

黒:ン。昨日のMKJの放送見たか

白:見た見た。相変わらずクールなんだけどネジが外れてきてるよね、彼。

黒:そね。ぼちぼち潮時の匂い


 ここでの自分のハンドルネームは「黒」という。なぜかそのルームに居つく人間のハンドルネームは色の名前、という暗黙の了解があり、そしてその名前の意味の軽さ、背負う必要すらない軽薄さが僕にとって心地いいのだった。


白:で、黒君はちゃんとご飯食べた?

黒:まだ。

白:駄目だよー。頭を動かすにも糖分が必用なんだからね。ほら、朝食朝食

黒:うぃ。


 白はこのチャットルームの面子で最古参の人間であり、誰も知らない元々のルーム開設者の後をついでこのルームを管理している。…らしい。

 というのも、自分も他の面子も、大体が社会や友人、家族に興味が持てなくなってしまった人間ばかりであったから、余計な詮索などはしなかったし相手の情報を過度に聞き出そうとする者も居なかったのだ。先ほどの話は白と他のメンバーの会話から憶測した情報だった。


 白は、明らかに他のメンバーとは違う。僕だけでは無く他のメンバーにも積極的に干渉するし、文字の羅列から見ても感情豊かで世話焼きだ。

 そして、間違いなく白のおかげでこのチャットルームは平和を保てていた。


――キイロが入室しました

キイロ:どもども!

白:キーちゃんおはよう。

キイロ:白さんどもども!

キイロ:…黒さんの反応無いぞショック!

白:彼、今朝食ROMだよ。

キイロ:あちゃ!

白:キーちゃんはそそっかしいからログを確認しなさいって毎回言ってるでしょ(笑)

黒:sうまん食べながらうtてる

白:黒君は良いから慌てず食事を終えなさい(笑)


 始終こんな調子なのだった。ちなみに出社・登校時間を少し過ぎたこの時間帯には大体この三人が集まる事が多い。そこから大体白とキイロの生活も想像が出来たが、僕にはどうでもよかった。ただ、年齢も性別すら分からないのに、酷く身近な存在として彼らを観ている事に最近気付いていた。

 あえて傷に触れないというその行為が、お互いの傷を認め合う事に繋がっている、と分析できるだろうか。とにかく、その場にいる時だけは僕も、ただの「黒」であり過去と未来を背負わされた人間である事実を忘れられた。


 白に生活についてあれこれ言われるようになったのは実は先月辺りからだ。うっかりと、「今月もうカップ麺を買う金しか無い」などと発言してしまった所から、やけに甲斐甲斐しく世話を焼かれるようになった。その感覚は、小学校低学年頃までの記憶におぼろげに残っている「母親」という物の感覚に似ていた。あくまで代替品、模造品でしかないのは分かっていたが、僕はよほど弱っていると見える。今はその決まりきったやり取りに安らぎを感じている。

 白がルームにいない時にこっそりキイロとも話したが、キイロも白の事を姉や兄のように思っているらしい。なんとなく白がその場にいるだけで、僕たちは笑っていられた。

 相手の笑顔すら想像の中にしか存在しなかったけれど。


キイロ:あ! あのあの、

キイロ:僕今度漫画賞に

キイロ:応募してみようと思うんですよ!

白:発言はまとめて。(笑)

黒:すご。どこの賞

キイロ:すみません!>白さん えっと週刊〇〇の新人賞です!

黒:デビュー狙ってるの

白:珍しく食いつくねー黒君

キイロ:なんかー、僕も変わらなくちゃなって思って! とにかく挑んでみる! 第一歩! 的な!

白:良いねえ。キーちゃん頭の回転速いし面白いし、向いてるんじゃない?

