行き着け

 ブラック珈琲の缶を開けると、ぷしゅっと言う毎度の小気味よい音。コクのあるそれを一口含み、じっくりと味わった。

 毎日のように徹夜する日々になると、もはや缶珈琲くらいが数少ない楽しみになってくる。無論自分で入れたほうが余程美味いのだが、こうした贅沢は気分の問題である。一本の珈琲に百円以上掛けるという振る舞いそのものが気晴らしに繋がっているのだ


 目の前のパソコンに煌々と照らし出されている今日の仕事を一瞥し、正直解らないなと心中呻いた。デザイナーという職業について数年になるが、クライアントの求める指示書どおりに作ったデザインを自信を持って提示できたことは一度としてない。



 それは、クライアントの思い描く「優秀なデザイン」と、我々デザイナーが勉強と経験で培った「良いデザイン案」とが基本として乖離する所から来ている。

 クライアントにとっては、広告なら派手な煽り文句や色とりどりの縁取り文字で飾った、とにかくうるさい情報盛りだくさんのものが手堅く思える所らしい。しかし、仮にもデザインを学んできた人間からすると、多数の情報が喧嘩し合っているデザインは真っ先に避けるべきものだ。情報に優先順位をつけ、省ける物は省き、整然と並べる。それこそが良いデザインであると教えられてきた。


 とは言え、デザイナーという華々しい印象の強い職業にあってもなお、我々は単なるサラリーマンであり、クライアントの希望通りの仕事をする事が全てなのである。この二律背反に悩み、デザイナーを辞めて行く先輩や後輩を多数目にして来た。

 芸術の括りにある仕事であっても、結局は自分のやりたい事を思いっきりやる訳にはいかない。クライアントの指示書と言う最も頭の痛い問題以外にも、流行に合わせた表現やターゲットを絞って行うキャッチ―な表現など、デザインには実はかなりの縛りがある。「アイディア」や「感覚」が重視されるようでいて、そんな簡単な話ではないのである。



 もう零時をとうに回り、終電も無くなった時刻であったが、社内には自分の他にも二人の先輩が同じように締め切りの迫った仕事を抱えて詰めていた。そこそこ大きなデザイン事務所でもこんな有様なのである。デザイナーと言う職業にお洒落なイメージや洗練された印象を抱いていた過去の自分をぼっこぼこにしてやりたいというものだ。


 先輩のうち一人はうちの事務所では誰もが憧れるベテランデザイナーであったが、今回の仕事では非常に厄介なクライアントを相手にしているらしく、何度もデザイン案にリテイクを出されてほぼほぼ半狂乱になって仕事に向かっていた。現在もパソコンの画面を前にぶつぶつ独り言を言いながら力任せにキーボードを操作しており、とても話しかけられる雰囲気では無い。

 もう一人の先輩は、逆に出世コースを外れた、中堅どまりのおじさんであったが、こちらは中堅だけあって飄々と仕事をこなしていた。

 これだからサラリーマンは…等と言いたくもなる。


「おう、仕事どんな具合よ?」


 その中堅の先輩が、いつの間にか背後に立っていた。


 心中を見透かされているハズも無かったが、失礼な考え事をしていただけにみっともなく身を震わせてしまう。そんな自分を見て先輩は意地悪げにけたけたと笑うと、ぐっと身を乗り出してこちらのパソコンを覗きこんだ。


「うーん、若さが出てるねえ」


「はあ…これでもクライアントのリテイク二回受けて直したんですよ」


「まあ、若いのは悪いこっちゃない、若い内しか出来ない表現もあるからねえ」


 そんな雑談をしていると、もう一人の先輩が見るからに苛々した目をこちらに向けてきた。これは一旦仕切り直したほうが良さそうだ。

 背後の先輩もそう思っているらしく、ちょいちょいっと手で「飲みに行かない?」というサインを出してきた。




 二人で事務所の入っているテナントビルを出ると、夜風が涼しく心地よかった。こんな時間でも、オフィス街に属するこの一帯には夜間も経営しているような店や、自分達と同じように徹夜で仕事に当っているらしいオフィスビルの灯りが幾つも並んでいる。

 昨日からの雨は今止んでいるらしく、じっとりと濡れたアスファルトから微かに湿気が立ち上っているのが肌で感じられた。


「俺のいつも行くとこでいい?」


 先輩が相変わらず何を考えているんだか読めないのんきな声音で言う。まあこういう時は黙ってついて行くのが筋だろう、と頷いた。


「ちょっと歩くよ」


 パーカーにジーンズと言うラフな格好の先輩は、夜の街では明らかに浮いていた。しかしかく言う自分も、ワイシャツにスラックスと言う実に楽な服装をしている。この仕事について解った事だが、真のお洒落とは殊更に着飾る事では無く、自分の好むファッションをいかにカッコ良く見せられるかなのである。

