偏屈な恋

 愛、という物を僕はあまり信用していない。親子愛、師弟愛、隣人愛。色々とカテゴライズされてはいるが、結局人が他人と一緒にいるのは相手と利害が一致しているからだと思っている。そして、その合意が解かれた途端別れがやってくる。そう言う物だ。

 この論説を姉に話したところ、「そりゃあんた、事実ではなくてあんたの願望だよ」などと言われた。実際に僕の母親は、幼い頃に僕と姉を残して父のもとから逃げ出していたのだ。


 もし母との間に親子愛というものがあったなら、僕は死ぬまでそれに期待し続けなければいけないだろう。だから母の事も「他人」と断じて自分を納得させているのだ。

 姉の話を要約するとそんな所だった。


 心当らない訳ではなかったが、やはり自分は「愛」を認めるのが恐ろしいのだろう。高校生になっても友人はさっぱり出来なかったし、まして恋人なんてものが出来るはずがなかった。誰かと付き合うようになって、よしんば結婚まで漕ぎ着けたとして、その人物が母のように自分の元を去らない保証はないのだ。


 だから、なぜか自分に告白してきた後輩の事も、”そんな風”には見れなかった。


「えっと…なんで私じゃだめなのか教えて貰えます?」


 その後輩は、控えめな顔立ちとは裏腹になかなか根が強かった。


「はあ。じゃあ逆に聞くけどさ、君は僕のどこがそんなに良かったわけ?」


 この質問は鉄板であると姉から借りた少女漫画で読んだことがある。案の定、後輩の少女は腕組みをして考え込んだ。逆に傷ついた自分がいる。

 考え込むほどのことであれば僕を好きになった理由など元々曖昧な物なのであろう。その辺りを指摘してさっさと諦めさせようと思った。が、後輩は存外狂った回答を提示してきた。


「どこって、先輩の全てが好きなんですけど…」

「…はあ…?」


 今度は僕のほうが考え込む番だった。主にこの恋愛脳の少女をどう御せばいいのかという事について。

 しかし、恋愛経験皆無の僕にはそんな方法一つも思い当たらず、結局「考えさせてほしいから今日の所は解散にしない?」などと我ながら情けない妥協案を提示してその場を収めたのだった。



 翌日、人目を避けて一人屋上で昼食のメロンパンをかじっていると、階下に続く扉がぎしぎしと古びた音を立てて開いた。一瞬先生がやって来たかと身構えたが、何の事は無い、例の後輩である。


「おま…まさか僕を付けて来たんじゃないだろうな?」

「まさか!」


 ぱっと華やいだ笑顔で彼女は言った。こうして改めてみるとなかなかの美人の部類に入る。特徴が無いと思っていた顔も、よく言えば整っていて、眉も髪もしっかり手入れされているが化粧っ気はない。リップクリーム程度は塗っているようだが。

 そこまで考えて自分の思考にはなはだ嫌気がさした。何を浮かれているんだ僕は。昼の穏やかな食事の時間をこれ以上邪魔されないよう、速やかにお引き取り願おう。


「先輩がいつもここで一人でお昼食べてるの知ってますから。今日から私も一緒に食べて良いですよね?」

「…はああ?」


 マズイ。緊急事態である。この脳みそお花畑の少女は実はとんでもないストーカーなのかもしれない。だとすれば到底自分の手には負えない案件である。

 途方に暮れて思考停止に陥る僕をよそに、彼女はちょこちょこと小股で僕のほうに近づいてくると、短いスカートを抑えながら隣に腰を下ろした。そして手にしていた手提げからアンパンを二袋取り出すとずい、と僕のほうに一つ差しだす。


「先輩、甘いパンが好きなんですよね。いつもメロンパンかアンパンかで迷っているみたいですけれど、今日から両方私が用意しますから」


 否応なくパンを受け取った僕だったが、その瞬間悪魔と契約してしまったような気持ちになった。



「顔が死んでるよ?」


 その夜、家でソファに腰かけてだらだらとテレビを見ていると、姉がそんな事を言った。思わず顔に手をやった僕である。姉は風呂上りらしく、湯気の立つ頭にタオルを巻き付けて、薄着でアイスを食べている。が、まあ僕に限ってライトノベルのようなスケベイベントは皆無である。そもそも実際の姉や妹と言う物は、その弟や兄にとって魅力的に見える物では全くない。

