隼の恋

 自分と言う物に、もう長い事価値を見いだせずにいた。最初のきっかけは些細な事だったと思う。確か小学生の頃、バレンタインに私が初めての想い人に差し出したチョコレートを、数時間後に学校内のごみ箱の中に見つけた時からだ。包装を開けもせずに、掛けられたリボンもそのままに生ごみにまみれたそれを、私は一瞥し、そしてなぜかほっとした気持ちで踵を返した。

 面と向かって突き返されなくて良かった、と思ったからなのか、それとも。


 中学に上がり、部活必須だったその公立校の学則に則って、私は陸上部に籍を置いた。元々手足が長い割に痩せていて、また持久力にはなかなか自信があった。そんな恵まれた体格故に、練習を真面目にこなしているだけで同級生とはどんどん差がついた。

 同じ部の男性の先輩に呼び出されたのは、そんな長距離走漬けの毎日の、新人戦が迫ったある日だった。


「頑張ってるな、お前」


 線の細い先輩が女生徒達から人気を集めている事を、ぼんやり知っていた。だからこそ、ある程度この先に起こる事も予想が出来たのだった。


「俺、もうすぐ受験で部活引退だからさ、その前に言っておこうと思って」

「…ごめんなさい。仰りたい事は解るんですが、その、私には先輩はもったいないです」

「そう…か」


 先輩が辛そうにはにかんだその顔が、今も瞳の裏に焼き付いて忘れられない。その時、小学校時代のチョコの思い出が、一瞬頭をよぎった。

 私も先輩に、自分が味わったのと同じ思いをさせてしまったのだと知った。そして、もしかしたらあの時私は、ほっとしたのではなく酷い喪失感を味わい、空っぽの気分だったのではないか、と。


 先輩には追っかけが多数いたから、その事件は瞬く間に校内に広まり、結果私は女生徒のほとんどからはぶられる中学生時代を過ごす事になった。

 それが自分に相応しい報いだと思っていた。

 毎朝、目覚ましの音で目を覚まし、味のしない食パンに樹脂を発酵させたような酷い匂いのするバターを塗りたくり、胸を叩きながら無理やり飲みこんだ。同級生がやっかみに落書きや傷をつけまくったカバンを手に登校し、陸上部の朝練でトラックをひた走る。


 次々に登校してくる生徒たちが、皆私の陰口を言いながら校庭を横切って行くような気がした。自意識過剰だと益々自分が嫌になる。だからこそ、授業中に消しゴムやごみを投げつけられても何も言えなかったし、教師がそれらの状況を黙認している事も仕方ないと半ば諦めた。


 そんな日々がどろりと淀んだ沼のように延々と続き、いつの間にか私は高校生になっていた。



 高校からはやり直したいと言う気持ちが僅かにあったのだろう、県外の全寮制の高校を第一志望に決め、まあ然程偏差値は髙く無かったから余裕で受かった。内申に「陸上で高い成績を示す」と描かれていたことも良かったのだと思う。

 そんな理由から、高校でも陸上を続ける事にしていた。それほど高い志があるわけではなかったし、嫌な思い出と切っても切れない部活は辞めておこうかとも思った。それでもまた罰を自分に課すように、提出期限ぎりぎりで陸上部への入部届を出した。


 身の回りに中学時代の自分を知っている人間は親すらも居なくなった。が、夜、何かに追われる夢を見て、寮のベッドの上で汗びっしょりになって飛び起きる日々が続いた。


「おはよ、今日も顔色悪いな」

「元からだって言ってるでしょ、色白なのよ」


 同級生から”お高く留まっている”と言われているのを、毎日自分を見かけては構ってくる男子陸上部員から聞いて、知っていた。彼は、当時170センチに届こうとしていた私よりも更に背が高く、ひょろひょろとしたやせ形の青年だった。顔も私から見ても悪くは無い。しかし、同級生とは思えない程子どもっぽい性格と、歯に衣着せぬ物言いのせいで、女生徒からの人気はイマイチらしかった。


 そんな打算から、私は彼にだけは素の自分を見せられるようになっていた。特別、と言うなら確かにそういう存在なのだろう。だけれど、今更この関係を恋などと言う危ういものにしてしまう気は全くなかった。彼自身を見ていても、自分が女として見られていない事ははっきり分かった。

 陸上部の三年にはマドンナの異名をとる女生徒が居て、彼も彼女に夢中だったのだ。


「はー、マドンナ先輩、今日もお美しいよなあ。何食べたらあんな顔になるんだろ」

「女性の顔しか見てないあんたには一生解らないんじゃない?」

「ほんと口悪いよね、顔色も悪いし口も悪い」


 おどけたように笑う彼を見て、少し胸が痛んだ。

 そうだ、彼を自分の傍に縛りつけ続ける事は、事実上不可能だ。大体、自分などが心地よい友人関係など望んで良いわけがない。彼にはそんな私の都合は全く関係ないのだから。


 ストレッチの後黙々とロードワークをこなす。

 練習には欠かさず参加していたし、学業が厳しくないおかげで走りに没頭できた。その割に成績が伸び悩んでいた。コーチがため息交じりに、「体の成長する速度に追いついて行かないのかもなあ」「素質は良いんだがなあ」などと繰り返す。

