煤けた青写真

 自分が「絵描きになりたい」という夢を始めて語ったのが、その友人に対してだった。まだ当時中学生だった自分にもその夢の突拍子もなさ、非現実性は十分理解出来たらしい。なんとなく両親や親しい友人達にすら夢を明かすのがはばかられ、それでも幼さゆえに自分は必ず絵描きになるのだと信じていた。

 だから毎日毎日、ゲームや野球にいそしむ友人達の誘いを断っては家に籠って絵を描き、中学の休み時間にもただただ黙々とノートの上で鉛筆を動かした。


 努力は裏切らない、という言葉はある程度事実であると思う。なぜなら自分には才能などまるでなかったのだろうが、他人よりも多く絵を描いているというだけで絵はそこそこ評価されるようになったからだ。

 絵画展に出展するような作品には、クラスの中で決まって自分の絵が候補に選ばれたし、何度かそれらしい賞を貰い表彰を受けたこともあった。

 そんな日々が年輪のように自分の中に刻まれていく。ある日の事であった。



 相変わらず教室で、昼休みだと言うのに自分は絵を描いていた。その絵を横から級友たちが覗きこみ、変わらぬフレッシュな反応を返してくれる。思えば自分はそんな反応が嬉しくて図に乗っていたのだろう。

 その日はなぜか絵に集中できず、退屈しのぎにとりあえず腕を動かしていた。教室には級友たちの姿もまばらである。昨今、夏がどんどん厳しくなってきていたために、その日も窓の向こうには焼け付くような日が差して、眼下に望むグラウンドから日陰を奪っていた。校庭で遊ぶような剛毅な子どもも希だ。大体が校内のより涼しい場所に移って、だらだらと駄弁っているのだろう。


 しかし自分は、自分だけは絵を描き続けなければいけないのだ。

 縛りにも誇りにも似た気持ちがじりじりと胸の中でくすぶっていた。


 そんな自分が彼の存在に気付いたのは、むしろ遅すぎると言うものだったろう。彼は、机に向かい合い、上半身を卓上に伏せて、一心に何かにいそしんでいた。

 自分にはすぐに分かった。彼も絵を描いている。


 そんな彼に話しかけたのは気まぐれに過ぎなかったが、しかしそれがのちの自分の人生を決める事になる。


「絵描いてるんだろ? 見て良い?」


 今思えばなんて上から目線な対応だろうか。当時の自分は己こそが最も絵が巧い子どもであると信じていた。だから、彼が周囲にはばかるようにして描いている絵が自分の絵より巧いわけがない、そんな事があってはならなかったのだ。

 そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、彼はまずびくりと身を震わせ、恐る恐るこちらを見上げると、次にはぱっと顔を赤くして黙り込んだ。


「あ、ごめん、嫌ならいいんだけど」


「う、ううん、良いよ。あんまり上手くないけど…」


 彼がおずおずと差し出したのは、ノートでは無く、一辺が紐で閉じられたコピー用紙の束であった。まず、その量に圧倒された。コピー用紙と言う物は、大体が数十枚単位で売られている。そしてノートの紙よりもずっと安価だ。それだけに、昔から絵を描いてきたような子どもは凄まじい速度で消費する紙をコピー用紙で補う事が少なくない。実際に自分も家で描く時は度々その世話になっていた。

 自分が驚いたのは、彼が差しだしたその紙の束がまさに数十枚をそのままざっくり束ねたようなボリュームを持っていた事だ。その時はとっさに、この子はノートも買えないような家庭事情のある子なのかな、などと自分を納得させた。

 しかし、その一枚目に描かれた絵を見て、そんな傲慢な思いは吹き飛ぶ。


 それは、精緻なデッサンであった。それも石膏のよくある直方体や円柱をモチーフにしたものではなく、どこかのグラウンドの隅を上方から見下ろしたような、れっきとした風景画だった。そして、良く良く見ればその風景画は、全てがボールペンで描かれていた。消しゴムで消した跡や、鉛筆が走った跡も無い。完全にボールペンの一発描き。