黒:すごいな

白:黒君感心しまくってるね(笑)


 実際、キーボードをたたきながら自分の頭に浮かんできたのは、「キイロ」に対する憧憬だった。僕はもう長い事自分の可能性などに向き合ったことはない。ただ惰性で生き延び、その日をなんとかしのぎ切り、明日が来ることに怯えているだけ。

 キイロは以前から明るいキャラで僕たちに接していた。だけれど、今までのキイロからはどこか、怯えというか、そう言う明るい振る舞いをしていないと自分を表現できない弱さを感じていたのに。もしくはそれは、僕が勝手に思い込んだ、期待した「キイロ」の姿だったのだろうか。


白:でも、漫画描くって大変なんでしょ? キーちゃんって絵得意だったっけ

キイロ:全然! 小学生くらいに一度写生で賞とったキリです。でもこれから上手くなりますよ!

白:賞とったなら全然って事はないでしょ。がんばれー

キイロ:ありがとうございます!

キイロ:…黒さんからも励ましほしい!


 「うん、頑張れ」

 そうキーボードに打ち込めばいいだけなのが解っていたのに、僕の手は傍らのマウスを握った。


――黒さんが退室しました


 そう画面に表示されたのを確認すると、僕はのろのろと立ち上がりもう何週間も敷いたままの布団にもぐりこんだ。


 なぜか、こんな時なのに涙が出た。

 訳も分からないままただ泣き続ける。このまま体中の水分を出し切って死んでしまえれば良いのに、と考えて、そう考えると更に勢いよく涙が溢れてくる。


 その日は布団に入ったまま声を殺して泣き疲れて、眠ってしまった。




 目が覚めると、自分では触れた記憶のないカーテンが開け放たれていて、部屋に溜まっていたゴミ袋がいささか減っているようだった。すぐにチャットでの一件を思い出したが、あれから何日眠っていたのだろう。久しぶりに深く長い眠りについていた気がする。いつもの癖でフラフラとパソコンデスクの前に向かったが、しかし電源を入れるつもりにもなれず、それでも不思議と苦痛も感じないまま流れで部屋のドアを開けた。居間に水でも飲みに行くつもりだったが、ドアのすぐ前の廊下に紙片と共にやけに凝った食事が、ラップをかけられて置かれていた。


 それを部屋に運び込み、黙々と食べてから紙片を開いた。父の筆跡で、何度も消した後の上に短い文字列が並んでいた。



――すまなかった。長くお前の事を省みなかった。

赦してもらえるとは思っていない。

ただ、これからは私が料理を作るから、嫌でなければ食ってくれ。


 気が付くと居間のほうから、父が立てているのだろう僅かな生活音が聞こえてくる。



 その晩、久し振りに食卓を父と囲み、たどたどしい会話を交わした。父が話してくれた事によると、酒場で飲んだくれていた時に声を掛けてきた女性が居たのだと言う。旦那を事故で失くしてから自分を立ち直らせるために自宅で料理教室を開いて、その収入と遺族年金で生計を立てている女性だそうだ。何度か同じ店で会ううちに少しずつ言葉を交わすようになり、そして父もその料理教室に通って料理を覚えたのだとの事だった。

 僕のほうは差し当たって話す事がなかったため、とりあえず父の話に相槌を打っていたが、どうも父の様子がおかしい事に気づいていた。そわそわしているし、始終こちらをちらちら見て何か言いたげにしている。

 数秒沈黙が下りたが、その後父は軽く溜息をついてからまた話し出した。


「あのな。お前に黙っていた事だし、私もまだ気持ちの整理が全てついたわけじゃない。ただ、お前にも私にも、”お母さん”が必要だと思うんだ。…プロポーズしても良いと思うか?」

「…は。ああ、そういう…。良いんじゃない、父さんにここまで料理を教えられる人なら投げ出さないでしょ。で、その人なんて名前なの」

「ああ、白子しらこさんというんだが」


 不意に意味の分からない既視感に襲われた。頭の整理が付く前に、父が結論を言った。


「白子さんがお前にな、”また魔巣窟で話そう”と伝えておいてくれと言ってたぞ。…最近流行ってるゲームかなにかの暗号か?」


 父があまりに間抜けな顔をしているので、悪いとは思ったが吹き出してしまった。全く、世間は狭い。

 白子さんと一緒に「キイロ」のデビューを見届けるまでは、生きても良いかな、などと思えた。父の料理の味は、どこか懐かしい母親の味に似ていた。

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