卵と鶏

 物心ついた時から本に囲まれて育った。記憶もないほど幼い頃には、母親が読んで聞かせてくれる絵本を小さな指でつつきながらはしゃいでいたそうだし、小学校に上がる頃にはもう童話や児童文学に深く親しむようになっていた。

 本を読んでいる間は、自分が只の一般家庭に生まれた少年である事実を忘れられた。不思議な国に迷い込み、異形達と共に旅をする少年に心を通わせ、勇ましい戦いを繰り広げる武将たちの姿を思い描いて胸を躍らせた。毎日毎日、擦り切れるほどにお気に入りの本たちを読み続け、中学に上がる頃にはすっかりメガネのお世話になっていた。



 自分でも小説を書こうとして、まずノートに構想を練り始めたのもその頃であったと思う。

 初めての事だ、何から纏めればいいか前も後ろも解らない有様であり、僕はまず友人をモデルに物語を書く事にした。当時学校で言葉を交わす友人が二名ほどいて、その二人の名前をもじって登場人物の氏名にした。ノートの中で生き生きと言葉を交わす友人に良く似た二人の新しい友。なんだか友人達の新しい姿を見るようでワクワクして止まらず、授業中も家に帰ってからもひたすら机に向かって続きを書き続けた。


 いつの間にかノートは三冊を超え、登場人物の数も日増しに増えて行き、彼らは遠く異世界に旅立って様々な国に立ち寄るようになっていた。

 勿論友人二人にはその執筆作業の事は内緒だ。だから、彼らに気付かれる恐れのある学校の休み時間には執筆がまるで出来なかった。心中じりじりしたが、それでも自分の秘密を守る事が何か特別な事に思われて、いっそう執筆を楽しむスパイスとなったのだった。




 しかし、ノートが四冊目に差し掛かる頃には、どうしてもこの物語を誰かに読んでほしいと思うようになっていた。

 友人二人には無論頼めない。彼らの怒りを買うのは目に見えていた。では、両親はどうか? 中学二年生になっていた当時、それはなんとも気恥ずかしくこれも出来ない。

 そんな時である、自分の住んでいる地域の自治会で、読書の会が催されている事を母伝手に聴いた。母にしてみれば「お前も一人で本ばかり読んでいないで多少人と交流して来なさい」くらいのつもりであったのだろうが、僕はもしかしたら自作の小説を読んでくれる友が出来るかもしれないと躍り上がった。


 そうして次の日曜日には期待に胸高鳴らせながら児童館の扉を潜ったのである。



「おや、随分若いお客さんだね」


 読書の会の会場と知らされたその部屋には、まばらに数名の老人たちがあぐらをかき、各々一心に読書にいそしんでいた。その内一人が僕に気付いて顔を上げ、朗らかに笑いかける。後で解った事だが、この人こそが読書の会を設立した会長であり、全体の議事進行や、毎回の読書のテーマを決める役割などをそれとなく担っているらしかった。


「あの、読書の会だって聞いて…」


「ああ、君か、今日来る予定だって言ってたのは。ようこそ、いらっしゃい」


 白髪を頭の後ろで結ったその壮年の男性は、老眼鏡をちょっと上げてこちらの顔を伺ってから、また朗らかに笑って見せた。穏やかで良い人そうだ。すぐに心を開く気に成り、彼のほうに歩み寄ると、老人はすっくと立ち上がり僕の横に並んだ。意外に背が高い。


「みなさん、僕たちの新しい仲間ですよ。ちょっと手を止めて。さあ、自己紹介して」


「あ、はい…小説を読むのも書くのも好きです、よろしくお願いします」


「え、君小説書いてるの?」


 大半が興味なさげに頭を下げた会のメンバーたちとは裏腹に、隣の彼は目を輝かせてこちらを覗きこんだ。急に気が咎めて、僕は口の中でもごもごと「ま、まあ…」などと言葉を濁す。彼はそんな自分の戸惑いに気付いたのだろう、ちょっと「しまった」という顔をしてから、今度はゆっくりと言葉を選びながら優しげな声で言う。


「よければ見せてくれない? 僕も小説書くんだよ、昔は真剣に小説家を目指したなあ」


「小説家を…?」


「うん、箸にも掛からなかったんだけどね。まあ、だから安心して読ませてよ」


「…はい」


 いきなり思惑通りになったのが正直恐ろしかった。それでも貴重な読者第一号だ、持参したリュックの中から、ノート四冊を取り出して彼に差しだす。「こりゃあ大作だね」と呟いた彼は、こちらに座るように合図しながら、見るからに楽しげにノートを開いた。