 それでいて、絵のタッチは繊細そのもので、一つ一つの線や点が全て計算されたものであることを優に匂わせていた。


「これ、君が描いたの?」


「? うん…ごめん…」


 その時の自分の気持ちは、今思い返しても情けなくなるほど無惨な物だった。絵に勝ち負けはないと思っていた自分が、はっきりと負けを自覚させられ、その上才能と努力の差まで思い知らされる。

 この絵に比べれば、自分が常日頃描いてきた絵など完全に落書きの範疇だ。


「あの…具合悪い?」


 自分はいつの間にか青ざめて小刻みに震えていたらしい。彼が心配そうな顔でこちらを覗きこむ。はっと我に返った。


「いや…ごめん。凄く巧いからびっくりして」


「え、そう? でもこんなのただ見ながら描いただけだよ」


「見ながら…?」


 言われてもう一度眺めてみれば、その風景には見覚えがあった。それもそのはずだ、窓から見えるグラウンドの一角をスケッチしたものなのである。

 そんな事にも気付かない程愕然としていた自分を心中恥じながら、「もっと見ても良い?」となんとか言葉を絞り出す。怪訝そうにしながらも頷く彼。一枚一枚めくって行く毎に、グラウンド、校舎、教室、色んな場所を色んな角度で描いた作品が雪崩のように押し寄せ、いつしか自分は息をするのも忘れてそれらに見入っていた。


 最後の一枚まで見終り、ほっと息を吐くと、彼は照れくさそうにしながら自分の手から紙の束を奪い取る。そして、またかっと赤くなったかと思うと、おずおずと切り出した。


「君も絵を描くんだよね? 僕も見て良いかな…」


「…えーっと…」


 正直、この圧倒的な実力差を目の当たりにして、自分の心はバキバキに折られていた。今彼に「下手だね」などと言われれば、自分はもう絵を描く事を辞めてしまうだろう。それでも、目の前の彼が相変わらず顔を上気させながら目を輝かせているのを、無下には出来なかった。

 彼を伴って自分の席に移動し、今度は自分がおずおずとノートを差し出す。


 彼は急に冷え冷えとした光の宿った目で、じっくりと自分のノートを検分した。自分はまた震えていたと思う。死刑の判決を待つ被告とは思えばあんな気持ちなのだろう。そうして判決が下されるのである。


「凄いね」


「え…これが?」


「うん、凄いと思う」


 彼は言葉少なに凄い、凄いと繰り返した。自分にはその言葉が、まるで呪詛の様にわんわんと響くかと思えた。


 ともあれ、こうして自分には初めて絵仲間というものが出来たのだ。

 それからは、周りから級友が居なくなったのを見計らって、どちらからともなく相手の席に近づき、互いの絵を見せ合った。まだ互いに論評するほど語彙も無かったし偉くないのも二人とも解っていた。だから、ただつくづくと感心しながら相手の絵を眺めていた。

 当初こそ自分は彼の絵を見て萎縮していたが、彼がそれ以降も自分の絵を目を輝かせながら見つめるから、いつの間にかあのみすぼらしい気持ちはどこかに吹き飛んでしまっていた。ひたすら楽しい日々だった。


 ある日、自分がノートを鞄に粗方入れ、帰宅しようとしていると、申し合わせたように彼が近付いて来て「今日暇?」などと小声で聴いた。


「どうせ絵描くだけだから暇だけど?」


「そっか…そう、じゃあ、その、僕のうち来ない?」


 実は他人の家に呼ばれる経験など、それこそ絵を描いてきたせいでほとんどない。それでも迷うことなく首を縦に振ったのは、彼の家に行けばもっと彼の絵が見られると思ったからだ。


