祝いの品
眠い目をこすりながら窓の外を見ると、朝霧が重たく街を包み、まるで雲の中にいるように不可思議な空間を作り出していた。時計に目を移す。午前六時。夏場ならばもう日が強く地面を焼く刻限なのだろうが、年末の事、まだ部屋に入ってくる光はわずかであり、見慣れたはずの自室も外の風景同様やや異質に感じられた。
朝も昼も無いような不規則な生活を始めてからもう何年にもなる。職場の上司のミスを肩代わりさせられて退職届を書かされ、今のアルバイト漬けの生活に移ってからの年数と同じ。
当初こそ憤りと、絶対に自分を踏みにじった連中を見返してやるという思いから必死に職探しをしていたが、その努力は空回りし続けいつの間にか生きる気力ですら燃え尽きようとしていた。週ごとに支払われる掛け持ちのアルバイトの給料を、次の給料日までには使い切ってしまう生活。それも娯楽などにはほとんど充てられず、安アパートの家賃を払ってしまえば半分以上が無くなってしまう。
惰性のように目の前にちらつく死とも、もはや決別する気も無くなってしまった。
薄い布団から這い出して小さな冷蔵庫を開くが、めぼしい食べ物も見つけられず、数日に一度の楽しみであるビールの安っぽい缶が数本並んでいるだけだった。今日も空腹に耐えて働く事になるのだろう。
特に感慨も覚えず、支給品の作業着を羽織って部屋を出た。
外に出ると、朝霧はいっそう白く深く感じられた。まだ街全体が眠りについているのだろう、時折遠くのほうで車の走行音がするだけで、あとは何の音もない。歩き出すと軽い靴音がやけに耳についた。
まだ天気も分からないほど暗い空からは、かすかに雨が降っているようだ。音も無く頬を塗らし体温を奪うしずくを、まったく天の恵みなどとはのんきなことを言ってくれる。それでも、雨の中を歩くのは嫌いではなかった。みすぼらしい自分の姿が少しでも周りから隠されている気がするから。
ここから今朝の仕事場である工場まではやや距離があった。だが歩いているうちに眠気も冷めるし体も温まる。第一、交通手段を使う金も惜しい。
黙々と歩きながら、自分の唯一の財産と言えるウォークマンを取り出してイヤホンを耳に押し込む。何百回リピートしたかもわからない数年前の流行歌が、少しノイズを刻みながら身体に流れ込んだ。
「……」
幾つ目かの角を曲がった時、わずかな違和感が耳に響いた。
気にせず歩いていると、今度ははっきりと違和感が人の言葉の形を取って背後から覆いかぶさった。
「ちょっと待ってよ」
「……?」
イヤホンを引き抜いて振り返ってみると、小柄な女性が息切れに肩を上下させながらこちらに向かってくるのが見えた。
「ああ、すまん。気付かなかった」
「相変わらずね。そういうとこ本当に嫌いだわ」
駆け寄りざま、息を整えることも無く暴言を吐いたのは、数年前に別れた恋人だった。
「すまん。お前も相変わらずだな」
「何それ厭味?」
彼女は相変わらず口悪く言葉を並べながらも、手にした傘を少し傾けてこちらの頭の上に差しかける。
いつの間にか雨は少し強くなっていて、そうされて初めて自分の髪や肩がぐっしょり濡れていることに気付いた。だが、このままでは彼女のほうが濡れてしまう。黙って傘を押し返すと、彼女はまた何か言おうと口を開きかけたが、そのまま溜息を吐くとこちらに一歩歩み寄った。女性ものにしては大きな傘が、背の高い自分と対照的な彼女との上に心もとなくかぶさった。
「久しぶりね。元気にしてるの?」
「ぼちぼちだ。お前はちゃんと食ってるのか」
「誰かさんと違ってね。…また痩せたわね」
「ダイエットしてるんだ」
無精ひげの生えた顎を撫でると、少し彼女は笑ったようだった。そういえば昔、自分は照れ隠しに顎を撫でる癖があると指摘してきたのも彼女だったか。気まり悪くその手をポケットに突っ込み、だけれど自分も少し笑えた。
こうしていると、彼女と付き合っていた頃を思い出す。今と変わらず口の減らない彼女と自分は、喧嘩をしては仲直りを繰り返し、当時の友人達に「熟年夫婦」などと冷やかされたものだった。いつまでもそうしていろと言われ、ああ一生このままだろうなと答えたのは、減らず口でもあり本心でもあった。
その彼女と別れたのは、自分が職を失ってから目に見えてやつれだした彼女が、ある日自殺を図ったからだ。お互い何も言わなかったが、彼女が自分の退職後から仕事を増やし、自分まで養おうと根を詰めた結果からだと、その肝心な事は何も語らず、運び込まれた病院で泣き崩れる彼女を見てようやく気付いた。