 もはや何のために陸上を続けているのか解らなかった。しかし、辞めると言う選択は私には無かった。それが何の為なのか、解らなかった、というよりも解りたくもなかったのだが。


「おっ、珍しいな、お前も今日購買?」


 校内の購買は大抵混むので、毎朝コンビニに出掛けて昼食を買っておく事にしていたが、その日に限っていつも買うパンが売切れていた。なんとなく他の食品を選ぶ気にもなれず、まあ購買が売切れていたら一食抜いても構わないだろうくらいに思っていた。

 それらの事情を、私の無言の逡巡を見た途端悟ったらしい、やけに聡い所のある件の彼は、「ちょっと待ってな」と言って自分が今しがた買ってきたパンを一つ私に差し出した。


「これ食っとけ。今からじゃ碌なパンねえから。ちゃんと食えよ、夕練で倒れるぞ」

「あ…うん」


 一方的にまくし立ててパンを押し付けては去って行く彼の背中を見送りながら、なんとなくぽつんとその場に佇む。購買が終了したらしく、売店に群がっていた生徒たちが一気に散り散りになって、私を置き去りにして校舎に消えて行った。


「あら、あなた…」


 背後からの声にぎょっとして振り向くと、例のマドンナ先輩が立っている。


「今ここにあの子いたわよね」

「あ、あの子…?」

「ほら、あの子よ、いつもあなたと仲良く喋ってる男の子」


 嫌な予感がした。

 逃れるように目を伏せ頷いた自分を、マドンナ先輩はちょっと上目づかいで見やってから、


「よければお昼ご一緒しない?」


 と、手作り弁当らしい包みをちょっと目線に持ち上げて言ったのだった。




「ここ、人が少なくて良いのよ」


 先輩の後ろにつき従っていくと、体育館裏の空き地に誘われた。ちょっと開けたそのスペースには去年校舎を建て替えた時の資材がそのままになっており、生徒には危ないから近づかないようにと振れが出されていたが、とは言えこんな絶好のロケーションである。当たり前のように恋人らしい男女が点々と腰を下ろして昼食を共にしている。


「ま、食べましょうか」

「はあ…はい」


 人が少ないのは事実であれ、こんな場所に堂々と女子二人で乗り込むとは、さすがの胆力だ。そんな事に心底感心しながらパンをかじる。先輩は綺麗な箸遣いで、見るからに手の込んだ弁当をつついている。


「あの子、良いわよね」

「はっ…? あの子…?」

「だからあなたと仲のいいあの子だってば」


 嫌な予感が形を持って迫ってくるようだった。先輩は少し箸を止め、また例の上目使いで私を少し見てから、ふいっと視線を外して話し出す。


「私の周りにはね、あんな風にあけすけに接してくれる男の子、いないのよ。マドンナとか、馬鹿みたい、こんな好きな子に告白すら出来ない女なのにね。あなたが羨ましいわ」

「そんな…」


 なぜか息が詰まって、走馬灯のように今までの彼との思い出がよぎった。そして、走馬灯は更に駆け回り、中学時代、小学校時代、とどんどん遡って行く。

 気が付くと目から涙があふれ、ぽたぽたとコンクリで固められた地面に滴っていた。


「あ、ちょっと、何で泣くのよ、大丈夫?」


 マドンナ先輩が慌ててハンカチを差し出す。

 その清潔感溢れた、女性らしいモチーフのハンカチを手にすると、余計に涙が募った。


「わ、私、先輩みたいに綺麗じゃないし…皆にも…彼にも、何とも思われてないし」

「あのねえ」


 先輩がため息交じりにぼやく。


「そりゃそうであってほしいと思ったわよ、私も。ひたすら性格が悪い事にね。でも気付いてないのは多分あなたとあの子本人だけよ」


 あと、私が苛めてるように見えるから早くそれで涙を拭きなさい。


 ちょいちょいっと箸でハンカチを差した先輩は、「行儀が悪かったわね」といって笑った。



 その夜はなぜか深い眠りに就き、いろんな夢を見た気がするが全て忘れてしまっていた。

 朝、登校して部室で着替え、グラウンドに出ると、いつものように彼が駆け寄ってくる。


「おはよー、っておい、何その目」

「目?」

「真っ赤だぞ。なんだ、誰かに泣かされたのか」


 しまった、長い事鏡を見る習慣がなかったから、気を付けるのを忘れていた。


「…ちょっと昨日女子寮で映画を見たのよ。泣けるヤツ」

「あほらし。アレだろ、くだらないラブストーリーだろどうせ」


 いつものように口の悪い二人であったが、なんだかいつもよりも少しだけ頬が熱かった。


 彼が私に告白してくるのは、その数日後の事。

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