「よかった…どうせお父さんもお母さんもなかなか帰ってこないんだ、ゆっくりしてってよ」


 急に饒舌になる彼を微笑ましく眺めながら、自分も胸が高鳴るのだった。



 街路を後ろについて歩いていくと、彼はどんどん入り組んだ道を選んで突き進んで行った。凡そ通学路とは思えない裏路地ばかりである。


「毎日こんな道通ってるの?」


 と聞くと、


「うん、こっちのが近道なんだ」


 という答えが返ってきた。

 やがて自分たちは、その当時であっても珍しい、一軒の古ぼけた平屋の前に立っていた。


「上がって!」


 彼は心持はしゃぎながら、自ら先に立ってずかずかと家に上がる。自分はこれが友達の家と言う物か、などと身を硬くしながら、それでも興味が手伝って同じように遠慮なく土間から玄関をくぐる。

 彼は茶色くシミのついたふすまの前に立つと、勢いよくそれを開けた。


 その部屋は、ふすまと同じように壁のあちこちに茶色いシミの出来た、それも二畳半ほどの小さな部屋だった。その狭い部屋を埋め尽くすように、畳の上一杯に紙が拡げられている。その一枚一枚に、欠く事無く絵が描き込まれていた。そして、それはいつものようなコピー用紙だけでも、ボールペン画だけでもなかった。或いは画用紙、或いは布張りのカンバス、或いはイラストボード。あらゆる支持体に、油彩、水彩、岩彩、そのほか自分の知り得ないあらゆるツールで風景画が描かれている。


 宝の山だ。

 そう考えていたのを読まれていたのだろうか、彼は久し振りにかっと赤くなると、もじもじと手を動かして紙の海の中に空間を作り出した。


「座って。お茶入れるよ」


「あ、お構いなく」


 彼は鞄を放り出して部屋の外に消えた。自分は彼の描き残した絵をしずしずと眺める機会を得た。生半可な絵描きでは無いと思っていたが、やはり相当本格的に絵を描いていたのだ、彼は。その時は、余りにも自分との距離があり過ぎるせいか、あの日のような焦りもみじめさも無くひたすら感動と幸福を持って彼の絵を迎え入れた。普段黒いインクだけで描かれている絵しか見たことが無かったから解らなかったが、彼の真骨頂はどうやら色彩表現らしい。

 どの絵も極彩色で彩られていながら、色同士が喧嘩せず、まるでその絵を描くために用意された色であるかのようにしっくりと落ち着いた配色が為されている。居ながらにして遠く異国へ旅立つような感覚。


「お待たせ、冷たいお茶ないんだ、ごめんね」


 バタバタと音を立てて彼が部屋に戻ってくる。二人並んで、この暑いのに熱い茶を啜った。


「やっぱり将来は絵描きになるんだよね?」


 自分では無く、彼がそんな事を聞いてきた。

 ばつが悪かった。彼ほどの実力者を前に、まさか自分が絵描きに成るなどと言うあり得もしない未来を語るのは気が引けた。しかし、彼は変わらずキラキラと期待するまなざしでこちらを見ている。


「うーん、なりたいとは思ってるけど、でも今のままじゃ…」


「そうなの?」


 見る間に落胆した表情を見せる。


「君の絵、凄いのに」


「凄いのかな…俺には君の絵のほうが一千倍凄く見えるよ。いつも凄い凄いって言ってくれるけど、どこがそんなに凄い?」


「イマジネーション」


「いま…?」


「あ、ごめん、”創造力”。君は無から有を生み出せる人なんだよ」


 彼はなぜか遠くを見るようにしてその言葉を絞り出した。


「僕は、見ながら描くのは得意だ。だけど、そのくらいの才能がある人は幾らだっている。究極、見ながら描くのであれば大した技術も才能も必要ない。だけど、君はゼロから自分の創造力で描ける人なんだ」