 僕は叱られる寸前の子どもの様に身を硬くしながらその様子を見ていた。じっくり咀嚼するように文字を目で追っていく彼は、次第にまなざしに光を湛えた真剣な面持ちになっていく。酷評されるのではないか、もしかしたら怒られるかもしれない。子どもの癖に生意気だと思われているに違いない。悪い予感ばかりが頭をよぎり、晩夏のクーラーの効いた室内だと言うのに嫌な汗を掻く。


 小一時間のち、ノート四冊を黙って読み終えた彼は、また老眼鏡を上げ小さな眼をしぱしぱと瞬かせてから、ぱっと笑顔になって僕を見た。


「凄いじゃない! 君、物凄く本読んでるでしょ、文章に現れてるよ。正直まだ粗削りだけど、先に進むほど上手くなってるし、素質あるよ」


「えっと…本当ですか? 素質…?」


「小説家になれるかもって事」


 本当に嬉しそうに彼が言うからか、思いのほか色よい反応を貰ったからか。僕は顔をひきつらせながらも自然と笑顔になる。

 しかし言葉の意味がいまいち自分に染みて来なかった。小説家などと言われても、当時将来の事を考えたことすらなかった自分には全くピンとこなかったし、何しろ初めて書いた小説だ。それを初めて読んでくれた人に褒められた。何もかもがすぐには現実と思われなかったのである。


 そんな僕に構わず、彼は歌うようにつらつらと感想を述べてくれた。そのほとんどが自分の頭に入ってこなかったが、褒めちぎられていると言う事だけはどうやら解った。


 いつの間にか数時間が過ぎていて、その事に気づいた彼がはっとしてまた声を上げる。


「それじゃあ、今日はそろそろ解散にしましょう。ね、君、また来るよね?」


「あ、はい…」


「じゃあまた書いたもの見せてよ、今の小説も途中だったし」


「良いんですか?」


「勿論、君さえよければぜひ」


 ぞろぞろと部屋を出て行く老人たちに倣って帰宅したが、その日は夢見心地で、夕飯をぼろぼろとこぼしては母に小言を言われる始末であった。

 夜、寝る前に自分の書いたものにざっと目を通す。


 …これがそんなに面白いのだろうか。


 正直半信半疑に過ぎず、しかし褒められた言葉が次々と胸に浮かんで温かくにじむのだった。もうとっくに寝る時間を過ぎていたが、今日の事を忘れたく無くて、僕はノートに向かってペンを動かし始めた。嘘のようにすらすらと言葉が出てくる。気が付くと机に突っ伏して眠ってしまっていた。




 その翌週の日曜日、約束通り小説の続きを携えて、彼の待つ児童館に向かった。初日も緊張したが、今回はより心臓が早打ちし、しかし不思議な高揚感がある。

 彼も同じだったらしく、僕の顔を見ると明らかに興奮気味に名前を呼びながら僕を手招いた。


「うわっ、一週間で四冊目埋まったんだね」


「はい、なんだかどんどん書いちゃって…」


「楽しみだな、さっそく読ませて貰うよ」


 にこにこと目にしわを刻みながら、彼はもうページをめくり始める。そして、また真剣な顔で中学生の書いた文字の羅列に没頭して行くのだった。


「うーん、見るからに熱がこもってるね。素晴らしいよ、この前読ませて貰ってのに比べても俄然よくなってる」


「あ…ありがとうございます」


「で、この途中に出てくる賢者のおじいさんだけどさ、もしかして僕がモデル?」


「やっぱり解りますよね…」


 ぱっと顔が赤くなるのを感じた。執筆中、どうしてもこの人懐こい老人の事が頭から離れず、つい小説に登場させてしまったのである。今度こそ腹を立てるかと思ったが、彼はむしろ嬉しそうに笑うと、


「光栄だなあ、自分をモデルに小説を書いて貰えるなんて」


 と、心から楽しそうに目を瞬かせる。僕にもその気持ちが伝播して来て、また笑顔にさせられるのだった。しかし今回の笑顔は一週間前のひきつったそれではなく、そんな顔を見て老人は非常に満足げに頷いた。


「ね、君、文学賞に向けて何か書いてみない?」


「文学賞…って、コンテストって事ですか?」


「あ、そっか、詳しくは知らないんだね。大抵の小説家は文学賞に小説を出展して自分の作品を宣伝するんだよ。厳しい事を言うと、ただ出版するだけじゃ小説ってほとんど売れないんだ。だから賞を取って箔を付けるわけ」


