言葉のみず
夜が更けてきた。壁時計に目をやると十時の少し先を差している。このまま今日も自宅での仕事で夜を明かす事になりそうだ。社から持ち帰った生原稿の束を放り出したい気持ちに駆られたが、これは今の自分の貴重な食い扶持である。クリップでちゃんと綴じられているか確認してから、一応丁寧な仕草で机の上に降ろした。
眼の前のパソコンに貼られているメモ用紙の群れを舐めるように見回す。もう目が文字を追えない程度には疲弊して来ており、メモの文章もただ眼球の表面をなぞっただけで、言葉として認識されはしなかった。
今の場末の出版社に勤め始めてから五年、もう新米と呼ばれる年数はとうに越した。しかし、相変わらず自分に降ろされてくる仕事は端役の小説の校正くらいで、加えて何のためにやらされているのか分からないような新人教育や、紙面のふざけたコーナーばかり担当させられている。
大学で日本文学を専攻し、ご立派な名前の出版社に勤め、いつかは自分でも小説を書いてやる。…そう思ってずっとやって来たつもりだった。何が悪かったのだろう。小説を書くという目的を先送りにして保険ばかりかけてきた事なのか、そもそも自分には社会適正や小説家としてのツキが無かったのか。
新卒で内定した会社は、ゴシップだらけの表向き「文学雑誌」を細々と出している一社のみであり、一年目の頃から希望する仕事など一切触らせて貰えなかった。これでは経験を積むことも出来やしない。
一年目をお茶くみとごますりだけで消費し、二年目に上がるとすぐにゴシップコーナーを担当する事になった。それでも十分に忙しく、余剰な時間に小説を書き溜める事も出来なかった。
何年も経つうちに、ビタミン剤をガバガバ飲むようになり、昼夜もないような生活に突入した。今日のように自宅に帰れる日はまだマシである。大抵は汗臭い社内で寝袋にくるまりながら夜を越した。
いつの間にか目の下に濃い隈が出来、額も薄くなり始めている。高校、大学と寝る間も惜しんで文学を読みふけった日々が、いつも頭の端にぶらぶらと心もとなく思い出された。あの頃一番なりたく無かった人種に自分が着々と近づいているのは間違いない。しかし、いつか自分の手で作品を生み出し、それを世に出すという夢は捨てられずにいた。
先輩に飲み会でその件を相談した所、「いつまでも浮かれてんじゃねえよ」と一喝されたが。
今している仕事は、雑誌の社説欄に載せる囲み記事の校正であった。
勿論、この記事も自分の手によるものではない。どこかの御大層なコメンテーターが、茶飲みついでに書いたようなつまらない記事だった。こんなものに十数万と言う原稿料を支払っている事がそもそも腑に落ちない。しかし、この原稿を落とせば飛ぶのは自分の首である。校正の締切は押しに押し、明日に迫っていた。
頭が上手く回らなくなってきて、右手で眉間を抑える。先輩社員を見て覚えた仕草であったが、ここまで自分に馴染むとは。一先ず煙草休憩にする事にしてクロークチェアから腰を上げた。
1LDK一間のボロい自室から、のそのそベランダに降りる。煙草を一本取り出して火をつけた。ただファッションと惰性で吸っているだけの安っぽい銘柄の煙草である。しかし紫煙を吸い込むと、心持頭が明瞭に成って行く気がする。習慣と言う物は恐ろしい。
このまま、脳が老いて行くに任せて自分も年を重ね、いつか取り返しのつかない場所に立っているのか。先輩の言うように、こんな考えが頭をよぎる事自体「浮かれている」のか?
