部長の珈琲課題

「ほんと、部長って考え方が古いよねえ」


 用を足すために女子トイレの前を通りかかった時、ふとそんな言葉が耳に転がり込んできた。

 この声は自分の部署の女子社員の声だったかと思う、つまり、考え方の古い部長、とは恐らく自分の事だ。男子トイレに向かう途中ではあったが、周囲を軽く見まわして人が居ないのを確認してから、つい聞き耳を立てていた。


「毎日毎日私たちにお茶くみやらせてさあ。珈琲くらい自分で淹れられないのかな」

「ほんとだよお。それでいて女はお茶くみが仕事だ、みたいなさ」

「そうそう、やって当たり前って体なんだよねえ。ちょっとは感謝して観なさいっての」


 自分もこの会社に勤続三十年目、もう何十人も後輩や部下を抱える立場になっていた。その中で、こうした不満を耳にするのは実は初めてでは無い。


 ――経験も足りず、まだ大した仕事も任されない若年社員が雑務を請け負うのは当然の流れではないか。

 そんな思いが沸々と浮かんできて、知らず奥歯を噛み締めていた。


 自分の若かった頃は、ちょうどバブルと呼ばれる日本経済の絶頂期に当り、誰もが羽振りがよくどこを見ても皆機嫌よくにこにこしていた。頑張れば頑張るほど成果が出たし、汚い話金も転がり込む。そもそも、金を”汚い”と思う感覚すらなく、ただ稼ぐだけ稼いで湯水のように使った。

 そんな時代だったから、社会人の「働く」と言う事に対する意識もどこか蒙昧で、今女子社員が話していたようなお茶くみなど当然のサービスだと考えられていた。少なくとも自分は、権威を振りかざしたりセクハラなどする目的でそれを強要しているのではない。…とするなら、やはり自分の考え方自体が古いと言う事になるのだろうか。


 バブルが一瞬ではじけてから、既に係長になっていた自分の身辺も大きく変わって行った。口減らしの為の大幅なリストラ、日毎にエスカレートする急な人事異動、取引先の重要な巨大企業が次々と倒産して行き、それも明日は我が身と言った有様だった。

 あの頃は本当に、天国と地獄と言う物をまざまざと味わったし、そういう自分から見れば今の若者の抱える就職難などお笑い種に思える。


 ――という話をうっかり酒の席で打ち上げてしまったことがあり、その頃から若い社員の間で、自分は「老害」などと呼ばれるに至ったらしかった。


「そういえば知ってる? 部長の奥さんってえ、今別居中なんだって」

「あー、噂は聴いてる。まあ家でもあの調子で亭主関白じゃ、奥さんだって嫌になるよねー」


 話が嫌な核心に触れて来た為、自分はとりあえず咳払いでもして遺憾を示したい気持ちをどうにか抑えた。

(妻が出て行ったのは、俺が仕事をしているにも関わらず妻一人が家事をする事を負担に思ってある日向こうから喧嘩を仕掛けてきたせいだ。断じて俺のせいではない)

 そう叫びたくなるのを必死で耐えながら、男子トイレに駆け込んだのだった。



 年寄りが「今の若いものは…」というと、殊更に嫌がられるのはどの時代も同じだ。自分も若い頃は先輩社員にそう言われながら鍛えられたし、感謝する反面、反感を覚えた事が無いわけがない。それでいて、自分が歳をとると若者が至らなく見えてくるのはなぜなのか…いつの間にか自分も同じセリフを口にしているのだ。


「そりゃ部長、アレですよ。価値観の相違ってやつです」


 日中、昼食休みになって一気に人のまばらになったオフィスで、自分の為に珈琲を淹れてくれながら、その若い相棒はいつも通りとつとつと語る。


「時代によって、社会も変われば人間も変わりますから。前時代の人間と現代の人間にずれが生じるのはまあ当たり前です」

「俺は既に前時代の人間、か…若い奴は良いな、自分が世界の中心みたいに思えて」


 彼の淹れた、いつも通り濃い珈琲をちびちびと舐めながら、自分は顔いっぱいに苦味を浮かべて見せた。その全身全霊の苦情を平然と受け流して、彼は自身にも淹れた珈琲を実に美味そうに啜る。


 この若者は、元々コンサルの伝手でわが社にやってきた人材であったが、何かと古いシステムを採用しがちなこの部署に大幅な改革を行うべく、先月から自分の「片棒」という名目でまさにつかず離れずのアシストをしてくれていた。今時流行のスマートなシルエットのスーツを着こなし、肌には染みひとつない。極めつけは頭の回転の速さと、人懐こさを併せ持っている人間的魅力だ。

 要するに、「今時の若者」に殊更ウケる青年なのである。


「老兵は去れ、というのは言い過ぎだとは思いますけれどね、若者に譲る気持ちは大事ですよ部長。若いうちから貴重な経験をたくさん積ませれば、それだけ人間は成長します。そして、成熟したときに次代を担う人材になっている」