「へえ…」


「君の実力だと正直まだ受賞は難しいけど、きっちり完結させるのはいい経験になると思うんだ。あと、このままじゃ私小説…少し主観が入り過ぎてるって言うのかな、だからちゃんとした文学を書いてみるべきだと思うんだよね」


「…出来るでしょうか」


「やってみなくちゃ解らない。でも、一週間でこの量が書けるなら十分挑戦する価値はあるよ」


 ちょっとこのあと時間ある? と、楽しげに、しかしいつもよりも熱を帯びた声で彼は聞いた。



 その日の読書の会も静かに終わり、彼について児童館の廊下を歩いていくと、小さな扉の前までいざなわれた。

 扉を開けるとどうも物置になっているらしく、彼は身をかがめてごそごそと中を物色する。ほどなく古びた大きな機械を取りだした。


「君くらいの歳の子にはもう解らないかな、ワープロっていうんだけどね」


「わーぷろ…」


「文章作成専門のパソコンって言えば良いのかな、今時文学賞に出す作品は大体印刷物だから、君もこれを使って小説書くと良いよ。早めにキーボードに慣れておいたほうがいいしね」


「でもこれ…使って良いんですか?」


「うん、むしろ使ってくれると嬉しいね。元々僕が小説書くのに使ってて、使わなくなって寄付したものだから全然問題ないよ」


「なんだか…色々ありがとうございます」


「いえいえ、ちょっと重いから僕が運ぼうか?」


「あ、いえ、自分で持って帰ります」


 相変わらずにこにこしながら僕を見送る彼が、眩しくてならないのだった。



 その日の晩から早速ワープロを使って小説の執筆を始めた。ワープロの使い方、特にキーボードの使い方は母が教えてくれた。思った以上の事態を招いていて驚きが九割、といった様子ではあったが。最初はキーの配列が指に馴染まず苦労したが、二、三日キーボードをたたいていると徐々に慣れ始め、五日目にはペンでの執筆を遥かに凌ぐ速度で文章を打てるようになった。

 構想もワープロで別の文書として簡単に纏めながら、一節一節に気を配りながら執筆していった。


 すぐにまた日曜になったが、思いのほか小説は捗らなかった。彼に言われた事に気を付けながら文章を考えていると、一つ文を考えるのに二、三分は優にかかる。それも気に入らず書いたり消したりを繰り返すせいで、全く先に進まなかったのである。

 暗い気持ちで読書の会に行くと、彼に慰められた。


「僕でもそんなに早いペースでは書けないよ。特に応募作になると当然気も張るしね。次の文学賞の締め切りまでは三か月くらいあるから、まあゆっくり書きなよ。間に合わなくても次があるし」



 そうして三か月ギリギリまで粘って、どうにか三万字程度の短編を書きあげたのである。




 ワープロには印刷機能もあり、それを使って出力した原稿を持ち込むと、彼はまずしずしずとその分厚い紙の束を眺めた。


「頑張ったねえ…。まさか本当にここまで書き上げるとは思わなかった」


「まあ、なんとか…でもこれで良いのか全然わからなくて」


「うん、とにかく読ませて貰うね」


 その頃になるともう僕もすっかり読書の会の顔なじみになっており、そのおかげで他のメンバーの老人たちともちょこちょこ仲良くなっていた。その数名が興味津々と言った様子でこちらを見ている。


「会長、俺にも読ませてくれよ」


「私も私も」


「わかった、わかったから、ゆっくり読ませてくださいよ」


 いつも以上に鋭い光を目にたたえ、彼は文字を追って行く。頁をめくるごとに瞳の輝きは増して行き、顔から徐々に血の気が引き、彼の表情を奪う。そして読み終えた彼は黙って少し虚空を見つめていた。


「どうでしたか…?」


 沈黙に耐えきれなくなり、僕はおずおずと切り出す。彼はまだ現実に戻ってこれないと言った風に虚ろな目をしぱしぱと瞬かせていたが、やがて顔に赤みが差して行き、そしてその目から滴が溢れだした。


