写し笑み
人の笑顔が好きだ。心から湧き上がってくる表情を見ていると、自分のちっぽけな感情など忘れて相手のキラキラした笑顔に没頭することが出来る。
その瞬間にシャッターを切り、最高の瞬間をカメラに収める時には、それが何度目でも深い幸福と沸々とした興奮を覚える。これこそ自分の天職だ、と思った。
確かに思っていたはずだった。
幼く若い頃、私は絵を描くのが好きな少女だった。三歳の頃には既にクレパスを与えられ、丸やら四角やらざんばらな線やら、何かよく分からないものを紙に延々描き殴っていたそうだ。
それは高校時代まで続き、自分の目標はいつの間にか「絵で食べて行く事」になっていた。
そんな私が写真と出会ったのは、高校当時通い始めた美術予備校で、「日常的に写真を撮り構図の感覚を磨く」という課題を出された時だった。多くのクラスメイトが街並みや道端の花、空などを撮る中で、私の被写体はいつも人物、それも一生懸命何かに励んでいる人物だった。
ある時はストリートライブを行う音楽家志望の少年を様々な角度から何十枚も撮り、またある時は教室で雑談する友人達を少し離れて激写した。その度に、被写体になった人たちが、照れたような笑顔を浮かべながら自分に「ありがとう」と言ってくれる事が、ずっと降り積もって行った。そしてこれまたいつの間にか自分の夢は、「写真家になる事」にすり替わっていたのだった。
正直、その時は途方に暮れた。
今まで絵しか描いてこなかったのだ。私の日々も親も友人も、絵を中心に回っていたし、何より写真で生計を立てると言う事を現実的に想像できなかった。誰にも相談できず悶々としていたある日、同じ予備校に通っている友人の高校の文化祭を見に行く事になった。
様々な出店、教室を利用した出し物が並び、勿論それを満喫してはいたのだが、私の目的はやはり写真を撮る事にあった。屋外ステージでのバンド演奏、ライブペインティング、クレープ屋に群がる女子高生まで、とにかく撮りまくった。
後日、その写真を見た友人の一言が私の気持ちを決めた。
「いいね、あんたが撮った人達、みんな良い表情してる。良い写真だよこれ、どれも」
その後、紆余曲折あり、高校卒業と共に今の個人経営のスタジオに内定を貰ったのだった。
「今大丈夫?」
相変わらず遠慮勝ちに、その壮年のオーナーが話しかけてきた。朝一の列車に乗って出社し、今まさに取材に出ようとしていた自分は、またかとやや辟易しながらも頷く。スタジオの看板を預かる写真家でもある女オーナーは、その割に腰が低く、はっきり言ってスタジオの誰にも舐められていた。事務員ですら人の見ている場所で平然とオーナーに意見したりするくらいだ。
しかし、非常にいい写真を撮る事は確かであったし、その腕も人柄もスタジオの誰もが認めていた。だからこそ頼りないオーナーを担ぎ上げなんとかやって行こうと言う一体感があった。
「いえ、あのね、昨日提出した貰った写真の件なのだけど…」
「はあ、何か不備でもありましたか?」
「いえ、そう言うわけではないの。ただ、その、私の気のせいだったらいいのだけれど」
相変わらず要領を得ない会話を長々と展開してくる。私は早くその場を去りたくて思わず足踏みをしながら言葉を促す。オーナーはまだうんうん唸っていたが、更に言い出しそうに切り出した。
「あなたのその後のことでね、その、出来ればちょっとお話をさせて頂きたいのよ」
あ、でも確か取材があったわよね。その後で良いわ。などとなおも言い続けるオーナーに一礼して、駆け足でバス停まで急いだのだった。
その日の仕事は、地元で細々と開催されている小さな祭りの取材写真を撮る、というものだった。依頼してきたのは小さな雑誌の編集部で、これまた小さな記事として取り上げるらしい。
しかし、小さい仕事であろうが大きい仕事であろうが、私のする事は決まっている。ただただ最高の瞬間を写真に収める事だけだ。