ベランダから入った風で、パソコンデスクに積まれた書類がはたはたと音を立てる。その内一枚が吹き飛び、舞いながら床へと落ちた。まるで自分の様のようで、みっともなさに溜息を付く。吸い始めたばかりの煙草をベランダの床ですりつぶすと、今しがた落ちた書類を拾いに部屋に戻った。
拾い上げた書類――原稿用紙には、なぜか見覚えのない文章がぎっちりと並んでおり、しかも一字一句魂を込めてしたためられたものである事が自分などにもよく分かった。
「これは…」
思わず声に出して呟いて、改めて事態のまずさを思い知る。
明らかにこの原稿用紙は、先輩社員の担当する小説家の原稿だ。いつの間にか自分の持ち帰る書類の束の中に紛れ込んでいたらしい。小説とは言え、先の囲み記事の原稿料など馬鹿にしかならない額で取引された未発表の文章である。自分が軽々に社外に持ち出して良い物では無い。
明日書かされる始末書の束と方々に下げなければいけないであろう自分の頭を思い遣り、いよいよ気分が悪くなって来た。眉間をどすどすと指で突きながら、中古のソファにどっかりと腰を下ろす。そうすると、もう何もかもがどうでもよくなって来た。
「…どれ」
どうせ怒られるには違いないのだ。原稿にさらっと目を通す。それは単なる苛立ち紛れの行為であったし、原稿だって一枚だけでは意味が取れない筈だ。ゆえに全く期待などしていなかった。しかし。
一行読んだ途端に魅せられた。その瑞々しい言葉づかいと、描写の柔軟さ、鮮烈さ。詩的でありながら対象を鋭く洞察した形容詞の羅列。
二行、三行と読んでいく。眼の前に膨大な情報を持った一枚の絵が完成して行く。
その最後の一筆となる一節を読み終えたとき、どんな映像作家が作ったものでも足りないような、独創的で美しい世界が目の前に拓けた。
…数秒後、はっとして頭を振る。余りにも圧倒されて、数秒恍惚としていたようだ。これは、これはヤバい。
もちろん最初に予見したようにこの一枚だけでは前後の物語までは想像しきれなかったが、しかし原稿用紙一枚に満たないとは思えないほどの言葉の波、洪水と言っても良いだろう。言外の表現が多用され、一見して抽象的過ぎて訳が分からないような文章ではあったが、そこここに寓意的に流れをせき止める言葉がちりばめられており、その節がダムとなって情報をせき止める。そして、次のダムに至った時、そこまでの意味が生まれたての宇宙のように広がって自分を包むのを感じた。
これは言葉を知り尽くした人間の原稿だ。
今度は拳でガンガンと頭を殴る。
興奮が冷めなかったが、自分との圧倒的な力量差がそこにあった。
翌朝、なんとか夜の内に終えた校正のデータと、件の原稿を持って出社した。
あの原稿の続きを見たいと言う思いがずっと頭を離れなかった。なんとか社員の出揃う前に原稿を確保して読んでしまおう等と考えていた。始発を乗り継いで会社に駆けつけ、デスクの時計を見ると七時半を少し回った所である。今日に限って同僚たちは皆、取材や原稿取りに出ずっぱりらしく、珍しい事に社内に他に人は居なかった。絶好のチャンスだ。
しかし、その原稿がどこから紛れ込んだものか全くわからなかった。もしかしたら既に校了された生原稿が偶々書類の隙間に滑り込んだだけかもしれない。だとしたらもはや元の原稿は破棄されているか保管庫に回されている。自分の手にしようが無かった。
「あれ? 早いですね、先輩」
間延びした声にぎくりとして振り向くと、二年前自分が新人として面倒を見てやっていた後輩が、出版社員とは思えない巨体を揺らしながらゆっくりデスクを回り込んでくるところだった。
「あ、ああ、お前こそ早いな。なんだ、何かミスか」
「先輩こそ。って言ってる場合でもないんですがね」
「なんだ? ホントにミスでもしたのか?」
緊張感の無い後輩の様子を見ていると徐々に冷静さを取り戻してきた。考えてみれば、あの原稿を持ち去ったのが自分だと言う事を誰も知らない。当の原稿だけが唯一の証拠だ。つまり、これをどこかのデスクに忍び込ませてしまえば、自分は謝る必要もなくなるのではないか。
だが、裏腹に自分の腹の底から湧いてきた思いは、「ここでこの原稿との縁を断ちたくない」だった。何かが動き出すのを、あの時確かに感じたのだ。それは、堅く閉ざされていた門が開き、向こうから徐々に光が差し込んでくるような光景を想わせた。その光こそ件の原稿なのだ。
「えっとですね、うちの雑誌の文学賞に回されてきた原稿をなくしちゃって」
「…何?」
