隣人の音色

 毎朝起きるたびに身震いするような冬の空気が、日々じりじりと足音を忍ばせたまま世間を覆っていく。アタッシュケースを一つぶら下げて、私は新たな住居へ向かう坂を上っていた。路面の僅かな凹凸に引っかかってケースの車輪が跳ねるたびに、腕が大きく振動する。不快なその感覚は、もはや自分に馴染んでしまっている。

 私はいわゆる転勤族と言うやつで、新卒でなんとか滑り込んだ大企業の都合に振り回され、あちらかと思えばこちらという具合に、次々に全国の支社の助っ人に回されていた。

 当初こそ新たな環境に身震いするほどの気の入りを覚えた。全く知らない人の群れの中に投げ込まれる事にワクワクしてさえいた。だが、数か月もたたず環境が一変する生活は、徐々に精神を削り、安らぎの無い生活へと私をいざなって行った。

 気が付いてみれば私も三十手前となり、転職にすら足踏みするほど「現状維持」という湯船に肩までつかってしまっていたのだった。


 アタッシュケースの中には、最低限の衣類と化粧道具、あとはどうしても引き継がなければいけない書類程度しか納められていない。転勤を繰り返すうちに、新たに買いそろえた家財を次の引っ越しの際に纏めて売り払う事態が続き、自然と不必要な物を持たないようになっていた。

 仕事で成果を出しても次の勤務地では自分は新人である。そんな日々の中で、このアタッシュケースの大して重くも重要でもない中身こそが、自分の正当な評価であるような錯覚を覚え始めていた。それでも、進み続けるしかなかった。立ち止まってしまえば何か取り返しのつかないものに巻かれて、そのままうずくまり動けなくなってしまうような予感があった。



 坂の中ほどまで来て、さすがに肩を上下させながら立ち止まる。この辺りは川沿いの地域であるからか道の勾配が激しい。職場まで電車で一本の距離にアパートを借りたのだが、手続きの際は手荷物が無かった為に甘く見ていたようだ。この坂道は毎日上り下りするとなるとなかなかの障害である。

 見上げると、坂を上り切った辺りにちらちらと、アパートの低い屋根が見え隠れしていた。セキュリティの事も考えてなるべく治安の良い地域の二階の物件を探したのだが、考えてみればそれだけ好条件なのだからこれくらいのトラップの一つ二つ予想できたものだ。自分は思っている以上に全てに投げやりになっているのかもしれない。


 先ほど自販機で買ったミネラルウォーターを取り出し、くっと一息飲み込んだ。

 やれやれ。あと一歩だ。

 この時期になると風も冷たくなってくる。薄手のマフラーと丈の短いコートという今の格好は、どんどん厳しくなる昨今の寒さの前ではなんとも心許なかった。しかしいずれ手放すと思うと、今更自分の為に何か施してやろうなどと思えるわけもなく、そしてそんな自分に手を差し伸べてくれる人も居ない事実が、尚更、自分の存在を力いっぱい否定していた。


 周囲は閑静な住宅街といった雰囲気で、古めかしい日本家屋から高層マンションまで、新旧様々な建物が押し合って並んでいる。見るからにベッドタウンという景観だ。アタッシュケースを引きずる腕がしびれてきて、誰にも聞かれないよう小さな溜息を付く。とは言え私が何に唾を吐こうと、今更見とがめる人間がいるとは思えなかったが。


 坂を上り切り、目の前にアパートの門を臨んでようやくほっとした気持ちになった。つい数か月前改築が完了したというアパートは、基礎の部分こそ築数十年を数えるらしかったが、佇まいそのものは鉄筋コンクリートの極近代的な造型を成していた。次々に自分を改築してなんとか人に取り入る様は私自身のようであまり良い気はしない。ただ、目の前の問題だけ取れば木造平屋などに押し込まれないだけマシだった。


