鮮やかな創造
気が付くと額にうっすらと汗を掻いていた。窓を開けてはいたが、初夏の事、湿気がよどんで結構な室温になっている。液晶タブレットの上でせせこましく動かしていた手を止めると、とりあえず伸びをして扇風機を起動する。流れ出した涼しい風を受けて汗が冷やされ心地よい。ほっと息を吐いた。
イラストレーターという仕事は、幼い頃から自分にとって最上級の憧れであった。
小学校時代に読み漁ったライトノベルの、艶やかな表紙や挿絵たち。中学時代から始めたネットで触れた、数々の美麗な版権の二次創作。そして俗に「神絵師」と称される絵描きたちの、キャラデザインも背景もオリジナリティも、全てが完成されたクオリティを誇る一枚絵。
当時夜寝る事も忘れるほどに夢中になり、最初はそれらのトレースや模写から、徐々に自分もオリジナルの世界観やキャラクターを描くようになっていった。
学校のある平日も夜遅くまでネットの仲間たちと通話しながら描き続け、いつの間にかペンだこが出来、それが潰れて指の皮膚が固くなって行った。
そうしてイラストの専門学校に入学し、苛烈で充実した二年間を過ごすと、すぐにイラストの業界に手を伸ばした。
しかし、実際に自分に卸されてくる仕事とは、憧れの神絵師たちのような可愛い少女やカッコいい少年を描く依頼だけではなく、むしろそれらは少数で、大抵が雑誌やモック誌に小さく載るような簡略化された記号のようなクリップアートであった。
仕方がない、そう言った仕事のほうが余程需要が高く、件数も多いのだから。そう納得しようとすればするほど毎日毎日仕事のメールのやり取りをする度に苛々し、鬱憤から仕事とは関係のない描きたい絵を自主的にちょこちょこ描いて、なんとか自分をなだめていた。仕事で描いた自分の絵を紙面の片隅に見つけるたびに酷くみすぼらしい想いがする。
世の中には華々しいキャラクターイラストや風景イラストの世界で活躍している殿上人たちが幾らでもいる。その人たちに自分は全く及ばないのだと、はっきりと格付けとして思い知らされていた。
そして、クリップアートの仕事はそれそのものの単価も物凄く低い。
自然ワンルームのぼろアパートを借りて、日々の食事すら切り詰めるような生活になる。もう何の為にイラストの仕事をしているか解らなくなっていたが、しかし今更自分に他の道が在る訳もなく、まるっきり惰性でこの業界に居座り続けていた。
一旦休憩を取る事にして、クッションの裂けたボロボロのクロークチェアから立ち上がる。その際腰が突っ張って痛みを生じ、思わず呻いた。毎日十数時間も自宅の椅子に座り絵を描き続ける生活である、当たり前のように体にガタが着始めていた。
腰だけでは無い、利き腕はもう腱鞘炎一歩手前であったし、肩も上げる度にボキボキ音を立てるほど凝り固まっている。目もすっかり悪くなり、度の強いメガネが手放せない。おまけに不規則な生活のせいで年がら年中寝不足と来ている。
イラストレーターや漫画家に早死にする人が多いのも、まあ無理はないというものだ。
キッチンスペースにペタペタと裸足で歩いて行き、流しから水を注いでマグカップを煽る。本当は珈琲でも淹れたい所だったが、一日に何杯も飲むせいで体が慣れカフェインが効かなくなってきていた。昨日から珈琲は一日三杯まで、と決めた所だ。
飲み干した水の味気なさに溜息を吐く。
締切が今週末に迫った案件を三件ほど抱えていた。それらを全て期日内にこなしても数万円の金にしかならないのだが。結果として一年中無休で働かなければ生きていけない。やれやれと作業机に取って返す。
しかし一区切りつけてしまったせいで却って仕事をする意欲が削がれ、つい携帯端末でSNSを覗き見る。
「皆楽しそうに生きてんなあ…」
昼の食事を撮影した写真やら、ペットの犬猫爬虫類の写真やら、自主制作として描いたイラストやらがタイムラインにずらっと並んでいる。見るとはなしにそれらを眺め、もはや慣性で画面をタップしてイイねを付ける。