祭りの本番は夕方からであったから、まずは青年団の組織した実行委員会の取材から入る事にした。途中から合流した雑誌記者が質疑応答をする人物にフォーカスしてシャッターを切って行く。
どの人も、取材中様々に表情を変化させていくが、自分の好きな物を語る時には子どものように目が輝き笑顔になる。その瞬間をがっつり写真に収めた。
仕事帰り、記者と一緒に夜も更けたファミレスに立ち寄った。写真を見て貰いながら雑談を交わす。
「いやあ、あなたと一緒だと本当に気持ちのいい表情をしてくれますね、みなさん」
「そんな、私なんて何も」
「いやいや、きっと自然と相手を笑顔にさせる何かを発しているんですよ」
やや非科学的な話ではあるが、私とてまんざらでもない。
その日は「では現像したらまた改めて見せて下さい」と言う事になり、帰社した。
オーナーの趣味であるらしい古めかしい振り子時計を見上げると、丁度零時と言う所である。今日はそろそろ帰宅しようか、と考えた所で、そういえばオーナーに呼ばれていたなと思いだした。やや面倒に成って来た自分がいて、思わずその場でとんとんと足踏みする。しかし、オーナーのあの要件の切り出し方も気に成るといえば気に成った。
要点だけでも聞いて帰るかと社長室に向かう事にした。
軽くノックして室内に入ると、オーナーは写真の入ったファイルを真剣な顔で眺めている所だった。何かの仕事の検品だろうか。私に気付いたオーナーは、手振りだけでソファに座る事を促すと、掛けていた老眼鏡を外しふっと息をついた。
なんだかいつものオーナーと纏う雰囲気が違う。
「あのね、今朝の話なのだけれど」
「ええ、それを伺っておこうと思いまして」
「そう、殊勝ね。あなたのそう言う所とても良いと思うわ」
語る言葉とは裏腹に、オーナーの目は冷たい光をたたえている。何か不穏な事を言われる気配がひしひしと漂ってくる。オーナーはソファの前にやってくると、今自分が見ていたファイルを私に差しだした。見覚えがあるかと思ったら、昨日納品した特集取材の写真を纏めたファイルだ。
「あなたの写真ね。評判がいいのよ。みんなにこにこしていてお友達、ハッピー、ってね。でも、私には空虚な写真たちに見えるの。あなたの顔がないのよ」
翌朝、浅い眠りを目覚ましの音で分断されて、自分は渋々布団から起き上がった。
あれからオーナーの言葉に唖然としてしまい、到底何も考えられないまま帰宅し、取材の疲れもあってそのまま寝てしまった。しかし、夢の中で、あのオーナーの言葉が何度も何度もリフレインされ、その度に汗びっしょりで飛び起きる有様で、昨日はろくろく眠れなかったのだった。
今日は、持ち回りで定期的にスタジオ社員が取る事になっている定休日だ。しかし仕事に向うでもないと、しゃんとするきっかけが掴めなかった。とりあえずリビングに降りて、眠気覚ましに珈琲でも淹れる事にした。
「…おはよう」
「あら、おはよう」
リビングでは、壮年の父親と母親が、丁寧に作られた朝ごはんをつついている所だった。母親がこちらを見るとぱたぱたと立ち上がって、「朝ごはん食べる?」などと聞いてくる。こういうのは実家暮らしの特権だな等と思いながら、それでも食欲がなかったので断った。
「ねえ」
「あら、何かしら? あ、ちょっとお父さん、テレビのボリューム上げ過ぎないで!」
気忙しい母と黙々と自分の空間を作る父を見ていると、にわかに気持ちが落ち着いてきた。
「…いや、なんでもない」
「そう? でもあなた、昨日は浮かない顔して帰って来たじゃない」
「あー、あれは」
さすがである、鋭い。見事に図星を差された格好になってしまい、仕方なく一部始終を母に話したのだった。父も聞いているのかいないのか、耳をそばだてるようにして傍に座っている。
全てを聞き終えて、母は何とも言えない妙な顔つきになった。
「お母さんにはお仕事の事はよく分からないわ。でも、オーナーさんの仰る事は確かかもしれないわね」
「どういう事? 写真って言っても記念写真じゃないんだから、私の顔が映ってないのは当たり前だし、仕事で提出するんだから極力写真家の主観は無い方がいいでしょ」