 姉はチャンネルを手にすると、「あ、あんたこの番組見てるんだっけ」などと言いながら構いもせずにチャンネルを変えた。つまりは女兄弟とはこういう生き物なのである。


「で、なんかあったの?」

「いや、昨日後輩に告白されたんだけどさ…断り切れなくて」

「ああ、あんたらしいね」


 けらけらと笑いながらアイスを齧る姉である。


「で、付き合うの?」

「うーん、それ以前になんか変な子なんだよ…」

「変って言うと?」

「僕の全てが好きだとか言うし、異常に僕の事良く知ってるし」


 ついでになれなれしい。と付け加えた所、姉はなぜか考え込む顔をした。食べ終わったアイスの棒を生ごみ専用のごみ箱に放り投げ、どっかりとソファの僕の隣に腰を下ろす。


「そりゃ、あんた、本物だね」

「はあ、まあ本物のお花畑女だけど」

「違う違う」


 ま、付き合ってみなよ、いずれわかるから。と言い捨てて、姉は歌番組の今しがた登場したロック歌手に目を輝かせる。まったく、後輩にしても姉にしてもだが、女と言う物は本当によく分からない。とりあえず実際にテレビをしっかり見ていた訳ではなかったから、姉に付きあって歌番組の次々現れるタレントたちをぼんやり眺めた。



 それから、後輩はまさにつかず離れずといった風で、僕に付き纏ってくるようになった。教室まで推し描けてくる事はなかったが、僕が一人になろうとするとどこからか湧いて出て、例の華やいだ笑顔で一方的に喋り続けるし、帰宅しようと校門をくぐると必ずそこに彼女がいる。そして、登校するとまたも校門のところで待ち伏せていて、おはようございます! と一声発しては満足して走り去って行く。そんな事が数週間も続いた。

 初めは渋って距離を置いていた僕だったが、いつの間にか彼女の存在を目で探すようになっていった。しかし、自分のこの気持ちは到底恋とは言えない。いつもそばにくっついてくる彼女の存在が「当たり前」になっているだけだ。彼女自身も、僕に付き纏って、まるで恋人のように振る舞う事そのものを楽しんでいるのではないか。だとしたらいい迷惑である。


 それでも、なぜか彼女を無下に追い払う気にはならなかった。

 今までの学校生活は、いわば全く人と関わる事のない孤独な時間だった。教室にいても誰とも会話する事も無く、僕と目を合わせようとするクラスメイトすらいない。授業中も黙々とノートを取るだけで、こそこそと私語にいそしんだり手紙を回し合ったりする生徒たちがしらけて見えた。こうして僕に付き纏う女が居ても、誰もそのことを気に留めたりはしない。

 僕等、彼女の存在がなければこの学校には居ないも同然ではないか。



 そんな考えに捕われはじめたある日、朝眠気を耐えながら登校しても、校門付近に少女の姿はなかった。

 ちらちらと不自然でない程度に周囲を伺ってみたが、やはり彼女はいない。ようやく諦めてくれたのだろうか。いや、一度程度ではたまたま用事があったという事も考えられる。しかし、その日一日校内をぶらぶらしては見たが、いつも申し合わせたように現れる筈の少女の姿はなく、僕は知らず苛々としていたらしかった。

 声を掛けてきた同級生を、はっとして物凄い形相で見ていた。


「あ…ごめん。今大丈夫?」

「え、あ、こちらこそごめん。考え事しててさ」


 嘘ではないが定番の言い訳である。そのクラスメイトの女子は、ちょっと周囲を見回してから、「教室出ない? 話があるの」と妙にもったいぶって言ったのだった。



 大方の予想通りと言うか、その女生徒の話は「この所付き纏っている女の子がいるみたいだけど、私もあなたが好きだから付き合って」といったようなものだった。ここで「モテ期だ!」などとモノローグが入るのも実際にはライトノベル特有の展開である。僕のような恋愛経験値の低い人間にとっては、大いに慌てるイベントでしかない。


