レストラン「鉄の靴」
「鉄の靴」という屋号をいただく洋風レストランがあった。店名のゆかりは存外なんでもないところにあって、かの厨房ではかつて、全てのコックが鉄の靴板を張られたブーツを履いて調理場を行き来していたのである。
元は、慌ただしいキッチン内で誤って同僚に足を踏まれても大丈夫なように、という理由から根付いた習慣であったようだが、いつの間にかその店のユニフォームのようになり、二代目の料理長が店を継いだ折に店名ごと改めて前面に押し出す措置がとられたとのことだ。
まあそんな世間話も今は昔、現在はブーツなんていうただでさえ蒸れる装束に身を包んでいる者はすでに三代目となった料理長くらいであり、もっぱらその目立つ装いは店内での料理長の威厳を示すためだけに受け継がれている。
そんな風変わりな店に今日も、開店から程なくして客がやってくるのである。
今日の何人目かの客に、腰の曲がった老婆があった。口元などしわくちゃで、丸まった背中、目には黒々としたサングラス。そこらのガキならビビる程度には物々しい。
皿洗いとして雇われて二ヶ月目に差し掛かっていた俺も、あやまたずその風貌に恐れをなした。厨房に設られた窓からホールを恐る恐る眺めていると、ひょいと顔を覗かせたウェイターのコンドウが真っ白い歯を剥いてニッと笑う。
「よう、シジマ、お前また客に怖気付いてんのかよ」
「うるせえですよ…さっさと注文取りに行きゃあいいでしょ」
「お前、そんなだからウェイターとして店に入ったのに皿洗いやらされてんだぞ」
ケタケタと意地悪く笑いながら老婆の方に向かうコンドウに向かって中指を立てた。その指を、ぐいっとコックのアンザイさんが掴む。
「こら。仮にも食い物屋でそれはダメだ。シジマお前、いつまで経っても下っ端根性が抜けないなあ」
「…すんません…でも俺…」
「わかってる、お前の夢は俺たちみんなが買ってる。だからそのためなら人に頭くらい下げられる人間になれ。優先順位を取り違えるな」
「…はい」
無事鎮火する俺の方をちょっと物足りなげに見やり、コンドウは頭を振りながら老婆にメニューを差し出すのだった。
「いらっしゃいませ、お客様。メニューでございます、ご注文が決まりましたら手元のベルでお呼びください」
「はぁ…」
対してちんまりと体を丸めて椅子に腰掛けた老婆は、サングラスを軽く鼻の上に押し上げて妙な声を出した。その瞬間にコンドウも気づいたらしい。慌てて背筋を正す。
「失礼いたしました、お客様、もしや目が…」
「そうなのよぉ、もう随分前から見えなくてねぇ」
サングラスは伊達ではなかったのだ。これではメニューを見ることなど到底敵わない。
とはいえここは一流とは言わないまでも、たびたびミシュランガイドに載るような高級洋食店である。このような客の応対にももちろん心得がある。コンドウはメニューを開いて差し出しながら、老婆の耳元に口を寄せてなるべくはっきり通る声で言った。
「当店のメニューには点字が施されてございます。失礼ですがお客様、点字の読字の方は」
「ええ、しばらく前に覚えましたよぉ。年寄りには新しい知識は難儀でしたけどね」
「では問題なく読んでいただけますね。お料理の内容についてわからないことがあれば私からお答えいたします」
「ありがとぉね」
最初の懸念が片付いて、老婆がほっと息を吐き出すのが伺えた。この客に限らず、体が不自由な者の中にはその障害が自分の責任、自分のせいであると思い込んでいるものが少なくない。自分のせいで周りに迷惑をかけている、その思いが時にこうした卑屈な態度となって表に出るのだ。
しかしここは天下の洋食レストラン、「鉄の靴」本店である。どんな客であろうとも百パーセントのもてなしをして満足してお帰りいただく。そのためならば店側は泥水でもすする。それが一流レストランから暖簾分けして店を構えた、初代料理長の理念であった。