「うーん、そう言われればそんな気もするんだけれどねえ」
「主観とか客観の話じゃないんじゃねえか?」
リモコンでテレビの電源を切った父が、それでもデジタルテレビの薄いモニターをにらみつけながら後に続いた。
「その写真でお前が本当に言いたい事はなんなのかってことだろうがよ」
その後、両親と共に昼食を取ってから、自分は何もする気になれずぶらぶらと近所を散策していた。職業病というやつなのか、こんな時でもカメラを首から下げている。しかし、その重みがいつもよりも鈍い物のように感じられた。
(訳わかんないよね…写真なんて事実を切り取るものなんだから、表現目的のある絵とは違うのに)
ふと見た先にベンチを見かけて、とりあえず腰かける。ベンチの足の辺りに小さく可憐な花が咲いていたので、それを気まぐれにフォーカスしてシャッターを切った。
(ほら、これもただの花の写真。花が綺麗だね、小さくても頑張って咲いてるね。それだけのものでしょ)
そこまで考えて、はっとした。見る見るうちに顔が赤くなってくる。
自分はなんて型にはまった考え方をしているのか。花が綺麗、小さくても咲いてる。その程度の乏しい感性で写真家など気取って、一体どれだけ偉くなったつもりだったのだろう。思えば、自分の普段撮っている写真も、「ただ笑顔を撮っただけ」のものになってはいなかったか。
笑顔は見る人を元気にする。
じゃあ私はどんな人を、どうやって、どんなふうに元気にしたいのか。そこまで考えたことはあっただろうか?
頭を抱えてベンチの上で丸まっていると、犬の散歩をしているらしいご近所さんの顔が急に目の前に現れた。
「あら、大丈夫ですか? お怪我でもされまして?」
「あ、いや…」
事情を話すわけにもいかず、あーとかうーとか感嘆符を呟く私なのだった。一先ず相手にも何でもない事は伝わったらしく、双方ほっとした表情になる。すると、相手が自分の胸元をちらりと見て、顔を輝かせた。
「随分良いカメラを持っていらっしゃるんですね。私も昔は色々撮ったわあ」
「あ、写真家さんだったんですか?」
「そんなにかっこいいもんじゃないですわ。でも、とにかく目に映る素敵な物全て写真に収めたくてね。昔の写真ってフィルムだったから、一ヶ月で何十個もフィルムを消費しましたわよ」
饒舌になるその人を見ていて、ふと写真を撮ってみたい感情に駆られた。先ほど考えたことも頭にまだあった。しかし、自分の芯がぶれる必用はきっと、ないのだ。
「あの、ワンちゃんと一緒に撮らせて貰えませんか?」
「あらあら、嬉しいわね、もちろんどうぞ」
翌日、スタジオに出社して昨日撮ったご近所さんの写真を現像していると、それを後ろから覗き込む人の気配があった。振り向くと、オーナーが小柄な体を更に小さくして立っている。
「…あ。おはようございます」
「おはようございます…その、昨日はごめんなさいね。あなたの気持ちを考えずにずけずけ物を言って…。あなたの写真、嫌いではないのよ。ただ、最近義務で撮っている感じがしてね、それが気に成っていたの」
だって、楽しく撮った写真じゃないと見た人も笑えないじゃない? そんな事を消え入りそうな声で付け加えたオーナーに、なんだかおかしくなって吹き出してしまった。現像したての写真を箸で挟んだままオーナーに見せる。
「…あら。良い写真…」
「昨日一日考えました。私はやっぱり笑顔を撮るのが好きなので、こう言う写真に成っちゃうと思うんですけど」
「ええ、でも、この写真、シャッターを切ったあなたも笑っていたのが解るわ」
にっこりと笑ったオーナーに、心の中で深く感謝した。昨日、ご近所さんの写真を撮り終えた時に掛けられた「ありがとうございます」の言葉は、いつもよりもずっと強く自分の中に響き続けているのだった。
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