 感慨を振り払って門を潜り、手すり付のスロープを二階へと急いだ。私の部屋は西向きの角部屋だから、一番奥の扉の筈だ。

 早く部屋で休みたい一心で二階に辿り着いたところ、奇妙な男の存在に気付いた。



 いかにも人付き合いが派手な学生といった成りの男が、私の部屋の物と思しき扉の前で煙草をふかしている。チェック柄のYシャツと白いスラックスに包まれた体は、見た感じ中肉中背といった所。オレンジ色に染められた髪が殊更に男の軽薄さを主張している。

 男は手すりに持たれ、何かを眺めているのか、宙に視線を投げたままこちらに気付いてもいないようだ。こんなときでなければ自分も多少丁寧な態度で彼に注意を促したかもしれない。しかし私は、痛みを覚えて来た腕と歩き通しの脚を引きずって、もういい加減頭に来ていた。


「あの」

「ん…はい?」

「そこ私の部屋なんですけど」


 わざととげとげしい言葉と声色を作った。が、男は大して気にも留めない風に飄々とこちらに顔を向けた。髪に隠れて気付かなかったが、両耳にかなりの数アクセサリーの穴が開いている。煙草を持った手にはゴツイ指輪。先入観に過ぎないかもしれないが、男への私の評価は下がる一方であった。


「ああ、もしかして新規にゅうきょしゃしゃん?」


 舌が絡まるような話し方をするなと思ったが、その直後に本当に舌をもつれさせる。決まり悪そうに笑う男を前に、私のほうはと言えばもうその青年に関わる気は一切なくなっていた。男に歩み寄り、わざと力いっぱい部屋の扉を開ける。

 しかし最近の玄関扉は、急に開けたり閉めたり出来る造りにはなっていない。私の無言の抵抗も、のろのろと開く扉に邪魔されてしまった。男は扉が開く間に身を滑らせ横に逸れた。まあ、これに関しては私が悪いのだ、いくらなんでも入居初日に暴力沙汰を起こすわけにはいかない。多少冷静になり、


「煙草の灰、片付けといてくださいね」


 とだけ悪あがきのように言い残して部屋に転がり込んだ。


「あ、了解でーす」


 男の気の抜けた声を遮るように、そそくさと扉を閉めた。その瞬間、男の放つものだろうか、香水か何かのつんとくる匂いが鼻についた。




 まだカーテンも引いていない窓から朝日がまばゆく目を差した。数度瞬きする。

 昨晩の記憶が朧であったが、いつの間にか最低限の荷物の片付けを終え、そのまま布団を敷いて寝てしまったらしい。自分の身なりを見れば、昨日着ていた洋服がそのままだ。案の定シャツにもスカートにもしわが寄っている。また溜息が口をついたが、こればかりは誰に当るわけにもいかない。そして今日から早速新しい勤め先に出勤である。

 箪笥などと言う上等な物はないので、段ボールを重ねた即席のクローゼットから多少マシな衣服を引っ張り出した。しわの寄った服は帰って来てから纏めて洗濯しよう。手早く着替え、昨日立ち寄ったコンビニで買っておいたパンをかじる。

 いつも通りの味気ない朝だった。


 その日常を破るように壁の向こうからけたたましい音がした。

 そういえば大家が、隣の生活音は勘弁してくれなどと言っていたか、隣人が朝から音楽を大音量で流しているらしい。壁自体は薄くはないようだが、コンクリートの造りのせいで音が伝わり易いのだろう。

 一先ず壁を強く一回叩いて向こう側へ抗議の意を示した。音が止む。朝っぱらからこれだから、非常識な隣人なのだろうと思っていたが、多少話は分かるようだ。しかし、パンを口に押し込んでアタッシュケースから化粧道具を取り出していると、今度は部屋の扉がガンガンと音を立てた。