そうして流し見ていたタイムラインに一件、一際目を引く鮮やかなイラストが投稿されているのに目を留めた。
「うっそ、リヴァー先生また新作描いたの…?」
”リヴァー”とは、あるイラストレーターのハンドルネームであり、自分がそのSNSを初めて最初にフォローした、膨大なフォロワー数を誇るいわゆる神絵師であった。当時も今も、自分の絵は彼もしくは彼女に見向きもされなかったが、それでも一方的に好意を持ちその発言とイラストを追い続けていた。
粗方の絵描きと同じように、リヴァー先生も普段は訳の分からない呟きのような発言しか投稿しない。しかし、この神絵師は非常に速筆である。数日に一度、ノッている時は毎日のように非常に精緻な絵を投稿している。
数秒だったか数分だったか、リヴァーの新作を見つめていると、くらくらと眩暈のような感覚が生じる。彼のように、自分も素晴らしい絵を描き上げたいと言う絵描きとしての自分の根源から来る欲求、彼に対する純粋な嫉妬。そして彼が相変わらず多くの賞賛のコメントを受けているという事実に対する、確かな絶望。
それらがないまぜになった、何とも言えない気分であった。
やけになって、タブレットの上でペンを動かす。衝動のまま仕事とは無関係なキャラクターイラストのラフを描き上げた。
我に返って、保存しないまま画面を閉じる。
まったく、うだつが上がらない事と言ったらない。
無性に泣きたくなったが、こんな時に出てくる水分が在るほど子どもでもない訳で、結局この「差」がそのまま周囲からの評価であり自分の存在価値なのである。
また溜息を吐いて渋々仕事を再開した。
その晩、夢を見た。もう毎日のように見ている、泣きながら絵を描く夢である。
夢の中でめそめそと鼻をすすりながら、それでも現実のように仕事の絵を描く自分に、夢を見ているほうの自分は呆れる。夢の中でくらい好きな絵を描けばいいのに。
その夢は途切れることなく、朝方、日差しが眩しくて目覚めるまで続いたのであった。
最悪の気分で目が覚めてから、カップ麺の食事をもそもそと貪り、いつものように仕事を始めた。
相変わらず捗らない。
一時間程粘った所でもうどうにも嫌になり、またSNSを見るとは無しに見始める。自分のフォロワーが一人増えている事に気づいた。おっと思い通知を確認する。
リヴァー先生の見慣れたアイコンがチカチカと瞬いていた。
「え、えええ!?」
一人の部屋で大声を上げる。なんだ、なぜ今に成って先生にフォローされるのだ。自分の一体何が目に留まったんだ?
混乱したまま携帯の画面をタップしてすぐさまリヴァーにコメントを送る。
”えっ、えっ、先生、なんで俺なんかフォローしてくれてんスか、よろしくお願い致します!!!”
コメントを何度も見返しながら鼓動を整えていると、偶然相手もSNSにアクセスしていたらしい、返信があった。
”よろしくお願いします、あなたの絵、イイですね”
更に混乱する。
つまりは、リヴァー先生が自分の絵を見てフォローを返してくれた、と、そう言う事だろうか。携帯を持つ手が震えた。なんとか短い文章をタップして送る。
”あああありがとうございます!!”
”(^^)”
リヴァーからの顔文字だけの返信を見るやいなや、今度は一気に力が抜け、顔も緩んでにやにやが止まらなくなった。現金な物だ、急に解放された気分になる。
すると今度はふつふつと創作欲求が湧いてきた。
「よーし…」
まずは今日の分の仕事を片付けよう。そしたらリヴァー先生に見て貰うために、自分の最高の一枚を描くんだ。
久しぶりに明瞭になった頭でそこまで考えると、机に向かう。
こうして今日も”日常”が始まるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます