壁の花
この所朝晩はなかなか冷える。吐く息がまだほの暗い空気に白く溶け、霧散して行くのをぼんやり眺めた。手にしたコーヒーカップには、つい五分前に入れた珈琲が温かさを失くしてどろりと淀んでいた。
今日の予定を組み立て始める頭と裏腹に、気持ちの淵はコンクリートでせき止められたように波一つ立たない。仕方のない事だ、つい昨日付で退職届を提出させられて事実上首をはねられたのだから。
自分も「近頃の若者」の常と言うやつで、愛社精神など殊更に持ってはいなかった。それでも仕事には責任を持って当って来たし、給料にも結び付かないサービス残業だって文句ひとつ言わずにこなしてきた。同僚たちが上司にへつらってどんどん出世して行く様を咎めるような事もなかったし、何もかもが自分や他人が其々選んだ生き方であり、干渉すべきでないと思って生きてきた。
ある時、自分が資料作りを担当した取引が非常に色よい結果を出した。どうやら自分の作った資料が決め手であったようで、自分は上司に褒められるばかりでなく、次のボーナスの額もそこそこ色が付き、廻ってくる仕事の質も明らかに変った。
偶然だ。自分は誰がやっても大して変わらない程度の結果しか出していない。
それが最近自分を追い越し遥か上から見下ろしていたつもりの同僚たちには面白くなかったようだ。言った事もない上司の陰口を噂され、上司本人の耳に伝わって、この顛末に至ったのだった。
嫉妬。
名状するならばそう言う物になるんだろう。
そんな不確かな感情に任せてここまでの事を為してしまえる同僚たちに対しては、怒りや侮蔑よりも驚きと怯えが先に立った。なんて暗くてどろどろしたエネルギーだろうか。このままこの会社に居続ければ、自分もいずれそうした負の感情にまかれて化け物に成ってしまうかもしれない。そう思うとむしろさっさと辞めてしまおうと言う気に成り、特に悩みもせずに促されるまま退職届を書いたのだった。
今自分が居るベランダの正面は空き地に成っていて、吹きさらし状態の身体には先程から強く風が叩きつけて来ていた。寝巻にガウンを羽織っただけの格好ではさすがに寒い。
なんとなくベランダから自室に戻りたくない理由をぐるぐると探し続けていた。
そう高くもない手すりを乗り越え、その先に飛び込んでしまえれば楽になるのかもしれない。
そんな思考に陥りかけた時、何かが砕ける音と小さな悲鳴が隣から聞こえた。
「あっ…あー、もう、せっかく芽が出て来たのに!」
恐らく隣人の声なのだろう。ベランダを仕切る壁一枚隔てた場所から流れてきた独り言に、はっとして頭を振る。
そうだ、自分もまだこんなところで終わる訳にはいかない。少なくとも辞職の件で自分は何一つ悪くはない。なのに何かを悔いて自殺でもしようものなら、元同僚たちの思うつぼではないか。
考えが纏まると幾分落ち着いてきた。その間も隣からは、「あー…あー」などという感嘆詞と共に、砕けた何かを拾い集めているのだろう小さな物音が続けざまに聞こえてくる。
「あの」
「…ひゃっ、えっ」
「あ、すみません、隣の者です。つい聞こえてしまったものですから」
自分が気まぐれを起こしているのは解っていた。自分と言う人間にとって、予定外とか突然とかいう名詞は殊更珍しい物だ。いつも最も無難だと思われる選択肢を迷いなく選び取って来たから、今の自分のこの行為にも動機の説明がつかなかった。
「や、やだ、私また声に出てました?」
「そうですね、かなりはっきりと」
「やだなあ、一人暮らしだと独り言ばかり増えちゃって」
ふにゃりと砕けた調子で笑う隣人と壁越しに会話していると、気持ちが穏やかに成ってくる。一先ず今日中に職安に行って今出ている求人にだけでも目を通して来よう。そう思うと徐々に体の芯が温かくなってきて、つい、
「ありがとうございます」
声に出していた。
「…え?」
「あ、いや、なんでもないんです、すみません」
「あの、何か人に話したい事があるなら伺いますよ? 私も今、来年の春咲くと思って楽しみにしてた鉢植えを落としちゃって…誰かに聞いて貰いたい気分だったんです」
だから、耳に入ったのは偶然ですけれどお礼と言うか…。
自信を無くして徐々にか細くなって行く隣人の語尾を耳に捉え、なんだか久方ぶりに息を付いている自分に気が付いた。自分には優しさや情など必要ないと思っていたし、事実必要としては来なかったが、どうやら現在の自分は思った以上に弱っているらしい。
「では、お言葉に甘えて。と言っても、ちょっとしたミスをやらかして仕事が無くなっちゃっただけなんですけどね」
「…だけ、じゃないですよ…そんな大変な事」
「いやいや、幸いまだ二十代前半ですし、今からでも探せば食える程度の仕事はあるでしょうし。なんとかなります」
「そうですか…? なんだか無理やり話して頂いたのにお力に成れなくて…」
「とんでもない」
久しぶりにまともな会話をしたような気になっていた。こんな風に相手を気遣い合い、それが言葉から直に伝わるような関係を失くしてしまって、どれだけ乾いた世界に生きてきたのだろう。
隣人が小さくくしゃみをしたので、
「あ、では、お互い風邪を引くといけませんし」
と話を切り上げて自室に潜りこんだ。すっかり冷めてしまった珈琲を流しに棄て、インスタントの珈琲パウダーの上から湯を注ぐ。ほどなく湯気を立てはじめた新しいコーヒーをぐっと飲み干して、まず一つ伸びをした。体が軽い。
その日は予定通り職安に出掛け、求人を幾つか当った。面接まで早く漕ぎ着けようと思いアポイントメントも取ってみたが、自分の元居た企業はなかなかの大手だ。特に件の取引の手柄は知れ渡っているらしく、三件ほど面接の予約を取り繕って帰宅した。
西日がカーテン越しにじりじりと部屋の壁を焼いていた。鮮やかな夕日だ。明日も晴れるのだろう。
全く珍しい事にまた気まぐれを起こしてベランダに出てみる。そうそう何度も偶然は無いと思ったが、隣人が立てているのであろう何かを動かすような物音が津々と夕闇に暮れるベランダに響いていた。
「…あの」
「あっ、はい、もしかしてお戻りになられました?」
「はい、おかげさまで仕事探しも捗ってます」
「そんな、おかげさまだなんて」
「いや、本当に…」
また自分らしくない言葉が口を突きそうになったが、そこは言葉を飲んだ。
「じゃあ、あの、また」
「あっ、はい、また」
小学生かよと思う。全く初々しい。考えてみれば自分にとっての恋愛経験など、それこそ小学校の頃にバレンタインチョコレートを配っていた女子児童を少し意識した程度だったと記憶している。こういう手合いには全く不慣れである。
それでも、小動物を胸に抱いているように何か温かな物が心臓に満ちて行く心地がした。
それから数日の間、毎朝六時前後と帰宅後の十八時前後に、ベランダで隣人と短い言葉を交わすようになった。
話の内容はと言えば、本当に取りとめもない世間話ばかりだった。昨日の雨は酷かったですね、とか、珈琲はブラックもいいけどやっぱり砂糖とミルクを入れたほうが美味いですね、とか。
しかしそんな会話でも繰り返せば多少相手の事を知って行くものである。よもや顔も背格好も知らない間柄であったが、むしろだからだろうか、いつの間にか旧知の中であるように打ち解けはじめていた。
初めての会話から三週間ばかり経ったある日の事。
この日は何件か当って来た面接が非常に色よい手応えを得、また面接に当った会社がすぐさま活躍できる即戦力を早急に欲していると言う事で、週明けからでも研修に入ってみないか、というお達しを得て帰宅した。
正直な話、あんな顛末ののち仕事を失ってしばらくは、人と言う物にほとんど信頼が置けない気持ちにもなった。どこの会社に勤めようと、また同じような薄ら暗い人間関係に戸惑い、精神をすり減らすばかりなのではないかと。
そんな自分がここまで立ち直れたのは、間違いなく隣人のおかげだった。
さっそくベランダに出て隣人の気配を確認する。
しかし、その日は一時間待とうとも夜になろうとも隣人がベランダに現れる気配はなかった。
自分は振られてしまったのだろうか。それが一番納得できる結末だ。大体、隣人にとっては自分など顔も知らないただのご近所さんに過ぎないし、今までしつこく話しかけていたのだってずっと迷惑に思われていたのではないだろうか。
