幸せ探しの春
自分はつまらない人間だと、物心ついた時からよく解っていた。
幼稚園の頃から、周囲の級友たちは皆、各々好きなヒーローやヒロインの活躍するテレビ番組の話に夢中に成ったり、ゲームを通して親交を深め合っていた。しかし自分は、そのいずれにも興味を持てなかった。
一方で、誰しもが興味を失くしつつあったサッカーにハマり込んで、父親にせがんではよくスタジアムまで観戦に出掛けたりしたものだ。父とサッカーのパス練習をするだけで十分満たされていたから、同年代の友達など出来なかったし、必要も無かった。
「君、なんでこんなところで一人でいるの?」
ある時、公園で壁に向かってボールを蹴っていると、知らない高い声に呼び止められた。振り返った先には、当時小学生の自分から見てもセンスの無いビン底メガネをかけた、いかにもオタクっぽい女子中学生が立っていたのだった。
今時スカートの丈がひざ下までしっかり残っている。リボンもブレザーも丁寧にアイロンが掛けられ、何の装飾もマスコットも無いよく使いこまれた鞄が逆に異彩を放っていた。どこからどう見ても「文学少女」といった出で立ち。
「あ、気を悪くしたならごめんね、実は私も一人なの」
彼女を見た途端興味を失くした自分に気付いたのか、少女はやや慌てたような口調で付け加えた。
”一人”。
奇妙に頭に引っかかったその言葉に引かれるようにようやく彼女と目線を合わせると、少女はにっこりと不意打ちのように笑って見せた。その笑顔がどこか寂しげで、彼女の言葉が嘘ではないとよく理解したらしい、一先ず会話する気になった自分が居た。
「別に怒ってない。なにか用?」
「用ってほどでもないんだけど…。君、この近くに住んでるんでしょ。ここを通るたびに見かけるし、その割にいつも誰とも遊ばずに壁打ちしてるし」
「…それは」
この時、やけにお節介な少女になぜ心を開く気持ちになったのかは今もよく分からない。結局は自分も誰かに打ち明けてしまいたかったのかもしれない。
「お父さんがお母さんと喧嘩して、出て行ったから」
言ってから後悔した。少女が自分の代わりに酷く傷ついた表情を浮かべたからだ。
「…私もね、お母さんとお父さん、いないんだ。今おばあちゃんにお世話になってる」
子どもながらに、自分も何か胸がざわついたのを覚えている。
「ねえ」
消え入りそうだった声を必死で張って、彼女は言ったんだった。
「私達、友達に成れないかな」
それから、毎日ではないが頻繁にその公園で彼女と過ごすようになった。
見た目の印象に違わず彼女は運動神経が悪いようで、さほど力の無い小学生からのパスボールをよく空振った。その度に彼女は「ごめんね」と楽しそうに笑ったし、彼女の笑い声を聞くたびに自分は何か、胸の奥に何かが満ちていくような、それでいて心臓がきしむような、おかしな気持ちを味わった。ただ、それをどう言葉にすれば良いのか分からなかった。そんな自分に、彼女は何度も何度も、
「もう一本お願い!」
と目の前でわざとらしく手を合わせてせがんだ。最初は面倒な気持ちにもなったが、それが数週間も続いた日には、「仕方ないなー」と言いながら自分も彼女とのやりとりを楽しんでいた。
ある日、少女はいつになく明るい表情で現れ、自分を公園のベンチへと促した。春先の事であったが、日差しの強い日で、公園のほとんどの場所はじりじりと焦げるような熱気を放っていた。その中で、ベンチの周囲には隣の大きな木の陰が落ち、ひんやりと心地良かった。
ベンチにわざわざハンカチを敷いてからその上に腰かけた少女は、「制服を汚すとおばあちゃんに叱られるの」とちょっと悪戯めいた風に言ってから、カバンの中をまさぐった。ほどなく一冊の本を取り出す。
その本は、見るからに古びたハードカバーの装丁のもので、表紙も背表紙も文字がこすれて読めなくなっている所から、何百と言う人の手を渡って来た事が自分にも容易に想像できた。
「なにそれ、魔道書?」
「魔道書かあ、だったら素敵なんだけどね」
今思えば小学生らしい短絡的な問いに、少女はいつも以上に可笑しそうに笑った。そして表紙と中割をめくり、自分に一頁目を示して見せた。
「”赤毛のアン”。聴いた事ない?」
「んー…知らない」
「そう、君、あんまり小説には興味無さそうだもんね。でも、良かったら読んでみない?」
「えー…」
彼女の言うように、正直小説や物語の類には全く興味がなかった。小さい頃母親に絵本くらいは読んでもらった記憶があるが、母子家庭になってからは母は仕事から帰っては手早く夕食を用意してすぐに寝てしまう。それが詰まらなくて、そもそもこんなところでひとりで過ごしているのである。
言葉に詰まる自分を前に、少女は、何もかも把握した、というような、滅多に観ない自信に満ちた表情になると、