「あ、あの…」


「いや、ごめんね。まさかここまで成長するとは思わなくて…嬉しいし、悔しいよ。素晴らしかった。本当に」


 原稿を待っていた老人たちに手渡すと、彼は胸ポケットからハンカチを取り出し涙をぬぐう。そして、か細い手をこちらに差しだした。


「本当によく頑張ったね。これ以上ない出来だった」


「…ありがとうございます」


 その手を握り返すと、彼はまた少し目を潤ませたが、すぐに眉根を寄せて言う。


「だけど、これが入賞するかと言えばやはり難しいと思う。そもそも処女作だからね、余程の天才でなければ入賞なんてしない。覚悟はしておいてね」


 その後、作品を読んだ老人たちがあれこれ感想を言い合っては騒ぎ出したが、僕はと言えば脱力感と不安でないまぜになっていてずっとぼんやりと窓の外を見つめていた。いつの間にか冬も終わりに差し掛かり、しんと冴えた空気を風が震わせている。



 結果が出るまでしばらくかかるとは言われたものの、どうにも落ち着かなかった。勿論出来れば次の作品を執筆しておくべきなのだが、ワープロを叩いていてもやたら気もそぞろになってしまう。

 ふいに思い立って、途中で止まっているノートの小説を読み返してみたが、今見るとなんとも稚拙な自己満足の物に思えた。そうだ、自分はワープロを使えるようになり、小説を一篇書き上げ、それを賞に応募したのだ。じわじわと実感が胸を満たし、今までには味わったことのないような不思議な、喉が詰まるような興奮を覚えるのだった。


 それからしばらくは、読書の会は僕の作品の話題で持ちきりだった。皆知人である為だろう、さほど酷評をする人はおらず、むしろ褒めちぎる人がほとんどで、僕はさながらヒーローのように扱われた。今まであまり関わってこなかったようなメンバーとも活発に話すようになり、彼らに進められた小説を読み漁っているうちにあっという間に日が経って行った。



 一ヶ月が過ぎた頃、僕は正月で父方の実家に帰省していた。ワープロを持って行くのはさすがに憚られたため、携帯のメモ機能を使ってぽちぽちと小説の構想を練る。徐々にモチベーションも回復して来ていて、一作書き終えたことで自信がついたのだろう、津波のように次に書きたい作品のアイディアが湧いて来ていた。祖父母がせっかく遊びに来た孫にかまいたそうにしていたが、僕はそっちのけで小説の構想を纏める。

 その時、手にしていた携帯電話がぶるぶると振動した。慌てて携帯を落としそうになる僕である。

 画面を見ると彼からの着信であった。


「あ、もしもし、元気?」


 いつも通り柔らかな声音で彼の声が聞こえる。しかし、その穏やかさがどこか不穏だった。


「もしもし、何かありましたか」


「いや…今文学賞の結果を雑誌で確認してね。言いにくいんだけど…やっぱり入賞も逃したみたいだよ。でも、本当に良い出来だったから…」


「やっぱりですか」


「…大丈夫? 落ち込むのも仕方ないと思うけど…」


「いえ、平気です。次こそいい結果が出せるように頑張ります」


「…そう。詳しい話はまた君が帰って来てから。じゃあまた読書の会でね」


「はい、ありがとうございました」


 電話を切る。のろのろと立ち上がり、母に断って父の実家を出る。

 そのまま走り出した。


 息が切れる。目の裏と胸が焼けるように熱い。見知らぬ道に入りこんでいる事に気付いたが、どうでもよかった。


 走って、走って、さっぱりと開けた河原の前に出た。周囲に人はいない。

 涙がぼろぼろとこぼれ出した。大声で言葉にならない叫びを上げる。拭っても拭っても涙は止まらなかった。




 それから、数年が経った。僕は高校生となり、バイトを始めて自分のパソコンを購入した。それを使って今も執筆を続けている。

 読書の会は今も続いていて、僕も足蹴くそこに通い詰めていた。新しいメンバーも何人か増え、彼らと小説について語り合うのは本当に楽しい。そして、そこには勿論彼の姿もある。


 初めて会った時より幾分老け込んだ様子の彼は、僕に感化されたらしく、また小説を執筆し始めていた。もう体力が無いからそんなに量が書けない、とこぼしていたが、頻繁に短編を会に持ち込んでくる。それを皆で回し読みして、最後に僕が感想を纏めて、彼がにこにこしながら礼を言うのがお決まりのパターンだった。

 そして、僕はあれから三回、文学賞の準入選を、一回佳作を取っている。なかなかそこから先の賞には進めなかったが、熱は高まる一方だった。


 充実した日々の中、偶にあのノートを開いてみる。結局その本当の意味での処女作は完結していなかった。ただ、完結させる代わりにノートの最後に記した「ありがとう」の文字を指でなぞり、そして今日も執筆を始めるのだった。

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