彼女が泣く所など見るのは初めてだった気がする。
その時、自分に彼女を責める資格も慰める資格も、そばにいる資格さえないことがわかった。それから一度もこちらから会いに行く事をせず、その後も付き纏う彼女を避け続け、最後に彼女に部屋の合鍵を突き返して、自分たちの関係は終わった。当時の友人達はそんな自分達を叱り、励まし続けてくれたが、やがて自分の周りからは誰も居なくなった。
薄情な事に、何もかも失って初めて肩の荷が下りたような気がした。それから、数か月置きに甲斐甲斐しく自分の様子を見に来る彼女とも、以前のように話せるようになった。彼女は会うごとに元気を取り戻していくように見えたし、それがますます自分の存在意義を希薄にした。こういうのが自由なのだ、と思った。
だから今の生活に満足していられた。幽霊のように輪郭を失くした自分が、嬉しかった。
これでもう誰も傷付けることは無くなったのだと思ったから。
「それで、今日はどうした。今から仕事なんだが」
「そう。じゃあ手短に言うわ」
彼女はにっこりと笑った。久しぶりに胸の辺りがざわつく。彼女がこんな風に自分から目もそらさず笑うときは、大体無理に笑顔を作っていると知っていた。
「私結婚するの」
「…そうか」
「彼は良い人よ。…あなたにも結婚式に来て欲しいって言ってたわ」
「すまん。仕事で時間がない」
「そうよね」
彼女は相変わらず笑顔を顔に張り付かせたまま、肩から下げたバッグをまさぐって小さな包みを取り出した。
「そう言うと思ったからこれ。結婚祝いで配ろうと思ってるの。もう出来たから渡しておくわ」
「…ああ。相手に、すみません、わざわざありがとうございますと伝えておいてくれ」
「私には何もなし?」
「俺にはお前に渡せるものが何もない」
「そうじゃなくて」
彼女は笑い続けていたが、包みを差し出す手がかすかに震えていた。胸のざわつきが鈍い痛みに代わる。
それは、懐かしい痛みだった。
彼女と付き合っていた頃、たくさんの友人達に囲まれていた頃、自分が幽霊になる前に何度も何度も感じた甘い痛み。それは瞬く間に自分の身体全体に広がり、チクチクとわずかな後悔となって頭を焼いた。なぜ今更こんな痛みを感じるのか、なにに対して後悔しているのかも分からない。だけれどこの場から逃げ出してしまいたいという衝動だけは確かに感じた。
訳も分からないまま納得した。ああ、自分はまだ生きている。幽霊などにはなっていないのだ。
「ああ、そうだな。ありがとう」
「何が?」
「…お前、その相手にもそんな調子で困らせるんじゃないぞ」
「うるさいわね、あなた以外にこんな態度取らないわよ」
彼女の顔から笑みが消える。なぜか目の裏がじんわり熱くなって、自分は顎を軽くなでた。彼女の目から何かが零れ出し、それを一瞬視認した所で彼女は顔をそむけた。
「…幸せか?」
「あなたにそんなこと聴かれるとは思わなかったわ」
「すまん」
「でも、まあ、そうね。幸せになるわ」
「すまん」
「そういうとこが本当に嫌いなのよ。…じゃあね。あなたも」
幸せに。彼女がそう言った気がしたが、声が震えていてよく聞き取れなかった。だけれど、きっとそう言ったのだろう。彼女は包みをこちらに押し付けると、くるりと背を向けて去って行こうとする。何か言わなければと思ったが、やはり自分には彼女に何を言う資格も無い事がよく分かっていた。
「元気でな」
「あなたもね」
お互いにやっと絞り出した言葉を最後に、弾かれたように彼女は走り出した。自分も背を向け、職場に向けて歩き出す。振り返ってはいけないと思った。彼女もそう思っている事が分かっていた。だから、包みを胸に抱いたまま、歩き続けた。体が火のように熱かった。振り続けている雨が体の表面を冷やしてやけに心地良い。
十分に歩いたところで、目の前にゴミ捨て場がある事に気付いた。包みを捨てることにした。そうすべきだと思った。それなのに、なぜか自分の体全体がそれを拒否している。イライラと乱暴に包みを開ける。
「……」
数年分の涙が一気に溢れてきた。包みから出てきたのは、真新しいウォークマンだった。
イヤホンを差し替えて再生する。鮮明な音声で、オルゴールの曲が流れだした。
生きなければ。そう思った。
また歩き出す。雨が顔に当たって涙を洗い流していく。だけれどそれは後から後から溢れて、自分の心に覆いかぶさっていたものも一緒に押し流していくようだった。
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