「あのね、良い事探ししてみようと思わない?」
と話題を変えてきた。
「良い事探し?」
「そう。私達、友達いないし、お母さんやお父さんとも遊べないでしょ。だけど、私は君と一緒にいると楽しいの。これ、良い事じゃない?」
「うーん…うん、まあ…」
「そういう良い事をね、もっと小さなことでも良いから、たくさん探すの。そしたら、私達でも幸せに成れそうじゃない?」
いつもとは違う熱を帯びた言葉を聴いているからだろうか、やけに胸の奥がむずむずして目線が彼女のそれから外れ辺りを彷徨う。彼女の言う事は幼心にもなんとなく理解出来たのだが、春の空気のせいだろうか、やけに顔が熱かった。
「そういう良い事探しをする女の子の話がね、これなの」
「…じゃあ、その女の子は幸せなの?」
「良い所に目をつけるね、さすが。その女の子もね、親が居なくて、毎日つまらない日々を過ごしてるの。だから良い事探しを始めるのよ」
そして最後には本当に幸せになるの。
そう言い切った彼女に、今度は視線が吸い込まれていくようだった。その時、ようやく僅かな違和感に気付いた。
それは、少女と何か月も過ごした自分だから感じた、虫の知らせのようなものだったのだろう。彼女は何かを隠している。
「なんでいきなり本の紹介?」
「うーん、それはね」
核心を突かれたからだろうか、少女の顔が曇った。だがそれは一瞬の事で、また輝くような笑顔で話し始める。
「君に幸せになって欲しいからだよ。私もね、もうすぐ本当の幸せに成れる気がするんだ。それはこの本のおかげなの。君に始めて声を掛けた時、ちょうどこの本をおばあちゃんの本棚から探し当てた所でね、幸せを見つけるために君に話しかけたんだ。そしたら君のおかげでホントに幸せになった。…解る?」
何も不自然な点は無い筈なのに、少女の言葉を聴いていると、いつかのように胸がざわざわした。
「だから、君にも幸せの御裾分け。分厚い本だけどね、振り仮名がちゃんとふってあるから。読んでみてよ」
まだもごもごと言い訳をしようとする自分に、無理やり本を押し付けると、彼女はまたにっこり笑ってみせ、勢いよく立ちあがった。
「今日は帰るね。じゃ、また」
「あの」
なぜかそれがとても大切なものに思えて、本を胸に抱きしめたまま、自分もつられて立ち上がる。
「大丈夫」
少女の言葉は、まるで彼女自身に言い聞かせるような重さを持っていた。
「君も私も、絶対に幸せに成れるから」
翌日、公園で暗くなるまで待っても少女は現れなかった。次の日も、その次の日も。毎日遅くまで家に帰らない事を近所の噂で察したらしい母親に問い詰められ、仕方なく全てを話したところ、この近所で一件、おばあさんのお葬式が在ったらしいことを知らされた。故人には一緒に暮らしていた養女が居たが、最後の身内まで失くしてしまい、孤児院に入るためにこの地域を発ったらしい。それが数日前の、顛末だった。
それから、何度目かの春。自分はこの年から中学に進むことになっていた。
あれからしばらくは何もする気に成れないでいたが、公園に行くことも辞めて鬱々と過ごしていたある日、少女の残した本が目に入った。一頁ずつめくっているうちに、目の裏が熱く成って涙がほおを伝った。本を汚さない様に慌てて拭ったが、それはとめどなく溢れ、そして胸のあたりがあの時のようにじんわりと熱くなった。
それから自分は、少女の言うように「良い事探し」を始めた。まず、級友に話しかけて、それに応えて貰う事を良い事と思う事にした。すると徐々に自分を避けていた級友たちが逆に向こうから自分に話しかけてくるようになり、新中学生になった現在、自分には友達がたくさん居る。
「なんだ、そのメガネ。お洒落か」
「お洒落だよ、悪いかよ」
特に目は悪くないのだが、いつの間にか度の入っていないメガネを愛用するようになっていた。
「今日から俺らも中学生かあ。やっぱり先輩とか先生とか怖いのかな?」
「大丈夫だろ。先輩も先生もただの人間だしさ」
「おっ、出ました格言ー! お前、時々そういう頭よさげな事言うよね。本一杯読んでるし」
「うるせえ」
そのとき、視界の端にどこかで見た使い込まれた鞄が一瞬通り過ぎた。
反射的に目を向けると、そこに、懐かしさがそのまま形になったような、綺麗な女性が立っていた。
「…ちょっと先行ってて」
「ん、何? 入学式から遅刻するぞ?」
「良いから」
友人が行ったのを確認してから、彼女に歩み寄る。もう少女ではなくなったその女性は、それでも面影のある笑顔を浮かべると、すっとこちらを指差した。
「幸せ、見つけた」
言いたいことが膨らんだが、今は、ただ一言で良いと思った。
「俺も、見つけた。おかえり」
「ただいま」
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