「うーん…?」


「…そのうち解るよ」


 寂しそうに微笑んで、彼は手元の茶碗を撫でる。まるで教科書から引用したような彼の言葉を聞いていると、どこか不安に駆られるのだった。


 その後もぽつぽつと絵に対する問答を重ね、最後に彼に家の近くまで送って貰ってその日は別れた。何か胸につっかえているようなざわざわとした予感に支配されたまま一夜を自宅で過ごし、いつの間にか眠り翌日になっていた。


 学校に登校し、いつものようにノートを広げて鉛筆を動かしながら彼を待ったが、一時間目の休み時間が終わろうとも彼が現れる事はなかった。とうとう一日中久々に一人ぼっちで過ごし、昨日の理不尽な体験も併せて自分は少なからず彼に腹を立てていた。今思えば子どもらしい短絡的な感情である。

 ずんずんと足音を立てながら下校しようとすると、校庭を横切り宿直室のほうに消えていく彼の人影が見えた。


 なんだ、ちゃんと学校に来ているんじゃないか。

 怒りが消し飛び、まるで懐かしい気持ちにでもなってその影を追う。彼の影がちらちらと見え隠れしながら職員室のほうに向かっていく。


「本当に良いんですか?」


 苦々しげな教頭の声で、自分ははっと我に返った。


「お子さんは成績も悪くない、こんな中途半端な時期に転校するのはマイナスにしかならんと思うんですが」


「仕方ないんです、向こうの学校に早く慣れさせたいのでね」


 窓から覗く職員室の隅で、彼が真っ青な顔をして歯を食いしばっているのが見えた。


「この子は絵描きになるんです。だからそのための学校に行かせます」


「はあ…絵描きねえ…」


「明日には家族みんなで日本を発ちます。ほら、お前も挨拶をしなさい」


「…お世話になりました」


 そこまで聞き届けるや否や、自分は抑えきれずに駆けだしていた。色々な気持ちが渦を巻いた。彼がどんな気持ちで海外行きを決めたのか、それを想像するとやり切れなかった。自宅で布団に頭を突っ込んで丸くなっていると、インターホンを鳴らす人間があった。きっと彼だ。別れのあいさつを言いに来たのだ。

 居留守を決め込もうとしたが、インターホンはしつこく鳴り続ける。何よりも、自分もこのまま別れてしまうのは嫌だった。意を決して表に出る。



 既に友は去った後であった。遠ざかって行く自動車の後部座席から、彼が眼を覗かせて手を振る。それも一瞬の事で、すぐに車の影は小さくなり消えて行った。

 呆然自失から我に返ると、玄関のポストに、乱暴に大きな紙が突っ込まれているのが目に入った。


 引っ張り出してみると、それは紙一杯に描かれた、イメージスケッチであった。しかし彼らしくない、まるで幼稚園児が気まぐれに描き殴った落書きのようなそれは、彼が本当に描きたかった絵を強烈に象徴していた。




「だから、自分は彼の為に絵描きに成らねばと思ったんですよ」


 その初老の画家は、老眼の進んだ目でこちらを探るように見つめ、ぽつりと呟いた。彼の長い長い独白から現実に舞い戻った私は、彼が差しだす一枚の絵を見とめる。それは、彼が先程そう評したように、まるででたらめに描かれた、落書きのようなイメージスケッチだった。


「この彼の世界を、ずっと目指してきました。しかしこの歳になってもまるで追いつける気がしない。彼には才能と積み重ねた努力がある、誰よりも上のね」


「ありがとうございました。良い記事が出来そうです」


 ぱたん、と手帳を閉じ、私が頭を下げると、彼は目を細めてあごひげを撫でた。彼の話が果たして事実なのか、彼の言う「彼」が誠に存在するのか、そして今どうしているのか定かでは無い。ただ、私はこの記事が「彼」に届くよう願ってこれを記す。彼の絵描きとしての魂が僅かでも救われるように。

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