「私の事嫌い?」


 その割に少女漫画の定番どおりに事が進むのは勘弁してほしい。


「嫌いとかじゃなくてさ…その、なんで僕なの?」

「なんでって、そんな事に理由なんかある? 好きだから好きなの」

「僕には好きって事が良くわからないんだ」


 まだ自分は苛々しているのだろうか、せきを切ったように思いが溢れだしていた。


「大体、君もあの子も僕の事を好きって言うけど、それって君達が見てる僕の幻想が好きって事なんじゃないの? 実際の僕はこうして君の事を責めるような酷い人間だよ。僕には僕を好きになる理由なんか全然理解できない!」


 その瞬間、大きな音がして、僕はその場に尻もちをついていた。じわじわと思い出したように左の頬が熱を帯びてくる。

 右手を振りかぶったままの姿勢で、その女生徒は僕を見下ろすと、今度はぼろぼろと涙を流し始めた。

 どうやらその場の様子を隠れて伺っていたらしい女生徒達がわらわらと現れ、僕と泣いている女生徒を至近距離で囲んだ。


「大丈夫? ひどいよね」

「ほんと、あんたが好きになる価値なんかないよ、この男」

「ちょっと、一言謝ってよ」


 女生徒の一人が僕に歩み寄り、見下ろしてくる。僕の心中は酷い物だった。


 実際に彼女を傷付けてしまったことがよく分かっていた。しかし、その理由を認めてしまえば、彼女が僕を「好き」だという気持ちを肯定してしまう事になる。なぜなら、彼女が涙を流している理由は、僕が僕を言葉で傷付けたから。僕の為なのだ。

 走馬灯でも見るように、後輩の少女との毎日が目の前をよぎった。あの子はどんな気持ちで僕のそばに居続けたんだろう。振り返る事もない自分の隣にいて、どれだけ傷つき続けていたんだろう。なぜ自分はすぐに返事をしてあげなかったんだろう。どうしてあの子の気持ちを疑ったりしたのか。


「あれー? お取込み中です?」


 あっけらかんとした声がして、そちらを見ると、例の笑顔を顔に浮かべたままあの子がこちらに向かってくる所だった。


「何、白馬の王女様登場ってわけ?」

「ウケる、この男、後輩の女の子に助けられてるの?」

「何くだらない事言ってんですかね、先輩方」


 当たり前じゃないですか、その男の事が好きなんですから。

 そう堂々と述べた少女の剣幕に、女生徒達がたじろぐ。泣いていた女生徒が顔をあげ、少女とがっつり対面する格好になった。


「この男、あなたにあげる。…私には手に負えないから」

「あげるとはいい度胸ですね。もちろん頂きますが、あなた、先輩の良い所本当は知らないでしょ」


 ぐっと黙った女生徒は、他の女生徒達に付き添われてその場を去って行った。


 少女と、まだ地面に座り込んだままの自分だけが取り残される。その場にいる他の生徒たちが、いい加減騒ぎに気づいたらしく人垣を作っていた。


「…ごめん」

「私に謝っても仕方ないですよ」

「いや、僕は君に謝らなければいけない」

「…そうですか」


 少女は僕の襟首を掴むと、思いのほか強い力で引き寄せる。僕の額がしゃがんだ彼女の額と触れ合いそうな距離まで近づいた。


「多少マシな答えを頂けて嬉しいです。ちなみに、私は諦めませんから」


 そしてすっと立ち上がると人垣を払いながら遠ざかって行く。僕は力が抜けてしまって、情けなくその場にうずくまった。




「おはようございます!」

「はあ…?」


 翌日、あんなことがあったというのにいつも通りの華やいだ笑顔を浮かべながら、少女が突進してきた。


「いやあ、夏場は寝苦しいですね! 昨日なかなか寝付けなくて二日連続で遅刻するところでした」

「あ、そう言う事ね…」

「心配しましたか?」


 また彼女が至近距離まで顔を寄せてくる。なぜか顔が火照って、少女の目を見ていられなかった。

 その反応を見て彼女は満足げに笑うと、


「先輩を絶対一人になんかしませんから!」


 とだけ言い残して毎度の如く矢のように走り去って行った。


 その時、「そりゃ、本物だね」と言った姉の言葉が良く理解出来たのだった。

 彼女との日常がまた幕を開ける。

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