ボーイとして完璧な仕事をこなしたコンドウの様子に、わかってはいたが嫉妬する。俺だって。俺だって、超一流のボーイを目指してこの業界の門を叩いたんだ。下町を走り回っていた埃まみれのガキが、ある時父親に連れられて入った洋食店の接客に感動し、自らその仕事を志願するのに大した理由も経緯もなかった。
高校卒業とともに様々な店を転々としながら接客業を学んだ。全てはミシュラン三つ星をいただく一流店への転職を果たすため。
…しかし、その過程で見事つまづいてしまった訳である。今まで働いてきた店とは一段格の違うこの店に来て、客層の違い、接客の意識の高さ、自分がミスをした時の経済的損失額の桁に面食らい、緊張から満足な接客ができなくなってしまったのである。
ウェイターという職にこの言い方が適当かはわからないが、要するにスランプであった。
相手に見えていようといまいと、いつものように恭しく礼をしてからはけてくるコンドウに、はっきりと嫉妬していた。今あいつのいる場所には、本当ならば俺が立っていたはずなのだ。
俺のやっかみの視線を受け止めてまたニヤッと笑ったコンドウは、老婆からの注文を読み上げる。
「洋風ハンバーグ、オーダー入りましたっ」
「わっしょーい!」
アンザイさん始め厨房の一堂が色めき立ち、調理に移る。昨今、洋食屋といえど客を待たせないために冷食として料理を作り置きして、あとは温めるだけの状態にしておく店が多いが、この店では何よりも鮮度の高い食材と一流のもてなしを提供するために、ゼロから料理を作って熱々のままお出しする。
洋食屋「鉄の靴」の門を叩くコックたちは、その理念に心から感じ入った者たちであり、調理技術が一流レベルなのはもちろん調理の速度という点でもずば抜けた技術持ちどもが揃っている。その怒号と料理の皿が飛び交う荒々しい調理風景はもはやこの店の一つの名物となっていた。
現に今にしても、客の一部が好奇の目線で窓を通して調理場を眺めては歓声を上げている。
いいなあ。コンドウも、アンザイさんも、こんなに店に馴染んで。
それに対して俺は。給餌として店に入ったのに、もう一ヶ月以上ずっと皿洗いだ。
このまま俺の夢は潰えるのか。
うっすらと雑念が頭に霞を張り、いつも以上に動きが悪くなる俺をアンザイさんが調理の間に間に心配そうに伺っているのがわかった。
くそ。こんなはずじゃないんだ。俺だって。俺だって…。
「シジマ。邪魔だ」
みかねた料理長が、あえて突き放すような物言いで俺に指示を下す。
「そうやってウジウジやってる間は戦力にならん。ホールの埃でも拾ってろ」
「…すんません」
トボトボと厨房をでる俺を、流石に気の毒に思ったのかコンドウが近づいてきて耳元で囁く。
「腐るなよ。お前、こんなとこで終わるタマじゃねえだろ」
「ウス…」
それでもやりきれなかった。今日だけではない、この二、三週間で数えきれないほど似たような局面を経てきた。今までそれなりの高級店で及第点をもらえる接客をこなしてきたというのに、夢目前にして、こんな。…俺なんかが、一流レストランのボーイだなんて夢自体大それたものだったのだろうか。
今まで自分が積み重ねてきた自信だけではなく、自らの夢や憧れそのものを否定された気分だった。しかし、厨房を追い出されてまで何もせず隅っこで埃と戯れているようでは、本当に後がない。なんとか挽回しなくては。
自分に喝を入れながら、仕事を探してホールを見回す。
ふと、違和感を覚えた。
そうだ、さっきからずっと何かが不自然だと思っている。うまく言葉にできないが、何か。しかし、何が…?
「お客様、洋風ハンバーグお持ちしました」
ようやく出来上がった料理をコンドウが老婆の元へ運んでいく。
「お手元の左にナイフ、右にフォークをご用意してございます。お気をつけてお召し上がりください」
「待ってたよぉ…」
老婆はヨボヨボと唇を振るわせながら、手探りで手元をまさぐって食器を手に取る。その手までがわなわなと震えていた。…いくらなんでも震えすぎではないか?