もやもやと考え始めると止まらなくなった。自分は、いつの間にか元同僚たちどころか、自分にすら裏切られようとしているのではないだろうか。あのどん底だった自分を支えてくれた人の好意を無にするなど、どれほど酷い裏切りかわからない。
このままでいいのか。いいわけがない。
家に戻ったワイシャツにスラックスという身なりのまま、自分はどかどかと自室を歩き回った。
どうすればいいのかは分かっているのだと思う。しかし、今まで誰にも期待せず生きてきた自分がよもやこんな自分勝手な感情で他人に高望みを架してしまう事が許せないのであった。ぐしゃぐしゃと頭を掻く。
そして、部屋を出た。
隣の部屋の扉は、なんだかこの世の物でも無い合金で出来ているかのように重厚そうな、来るものを拒む外観に見えた。また気後れし出した自分がいるが、しかしこのままではきっと良くない事になる。
意を決してインターホンを押す。
しかし、何秒経とうとも返事はなかった。急にそわそわしだした自分は、もう何度かインターホンを鳴らしてからドアノブをがちゃがちゃと捻った。滑るように扉が開く。…鍵が掛かっていない。
果たして、玄関から続く廊下に、小柄な女性が四肢を投げ出して倒れていたのだった。
「本当にありがとうございました…私ったらもう…」
病室の白いベッドの上で、何度もこちらに向かって頭を下げる隣人をまあまあとなだめていた。どうやら元々体の弱い性質に加え、この所仕事で根を詰めていたせいでちょうど今日、限界が来たのだろうと言う医師の説明だった。それでも軽い栄養失調と貧血であったから、点滴を数時間も打てば大分顔色も良くなっている。
「ご家族を呼ぼうかとも思ったんですが、連絡先がどこにもなかったもので」
「ああ、私東京に出てくるときに勘当されてるんです。それで見返してやろうと頑張ってたんですけど」
「頑張り過ぎた、と…」
「あぁあ、ごめんなさい…」
こんな時に悪いかと思ったが、つい噴出した自分である。こんな形で彼女と対面する事になるとは思ってもみなかった。それだけに心の準備などする暇もなく、今になってまじまじと隣人の顔かたちを見やる。不思議そうに眼を丸くする隣人。それほど際立った容姿とは言えないが、このコロコロ変わる表情が可愛らしさに繋がっていて、そう言ったことも含め想像していた通りだった。
すっかり二人の空気になっている個室に、居心地悪そうに医師が入ってくると、「とりあえず悪い箇所は無いと思うので今日はご帰宅頂いてかまいませんよ」と言う。二人、ほっと胸をなでおろした。
タクシーに乗り合わせ、アパートへ向かう。車窓から見える空には都会ならではの貧相な星々が張り付いていたが、しかし今の状況を取ればロマンチックと言えなくもない。
「あの…」
「はい?」
「よければ僕と」
また自分らしくない言葉が口を突きそうになって、自分は顔を赤くした。暗がりで彼女には見えなかったであろうことが救いだ。
「僕と、またベランダ越しにお話しませんか? あなたの健康チェックも兼ねて」
「もう…いいですけど…」
翌日は日曜日であった。すっきりした気分で目覚め、いつものルーティンで湯を沸かして本日一杯目の珈琲を味わう。時計に目をやり、ベランダに出た。
「おはようございます」
「おはようございますー! あの、今日ようやく花が咲いた鉢があるんですよ!」
隣人の声はいつもより高揚気味だ。
「ここじゃ見せられませんし、よければ私の部屋まで見にお出でになりませんか?」
「え、えっと」
「嫌ですか?」
神様は何度もチャンスをくれる物である。意を決して
「いえ、朝食を食べたら伺います」
というと、隣人はまたはしゃいだ声を上げ、「お待ちしてますね!」と言ってバタバタと部屋に戻ってしまった。
早朝の空気は澄んでおり、吸い込むと肺に冷やっこく染みていく。そんな心地よさを味わいながら、隣人が部屋の片づけを始めたらしい物音を聞く。
「悪くないな」
自分らしくない台詞を今度こそ小声で呟いて、僕も身なりを整えるために自室に取って返した。
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