陳歌

 バスの窓から頭を突き出すようにして眺めた山からは、朝霧が幾筋も空に向かって立ち上っていた。幻想的な風景だ。自分が絵描きなら「絵になる」とでも言った所だろうか。だがあいにく自分は言葉しか自由でなかったから、頭をモニターの前まで持ってきて手元のパソコンに文字を打ち込んだ。


 裾野から 霧昇り行き 雲に溶く



 画面の文字を目で拾い直してから溜息を吐く。相変わらず酷い歌だ。モニターを破り捨てられない代わりに、バックスペースキーを勢いよく連打し文字を消していく。文字が一つ消えるごとに、自分の身を一センチずつ削がれるような思いがした。


 私は趣味で歌を詠んで、それを学内の機関紙に投稿する生活をしている。二十代のうら若き頃こそ、歌よりも歌によって得られる名声を欲してこの趣味に励んでいたが、そんな私についに言の葉が愛想を尽かしたのだろうか、三十も手前になった現在、数か月にもわたる酷いスランプに悩んでいた。

 言葉は出てくる。それこそ”そつなく”。しかしそうして目の前に描かれる言葉の森は、余りにもあっけらかんとした人工の林のようで、その隅々まで見渡せてしまう底の浅さが我ながらなんとも癇に障った。


 当初こそ、必死でもがいて歌を絞り出してはみたものの、それは詠めば詠むほどどんどん自分の気持ちから離れて行くようだった。ここまで自分は言葉が不自由だったかと心底呆れるほどに。そして、もがいた末に過去の自分の詠んだ歌を見て行くと、どれもが空々しい偽物の言葉の列挙に思えてきて、ほとほと自信が尽きてしまったのだった。



 それでも、趣味は趣味だ。毎日寝て起きなければいけないし、毎朝文学部の助手の仕事を始め、定時までは手が空かない。憂鬱で食欲がなかろうとも、食べなければ倒れてしまう。そういった幾つもの決まりきった約束事をこなしているだけで、残念ながら日々過ぎて行くのである。

 そんな毎日の果てに、ついに短冊に向かう事すら億劫になってしまった。なんとか自分を繋ぎとめる為にノートパソコンにフリーの短冊アプリをインストールしてはみたが、それも言葉の世界を汚しているような気がして一丁前に嫌な気分がした。


「まだ”詠めない”んですか?」

「”まだ”ね…、そう、まだだよ…」


 自分の直属の上司に当る事務員の毎日のようなツッコミに精神をえぐられながらも、渋々返事を返すと、その年下の上司は「ふん」と鼻をならした。こちらをせせら笑っているのではない。彼女がそんな玉では無い事はわかっている。この脳筋の事務員はただ純粋に私の事を心配してくれているのだ。…多分。


「まあそうやってぐだぐだされていると事務方の士気にも関わりますし。これ、差し上げます」


 手前のデスクにひらりと置かれたのは、A5サイズの簡素なポスターだった。


「頭冷やしてちゃんと冷静になって帰って来て下さいね」


 ポスターにはいかにも安い印刷で、ごちゃっとしたイラストと”一泊温泉宿ツアー”の文字が躍っていた。



 私が川柳と言う物に初めて触れたのは、もう記憶もおぼろな五、六歳ごろの事だった。

 早くに両親が離婚し、親権を取った母が働きに出るようになったため、その頃の私はまさにおじいちゃんっ子だった。母は物凄い大家族の末子であったから、祖父も当時相当な歳になっており、もう歩く事すら難儀する祖父との遊びは専ら”将棋”か”読書”だった。祖母は数年前に他界していて祖父も一人残された身だったからか、ずいぶん可愛がってくれたと思う。しかし外で遊びたい盛りの男の子な私は、最初よくぐずって困らせたらしい。

 そんな私が最初からごねずにおとなしく聞いていたのが、祖父の詠む下手くそな短歌だった。

 祖父が短歌を詠み始めると私はどこからともなく近づいて来ては膝に上り、短冊のよれよれの文字をじっと眺めていたそうだ。祖父はそりゃあ喜んだのだった。この子は歌の神子だ、などと一席ぶった事もあったらしい。


 そんなわけで、小学校に上がる頃には既に私にとって、短歌と言う物が身近な物になっていた。


 ある時、祖父の所に遊びに訪れた近所の爺さんが、気まぐれに私を誘って川柳の会を訪れた。それがつまり私が初めて川柳に振れた瞬間だ。もちろん当時の私に歌を詠むこと等出来なかったが、始終黙って人様の川柳を読み上げる声を聴いていたそうだ。


 間もなく祖父は他界したが、その頃には私も小学校で読み書きを覚え、拙いながらもひらがなで川柳を詠むようになっていた。

 だから、歌と言う物は、気が付けばそこにあるものだった。その大切さも尊さも何も、私にはわかっていなかったのだ。



 長い回想から現世に舞い戻って、寝不足の瞼をしぱしぱ瞬かせていると、例の事務員に面差しがどこか似ているバスガイドの声が耳に入ってくる。いつの間にかレクリエーションのツアー客とのゲームが始まっていたらしい。