「俺は、自分が今まさにこの会社を支える役割を担っていると思っているが…そう言う人間は部下に尊敬されて然るべきじゃないのか?」

「それは実際そうです。でも、部長が会社を支えられるまでに仕事を教えてくれたのは先輩方でしょう? そして、部下がいるから管理職の人間は円滑に仕事が出来る」

「…ふうむ。アレか、持ちつ持たれつ」

「その通り」


 相変わらず働き盛りだと言うのにコンビニのサンドイッチ二斤を放ばって、彼は昼食を終えた。ちなみに自分は、今弁当を作ってくれる人間が自宅に居ないため、同じくコンビニの日の丸弁当である。


「ちなみに」


 サンドイッチの包装をくしゃくしゃと丸める仕草すらスマートに見える彼は、それを分別回収のうるさくなって来たゴミ箱にきっちり投げ込むと、くるっとこちらを向いて右手の指で短く刈った髪を一筋くるくるともてあそんだ。


「僕は部長の事、尊敬してますよ。現にこの会社じゃまだまだペーペーの僕を信頼して使ってくれる。要はお互いに誤解があるんじゃないですかね」

「誤解?」

「対話の足りなさと極一面的な評価をお互いに下してしまっている、というんですかね」

「ああ、件の”価値観の相違”ってやつか」

「その通り。人は各々違う生き物なのですから、互いに尊重し合わなければ」


 そして、珈琲の最後の一口をうっとりと味わうと、紙コップをまたゴミ箱にきっちり放り投げた。


「部長のほうから歩み寄って見てはどうです? 例えば部下に珈琲を淹れてあげるとか」


 お前、エスパーかなにかなのか。思わず自分に似合わないツッコミが飛んで行きそうになるのを抑えつつ、冷めてきた珈琲を自分もグッと飲み干した。



「ごくろ…お疲れ様? 調子はどう…?」


 その日の夕刻、自分は先日女子トイレで自分の陰口をたたいていたと思しき女子社員に声を掛けていた。とはいえ指示を出す目的以外で社員とコミュニケーションを取ることなど、飲み会で酔いが回っている時以外は希である。当然不自然になった上ずった声に、デスクに座って残業と戦っていた女子社員は微妙な顔をする。

 珍しい事を言うからぽかんとしたい所だが、余りにも下手に出てきたうえにそわそわしているので笑いが出かけて、それを必死で耐えている、という表情だ。

 そこまで読み取った所で、なんだ、案外若者も分かり易い所があるではないか、などと考えた。


「あ、申し訳ありません、今日の分の仕事まだ片付いて無くて…なんとか終電までには終わらせますので」

「いや、いや、違うんだ」


 変な所で額に冷や汗がにじんでくる。そういえば、以前女子社員を飲み会に誘おうとしてセクハラ疑惑を掛けられたことがあったっけ。


「うん、そのね、君も頑張っているようだから、少し休憩したらどうかと思ってね。珈琲でも飲んでね」


 なぜか後ろ手に隠すように持っていた淹れたての珈琲を女子社員の前に置く。


「頑張り過ぎるとね、返って能率が落ちるから。あ、知ってるよね。だからまあ、少し休憩をね」

「あ…。ありがとうございます…」


 その時、珈琲を手にした女子社員が余りにも自然に微笑んだ。見とれるというよりは、驚きを隠しきれない自分が居た。この可愛らしい笑みを浮かべる女性が、まさか先日自分を口汚くののしっていた人間と同一人物だとは。それどころか、自分はこの笑みを見た途端、その罵言すら許せそうな気に成っている。

 彼の言った、「お互いに誤解がある」というのはこう言う事か。


 理屈では無く納得して、知らずほっと息を吐くと、女子社員がくすり、と笑う。決まりが悪く成り、「悪いね、いきなりね」などと言葉を濁しながら早々に立ち去った。



 翌朝、始業前のミーティングで、彼は分かり易くにやにやとしながら、こんなことを言った。


「いやあ、部長もやれば出来るじゃないですか」

「もう二度とやりたくない気持ちにはなったがな」

「またまた」


 今日も濃い珈琲をカンファレンスルームで二人で飲みつつ、雑談交じりの会議を進めていた。


「一晩でもう部内の噂になってますよ、部長が丸くなったって」

「…お前ね、いくらなんでも失礼過ぎないか」

「ほらほら、硬く考えないー」


 前髪を右手で一筋もてあそびながら、彼は人懐こいがゆえに人の悪い笑みを浮かべるのだった。


「奥さんももう少しで帰ってくるんじゃないですかね。またお力になりましょうか?」

「…今の所は頼む」


 喜んで。などと仰々しく述べ立てる彼の前で、変って行く自分が何か自分でも眩しかった。年甲斐もないが、妻が帰ってきたら今度こそ大切に出来ればと思う。

 朝からよく晴れて、春の気配も間近なオフィス街の一角、春一番と共にまた会社と自分は大きな変化を迎える。

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