「ずっと…ずっと、待ってたんだよぉ…」
「…? はい、お待たせいたしました?」
コンドウも違和感を覚え始めているのがわかった。その間にも老婆は、またも手探りでハンバーグを探し当てるとナイフとフォークを当てる。
不器用にひとかけらを切り出し、口に運んだ。そうして、一言こぼす。
「違う…これじゃない…」
老婆の心から落胆したセリフが広い店内にわんわんと響いた。
「これじゃない…?」
「おいっ、コンドウ! お前オーダーを取り違えたのか」
「何してる、早く謝って料理をお下げしろ」
色めき立つ厨房の面々の中で、アンザイさんが不思議そうに首を傾げていた。
コンドウはもう真っ青になって、何度もペコペコと頭を下げ謝罪を口にする。しかし老婆はすでに、心ここにあらずといった風だった。
混乱する店内で、俺だけが気づいていた。そうだ、この老婆は…。
「料理長、ソースだと思います」
「なんだ…?」
ギロリとこちらを睨む料理長の眼光に怯みながらも、冷凍庫を指差す。
「デミグラスソースが違うんです。このお客様は、“鉄の靴“創業時からのお客様だ。あの当時の改良されていないデミグラスソースの味を覚えていたんです」
アンザイさんがふっと息を吐き出すのを目の横にとらえた。
「あの当時、玉ねぎの値段が高騰していたのでソースにとろみをつけるために長芋を使用していたと聞きました。今でも冷凍庫に眠っている秘伝のソース。それをお出しすれば…」
「…急げ。料理をお取り替えしろ」
料理長の号令に、厨房とホールが一斉に引き締まるのがわかった。あたふたしていたコンドウが息を吹き返し、深々と礼をしながら今一度謝罪を述べて料理の皿を下げる。
そこからは怒涛であった。あれよあれよという間にもう一セットハンバーグが焼き直され、そこに門外不出となっていた残り少ない秘伝のデミグラスソースがたっぷりと注がれる。
やがて湯気を放つそれを口に運び、老婆はほうっと長い息を吐き出した。やがて、サングラスの端から涙が滴る。
「そう、この味…。何もかもあの時のままだねぇ…」
厨房の面々の顔に笑みが戻り、コンドウもやれやれとばかりに頭をかく。料理長だけがギラギラ光る眼光をいつまでもその老婆にむけていた。
やがて店が閉まる時刻になり、ラストオーダーの時間も過ぎて客がいなくなったホールに、俺は一人佇んでいた。
なんだか今日は、いつもよりひどく疲れた。でも、何かが胸の奥に満ちていくのがわかった。自分は、やっと取り戻し始めているかもしれない。
「お疲れ」
後ろからぽんぽんと俺の肩を叩くのはアンザイさんだ。コックスーツのボタンを緩めながら、彼は大きく腕を振り上げて伸びをする。
「今日も大変だったなーっ。ここの客も従業員も、一筋縄じゃ行かないったらない」
「そうすね」
「お前、入店時に料理長に見せられた客のリストを創業時のものから覚えてたんだな」
「ウス。毎回洋風ハンバーグだけを頼んでいくお客だったようなんで、印象に残ってて」
「すげえよ、お前」
特に無感動なようにアンザイさんは言ったが、何よりの褒め言葉だと思った。
「最近入店されてなかったお客みたいだったから、料理長も気付いてなかった。お手柄だよ」
「いや、俺は…たまたま…」
「お前のおかげで、お客さんが一人満足して帰って行ったんだ。これ以上の事実はいらんだろう」
それだけ言うと、アンザイさんは踵を返してホールを出ていく。こちらにひらひらと手を振りながら。
しかし、お客の一人を満足させられたに過ぎない。この店の理念は、訪れる客全てに百パーセントのもてなしを提供すること。
「明日も頑張るか…」
誰に訊かせるでもなくぼそっと呟いて、ホールの電気を落として俺も帰途についた。
「鉄の靴」という屋号をいただく洋風レストランがあった。そのあらゆる点で特徴的な店は、今日も繁華街の一角に煌々と灯りを灯している。
明日もこの店に、客がやってくるのであろう。そうして一時のくつろぎを得て、日常に帰っていく。「鉄の靴」は、そのためにあり続ける。
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三題噺ガチャ
「あわただしいキッチン」
「ブーツ」
「眠る」
より制作
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