 そんなものに巻き込まれるのは癪だったし、何より今上司の顔を思い出したくなかった。寝たふりをしながら先程の風景をちらちら見る。

 山は、どっしりとそこにただ在った。そして山から蒸気のような霧が立ち上る様は、まるで何もかも全て雲の中に昇り消えてしまいそうな心もとなさを感じさせた。自分の感動はいつか手のひらをすり抜けて消えてしまう。歌の感動のように。


 バスに揺られ、声高なガイドの声を聴いていると、にわかに眠気が押し寄せてきた。なんだかんだ昨日は緊張でほとんど寝ていないのである。


 そして気が付くと私は眠りに落ちており、温泉宿に付いた事をガイドが報せる声で目覚めたのだった。



 そのツアーは、元々学内で企画されたものであったらしい。いわゆる職員の慰安旅行というやつだ。しかしご時世なのか、年々参加者が減る一方であり、現在は学生や学外からも広く参加者を募っての交流会と化している、らしい。頼んでもいないのに上司が不機嫌そうに話してくれたことだ。

 ちなみに上司自身はこのツアーには不参加である。職務外の集団行動が怠いのだそうだ。そんな所ばかり一人前に若者でどうする。


 バスは乗客を降ろして一旦車庫のほうに向かったらしく、改めて見ると本当にボロイ旅館が目の前にあった。休んでいる間も仕事は溜まって行くので、上司には温泉に浸かっている間もこなせる雑事はこなすように仰せつかっている。思わずため息を漏らしながら仕事の書類の詰まったボストンバッグを旅館に運び込んだ。


 まあ、とは言え一時風呂でリラックスするくらいは赦されるはずだ。気が付くと久し振りに何もかもから逃れたような気がしていた。


 パソコンも開かずに旅館の部屋に放置して、ボストンバッグの中を物色する。ほどなくタオルと着替えだけを取り出して、さっそく温泉に向かった。

 温泉をメインに据えたツアーである。他の参加者は大抵がお年寄りとその付添いであったが、まあ自分が浮いていることなど構いやしない。意気揚々と露天風呂に乗り込んだ。



 夜、寝苦しくて目が覚めた。

 一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。見覚えのない薄暗い和室に、布団が敷かれて自分はそこに横になっている。追いかけるようにじわじわ記憶がよみがえってきた。私は温泉ツアーに来ていたんだったか。二階が寝室棟になっている旅館の一階のほうから、酒に強いお年寄りたちがまだ騒いでいる声が聞こえる。そこに宴会場があるのだ。

 なんだか置いてけぼりを喰らった気になり、眠る気が失せてしまった。とはいえ今からのこのこと宴会場に顔を出しても、もう場が出来あがっていて入り込めないだろう。少しはだけていた浴衣のすそを直しながら、布団から出て宴会の声が聞こえる窓際に身を寄せる。山奥らしい清涼な空気が塊となって私の身体を打った。

 徐々に闇に目が慣れてきて、見渡せば、遥か遠くまで山の畝が連なって夜空にくっきり輪郭を残している。


 甲高い電子音がした。


 みっともなく心臓を高鳴らせながら闇の中をまさぐると、携帯電話の着信ハザードがちかちか瞬いている。これはメールだ。今まで着信をオフにすることすら忘れていたか。

 開いてみると、着信を知らせる振動と共に、一通のメールが開いた。



タイトル:元気ですか


 元気ですか。仕事してますか。明日帰ってすぐ事務室に出向するように。

 以上。



 いきなり現実に引き戻されて頭がくらくらした。上司からの仕事監視メールだ。今夜は徹夜になりそうである。

 部屋の電気を付ける前に未練がましく後ろを振り返ると、やはり山の畝がどこまでも続き、山はただそこにあった。



「おはようございます。元気ですか」

「元気でーす…」


 温泉ツアーはあっさり終わり、また日常の最中に放り出された私なのだった。

 上司は出会うなりじろじろと私の身体を見回すと、最後に顔をねめつけて「ふん」と鼻をならした。


「どうやら冷静になったみたいですね」


 「今回は私の手柄ですね」「いずれ貸しは返してもらいますよ」などとなおもぶつぶつ言い始める。

 言い返す気力もなかったので、徹夜で出力したメモリーカードを押し付けた。


「まあ、でも、貸しの一部はちゃんと歌を詠んで頂ければ十分ですが」

「は?」


 ぼそっと付け足す上司の言葉に思わず聞き返す。上司は何食わぬ顔で続けた。


「つまり、アレです。あなたがいつも通りでないと我々事務方も困ると言う事です。…あなたの川柳、意外に学内のファンが多いんですからね」

「…はあ」


 あっけにとられているうちに上司はそそくさと居なくなった。上司の小言を喰らわないように今日の分の仕事もツアー先で終えてきてしまったため、手持無沙汰になりとにかく椅子に腰かける。机の引き出しの奥の方を探ると、短冊が出てきた。硬筆でカリカリ表面を掻く。


 裾野から 霧昇り行き 雲に溶く


 一節一節声に出して呟いてみて、二つほどうなずいた。

 かくして次の機関誌にはその川柳が載る運びとなったのである。

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