 実際自分も先輩もなかなかの体型を維持していたから、変にブランドものを身に付けたりしなくても十分映えて見えた。


 時折タクシーがのろのろと通り過ぎる横を、二人、淡々と抜けて行く。


 ほどなく辿り着いたのは、小さく真っ黒に影を落とすビルと、その入り口らしき場所に設けられた地下へ向かう階段だった。


「なんか秘密基地みたいなとこですね…」


「さすが発想が若いねえ」


 先輩はまた人が悪そうにけたけたと笑うと、まあ俺もそういうとこが気に入ってるわけよ、などと呟きながら階段を下って行く。自分もそれに倣った。

 やがて突き当りに装飾も何もない真っ黒な扉が現れ、先輩がにやにやしながらそれを開ける。


 アルコールの揮発性の香りがつんと鼻をついた。



「いらっしゃいませ、お久し振りですね」


 カウンターにゆったりと立つ老紳士が先輩を見て頭を下げる。こちらもつられて頭を下げると、老紳士はふっと不思議な笑みを漏らした。


「なんだか高級そうな所ですね」


「気のせい気のせい。この人が道楽と趣味でやってるようなバーだから」


「相変わらずお人が悪い」


 くっくっ、と先輩と老紳士が笑いを交わすのを見て、自分もすぐにこの場所が気に入るのを感じた。

 他に客はいないらしい、こんな時間に自分達くらいしか客が居ないバーとは、先ほど先輩が言っていたように儲かっているとは思えないし、好きでやっているようなもんなのだろう。

 狭い店内を泳ぐようにカウンター席に座る。


「こちらの若い方は後輩さんですか?」


 老紳士がグラスを手慣れた仕草で用意しながら、不思議な抑揚のある声音で問う。先輩はにんまりと頷いた。


「なかなか見所のあるやつでね、こう言う場所にも慣れさせておきたかったから」


「なるほど、しかしあなたが連れていらっしゃると言う事は余程の…」


 余程の、何なのか。やけに気に成る所で言葉を区切ると、老紳士は、何になさいます? と柔らかな物腰で囁く。


「ウィスキー、ロックで」


「後輩さんは?」


「ああ、僕はあんまり飲めないので…ウィスキー水割りで」


「かしこまりました」


 キラキラと輝くグラスとウィスキーボトルを手繰る老紳士を見ていると、これはよほど高級な店なのではと勘違いさせられる。そんな不安げな自分の視線を感じ取ったのだろう、先輩はまた意地の悪い笑みを浮かべる。

 その間にも手際よくウィスキーが注がれ、カンッと心地よい音を立ててグラスが目の前に置かれた。


「君は仕事に一生を掛けることが正しいと思うかい?」


 ウィスキーを軽く口に含んで飲み干すと、先輩は突然そんな事を聞いてきた。

 水割りを持て余しながら、自分は何と答えた物かと考えながら言葉を発する。


「そりゃ…どうせなら仕事で一旗あげたいと思うもんじゃないですか?」


「まあそうだ。だけどね、俺は思うんだよ。一人の成功者の裏には、百人の脱落者の屍があるとね」


 既に酔い始めているのだろうか、先輩はグラスの中の氷をカラカラ言わせながら快活に語った。


「俺は早くから出世コースを外れて、その分よく見える位置から色んな物を見てきた。もちろんどろどろしたものが多かったな。正直、このうだつの上がらないポジションが一番幸せに思える事があるんだ」


「はあ…」


「まあ君はまだ若いし、いきなりは解らんだろう」


 老紳士は相変らず不思議な笑みをひげの口にたたえて話を聞いている。


「ただね、争う事に疲れたらその時は立ち止まれば良いんだよ。俺やこの人のようにね」




 小一時間ほどそんな取りとめもない話をして、先輩は二人分の会計を済ませて帰って行った。自分はと言えば、先輩の話が妙に引っかかって、もう少し飲みたい気分だった。少し頭がのぼせる程度に酔っている。


「あの方は、決して華々しい活躍をしているわけじゃないと仰いますが」


 突然老紳士が喋り出したので、危うくグラスを取り落す所だった。


「ああいう方こそ、社会や会社にとっては無くてはならない存在だったりするのです。ただ、打ちのめされる夜もあるでしょう。だからこそこうした場を提供している次第で」


「…なるほど」


 まるでウィスキーの苦みのように、仄かな敗北を覚えた夜だった。

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