「いや、わざわざこんな権威のない雑誌に投稿してくるくらいだから、大したことないに決まってるんですが。ちょっと読んだ感じ光るものを感じてですね。でも、一枚失くしちゃったらもう無理ですねえ」
突然に光が束になって自分を貫いたような思いがした。後輩に歩み寄り肩を乱暴に揺さぶる。
「見せろ。見せてくれ」
「ちょ、痛いですよ。どうしたんですか」
「良いからその原稿を俺に見せろ」
自分の剣幕に、珍しく困惑の表情を見せていた後輩だったが、何やらただ事ではない様子を察したらしい、慌てたように書類カバンから原稿用紙の束を取り出した。筆跡は、まぎれもなくあの原稿と同じもの。
食いつくように読み始めていた。
それは、乾いた水路に水がしみとおって行く感覚に似ていた。文字を一節一節追うごとに、それはしずくとなって大地に降り注ぎ、やがて流れを起こし、地面を渦で満たして行く。一行を追うと、それは水路に張られた水となり、踊るように先へ先へと自分を急かす。
その永遠のような、ほんの一時であったような、奇妙な時間を味わうと、自分は一つ息をついた。水中で自由自在に泳ぎ呼吸する魚になった気分だった。
数週間後、自分はあるあばら家を訪れていた。件の原稿を纏めて編集長に突き出したところ、あれよあれよという間に雑誌の大賞に決まったのだ。今までにない力作との事で、ページ数を割き、作者との対談なども併せて大々的に売り出すと言う措置が取られた。自分は原稿を確保していた後輩に手柄を譲る代わり、対談のページを作る役割を強く求め、それを了承させたのだった。
原稿が郵送されてきた封筒にはしっかりと住所が記載されており、自分でも携帯のナビ機能を使って難なくその住まいに辿り着く事が出来た。
そこは、一面緑に囲まれた、しかし酷く古び、ガタの来た屋敷だった。
「ああ、いらっしゃいましたか」
丁寧な抑揚の声のほうを見ると、上がり框から屋敷の住人と思しき老婆が顔を出したところであった。
「あ、…と、〇〇出版の者です。本日は文学大賞の原稿の件で…」
「はあ、はあ。存じておりますよ」
「ではあなたが…?」
みすぼらしい成りをしていたが、老婆はどこか艶めいた上品な笑いを漏らし、
「いいえぇ、こちらでお待ちです」
自分を奥へと促す。勧められるがままに家屋に踏み入っていくと、所々腐りかけているらしい床板がぎしぎしと音を立てた。
「こんな場所で…」
知らず呟いていた。はっとして口に手をやると、老婆はまたくすくすと笑い、「いいえぇ、全くその通りでございます。この城はいかにも王様には不釣り合いでございますから」などと囁き、ある扉の前で立ち止まった。ゆったりとした動作で自分に中に入るよう合図する。
その真っ暗な部屋には、か細い手足の少女が希薄な存在感を纏って座していた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
「あ…じゃあ、先生があの原稿を」
「うん、あたしが書いた」
少女は手振りで老婆に下がるよう伝えると、青白い額をこちらに向ける。
「悪いね。目が見えないんだ。君は声からすると年上だけれど、横柄な態度を許してほしい」
「とんでもない」
「で、どうだった?」
少女が座ったままぐっと身を乗り出した。
「あたしの言葉は君にどう映った?」
「なんというか…言葉に出来ない、というのは、編集者としてもあなたの原稿を読んだ者としても零点の回答だと思うのですが…それ以外に形容しがたい」
「そうか。そうか。ありがとう。君の言葉で聴きたかったんだ」
彼女は血の気のない口元を少し歪めて見せてから、激しくせき込んだ。
「すまないね。もうあたしの命は長くないんだ。この目と同じ病気でね。最後に君のような来客があって嬉しかったよ」
「そんな」
「単なる病人でしか無かったあたしが、最後に君ほどの人に”先生”と読んでもらえたんだ。これ以上の冥土の土産はない」
またせき込む。そして、すっとこちらに手を差し出した。
「君はあたしの唯一の編集者だな。原稿料は手配した所に入金してほしい。なに、この世を発つ前に少し慈善事業の真似事がしたいんだ。…握手してくれないか」
おずおずと差し出した手で握った少女の手のひらは、嘘みたいに熱を帯びていた。
数か月後、自分はその仕事限りで編集を辞め、執筆の道に分け入って行く事になる。しかし、この話はここで幕を閉じよう。少女と老婆のその後は、自分にも分らない。
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