「…はい?」

「あ、ごめんごめん、朝早く」


 ある程度予想はしていたが、玄関を開けると昨日部屋の前で堂々と喫煙していた例の男が立っている。


「なんですか?」

「いや、だからごめん、って。音うるさかったんでしょ」

「…それだけ?」

「えっ、怒ってないの?」

「あのね…」


 相手が恐らく年下だろうと自分も気が大きくなっているらしかった。ずい、と一歩前に出て、男の目を下からねめつける。


「君と違って私には仕事があるの。忙しいのよ。些細な事でいちいち部屋に訪ねてくるなんて非常識だと思わない?」

「えっ、俺仕事してるよ?」

「だから…」


 どうしようもない。この男とはそもそも住む世界から違うのだろう、話が一切通じない。「とにかく今忙しいから帰ってください」とだけ言って、男をぐいっと扉の外に押し出した。緩慢に閉じる扉の速度にすら苛々する。これが引っ越し初日とは、ついてない。それどころか、この男が隣人と言う事はこれからも似たような事をやらかしてくれる可能性が高い。


 その日は一日腹の虫が収まらず、愛想は忘れなかったつもりだが散々な職場デビューとなってしまった。こう言う日は酔って寝てしまうに限る。

 コンビニで夜食と酒と、明日の朝食を適当に見繕って家に戻る。例の坂を上る気力も萎えているらしく、体が重かった。足を引きずるように前へ進む。間もなくアパートに着くと言う距離まで来たとき、そのアパートのほうからはっきりとロックのような激しい旋律が漏れ聞こえてきた。


 自分の部屋の前まで来るとやはりと言った所である。また隣人が大音量で音楽を聴いているのだ。私はと言えば、もう腹を立てる気力すら失くしてしまっていて、そのままずるずると部屋の中に引っ込んだ。布団をなんとか用意し、朝脱いだ服と一緒に今着ている物も洗濯しなければと思った。その意に反して布団にうつぶせに突っ伏す。未だガンガン鳴り続ける音楽が次第に脳を麻痺させてきたらしく、涙がにじんで来た。


 もう、このまま寝てしまうか。


 そう思うと何もかもが面倒になってくる。化粧すら落としていなかったが、これ以上考え続けるのが怠かった。涙は相変らずじわじわと布団を濡らし続けている。

 と、その時急に思考がクリアになった。何かと思えば今まで耳をつんざくようにがなり立てていた音楽が止んでいる。壁がとんとん、と二つ静かな音で鳴って、


「ごめんね」


 という声が聞こえた気がしたが、いつの間にか私は意識を手放していた。




 翌朝、目が覚めると酷い頭痛がした。酒も飲まず寝たのに何だろうと思ったが、思い当たる事は一つだ、この寒さの中着替えもせずに薄い布団で寝たせいで、風邪をひいたらしい。

 今時風邪程度で休むでもない、とにかく仕事へ…と立ち上がろうとしたが、直後足がもつれて、私は派手に床の上に転がった。


 痛みの後に、何もかもが情けなくてまた涙が出てくる。決して広くはないのに閑散として見える部屋の中、私は一人で泣いている。これ以上誰かに見せたくない状況があるだろうか。

 最後に突っ張っていた気力が音を立てて折れたのを感じた。立ち上がれず、床の上でうずくまる。申し合わせたように丁寧な音で、玄関が二つノックされた。


 さっき転んだ時に結構な音がしたから、大家が様子を見に来たのだろう。早く応対しないと心配して警察やら呼ばれるかもしれない。それでも立ち上がれずに居ると、今度は遠慮がちな声が扉の向こうから聞こえてきた。


「あの…大丈夫? なんかすげー音したけど」


 よりにもよってあの男か。無視を決め込む。


「えっと、これからは音楽小さめの音で聴くから。あと…お大事に」


 はっとした。すぐに扉の前から人の気配が無くなる。慌てて玄関に向かい扉を開けると、部屋の前に盆に載せられた椀が置かれているのが目に入った。その上に大学ノートの切れ端がテープで張り付けられて揺れている。そのノートから、男の発していたものと同じつんとくる匂いがした。


”朝飯作り過ぎたからよかったら食べて下さい。二日酔いには味噌汁が良いらしいよ”


 短い文面を見た私の気持ちは、本当に言葉に出来なかった。これくらいで男の評価を改める訳では無い。が、弱っている時にこれでは、何も感じないほうがおかしい。ただ、こういう器用な真似をして見せる所がいかにも遊び慣れた大学生と言う気がして、なんとも素直に受け取れないのだった。


 しかしわざわざ届けてくれたものをそのまま返すのも気が引ける。一応、その汁物を部屋に運び込んで飲み干した。温かい。

 ってこれ味噌汁じゃ無くてトン汁じゃないか。


 やはり自分は弱っていると見える。しょうもない事がツボに入り、笑えてきた。すると少し元気が出て来たらしく、まずは勤め先に連絡だと立ち上がった。




 次に目を覚ますと、額とわきを中心にじっとりと汗を掻いていた。布団では足りないだろうと冬物を見繕って羽織って寝たおかげだろう、熱も大分下がっているようだった。

 まだぼんやりする目を天井に向けていると、隣の様子が気に掛かってくる。あの盆と椀は洗って乾燥させてあるが、いつ返しにいけば良いだろうか。


 不思議とふわふわした気持ちになり、隣に続く壁に触れてみる。触れた場所が熱を持っているように感じられて、こそばゆかった。


 軽く二つ叩いてみる。少しの空白を置いて、向こうから一つ、壁を叩く音がした。


 そんな事に芯から安心してしまって、私はまた眠りについていたのだった。




 まだカーテンが引かれていない窓から日が差し込んでくる。いつのまにか朝になっていたのに気付き、慌てて身を起こした。昨日は目覚ましも掛けないまま寝てしまったから。しかし、おかげで随分体調も良い。そして考えてみれば今日は休日だ。


 昨日返せなかった椀と盆を返しに行くつもりでいた。まああまり意識していると思われるのも嫌だ。とりあえず化粧だけ手早く直し、コートを羽織って外に出る。静かだ。まるで昨日の出来事を冬が全て洗い流そうとしているようだ。それでも微かに漏れる周囲の建物からの生活音が、確かに息づく生き物の鼓動のように聞こえる。

 顔を見てどんな態度を示せばいいか、よく分からなかった。が、とにかく借りを作ったままは良くない。礼だけでも言わなくては。


 隣の部屋の扉を叩く。反応がない。

 中から人の居る気配もしなかった。どうやら出掛けているようだ。彼を真似て、というわけではないが、いつ帰ってくるともしれない、まずは「ありがとう。器返します」のメモと一緒に、ビニールに包んだ椀と盆を扉の前に置いた。


「あら? そのお部屋どうかした?」


 更に隣の部屋の住人が顔を出したところだった。


「あ、いえ…食器をお借りしていたので」

「あらあら。ああ、でもそのお部屋昨日の内に出て行ったんじゃなかったかしら」

「え…」


 気が付くと乱暴にその部屋のドアを開けていた。


 窓が全て開け放たれた室内は、昨日まで人の温度があったと思えない程冷え切っている。西向きの立地のせいで、朝だと言うのに部屋の中は薄暗い。

 混乱する頭で男の姿を思い描いたが、その姿をとどめる影はどこにもない。しかし、部屋中から男が発していたのと同じ匂いがして、確かにそこに彼が居たことを物語っていた。


「あなた大丈夫?」

「なんで…」

「ああ、なんでもこの部屋、元々仮契約だったって大家さんが言ってたわ。あの人、画家さんらしいわよ。この部屋から見える景色を描きたかったから短期で部屋を借りてたらしいわ」


 それにしてもなにかしら、この匂い…。そう言う又隣の住人の言葉に推されるように中に踏み入ると、部屋の隅に一抱えはありそうなカンバスが置かれていた。そこから絵具のつんとくる油の匂いがする。


 その絵は、乱暴に絵具をまき散らしたような、本当にただ衝動のままに色をぶちまけたような絵だった。色とりどりの絵具が立体感を持ってカンバスの上を走り、縦横に交差している。その奥に、人の顔のようなものが透けて見えた。手前にずたずたになった大学ノートが置かれている。開くと、どこかで見たような女性のスケッチと、その後に一行の文が添えられていた。


”ありがとう。良い絵が描けたよ”

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