霜月と師走
生きる事とは走り続ける事である。人生はよくマラソンに例えられる。其々、どんなペースで走っても良い。全力で走って、その時々で立ち止まっても良いし、ゆっくりと景色を見ながら走り続けるのも良い。走るコースも各々に任されていて、そしてそのすべてに正解はない。ただ解り切っている事と言えばどこかでゴールにたどり着くと言う事だ。
そして、僕にとって生きるとは描く事だった。
『こんばんは。今日も配信始めますね。質問とかあればお気軽にどしどし――』
今日もいつもの台詞で先生が作業の生配信を始めた所である。先生の一番弟子を自負する僕にしてみれば、この隔日の放送を見届ける事こそが自分のアイデンティティであった。パソコンの大して大きくもない画面の中で、先生がちょこちょことペンを動かす様子を見るとはなしに見ながら、自分も手もとのペンタブを動かした。
『あ、いらっしゃいー、見てくれてありがとうございます。はい、何々? ”人物のデッサンが狂って困っています、良い参考書無いですか”ね。うん、俺のお勧めはですね…』
日々先生の配信を追い続けていると、先生が他の視聴者に対して実にフレンドリーに振る舞うのになんとなく嫉妬を覚え始める。しかし僕も先生にとっては他の大多数の人間と同じく、ネットで関わりのある知人、の一人に過ぎない事が良く分かっていた。大体にして僕ももう二十代前半である。そんなしょうもない感情で自分や相手を消耗させて良い訳が無い事くらい承知している。
先生はこの道二十年からのベテランイラストレーターであり、三十代後半に差し掛かった現在、数多くのフォロワーを抱え、仕事の単価も駆け出しの僕など比べものにならない程高い。業界の中でも非常に注目されている人で、人気のゲームタイトルには大抵先生が参画してそのタイトルに箔を付けている。
『じゃあ眠くなって来たので一旦ここまでにします! みなさん今日もありがとうございました。次の配信は多分三日後の――』
先生の声ではっとして時計を見ると、既に針は零時を回り、一時の少し手前を差していた。僕もそろそろ眠るとしようか。
しかし今描いているイラストがちょうど気持ちの良い所に差し掛かったところである。配信が終わった画面を付けっ放しにしたまま、なんとなくカリカリとペンを動かし続けた。そうして今日も静かな夜が更けていく。
僕がこの道に入ったのは、そもそもが先生のイラストに触れたことがきっかけである。当時然程名前も売れていなかった新米であった先生の仕事を、偶々イラスト集の隅に見つけ、なんとも言い難いシンパシーを感じた。この人はこれから来る、という予感。いや、それほどはっきりしたものではなく、仄かに纏う期待のようなものだったろう。
それから当時ノートに落書きする程度の中学生であった僕は、先生のSNSのアカウントを突き止め、昼夜を問わずその作品と発言を浚い続けた。元より実力があり、また人当たりも良い先生の事である。自分が高校に進む頃には既にかなり大きな仕事に関わるようになっており、僕は焦り始めていた。
このままでは自分は、先生にとってどこにでもいる有象無象の一人に成ってしまう。
散々悩んだ挙句、先生と同じSNSにアカウントを作り、ある日ビクビクしながらメッセージを飛ばした。
「先生、初めまして。何年か前の〇〇のお仕事拝見してからファンでした。僕も絵を描くんですが、いつか先生のように色々活躍できるイラストレーターになりたいと思っています。フォローさせて頂きました、よろしくお願いします」
これだけの文章を打つのに一時間を要した。すぐには先生からの返信はなく、その日は高校で授業を受ける間も絶えずソワソワして上の空だったものだ。
帰宅してパソコンの電源を入れると、見慣れた先生のアイコンがSNSの通知に点灯しており、僕の心臓は大きく跳ねた。
「初めまして、嬉しいですねー。あの仕事は俺の中でも特別なものでして…。イラストレーターを目指されてるとの事、今高校生か大学生かな? 応援してます、フォロー返させて貰いました」
恐る恐る確認して観れば、確かに先生の名前が僕の数少ないフォロワーの中に軒を連ねている。
すぐには現実と思われなかったが、しかしその出来事があってから、自分は本当に真剣にイラストレーターを目指し始めたのである。
翌朝、寝不足の目をこすりながら起床して、朝一でシャワーを浴びる。結局昨日は三時くらいまでダラダラと作業してしまった。それも毎日の事になりつつあったが、おかげでこの所目の下の隈が取れない。
鏡に映る自分の顔色の悪い人相を眺め、しかしそれも自分が頑張っている事の勲章に思えて、なんとも誇らしい想いがした。
バスルームから這い出すと、簡単にスウェットを纏って今日も絵を描き始めるかとパソコンの前に移動する。もはや習慣となったSNSのチェックから始めると、毎日欠かさず追うようにしている先生の発言の内一つに目を留めた。
「俺が協賛してる新しいゲームタイトルなんですが、イラストコンテストをやるらしいですね。かなり規模のデカいイラコンになるみたいなんで、良ければ皆参加してくれー」
相変わらず飄々と爆弾発言をする人だ。自分達のようなファンがその発言を受けてどれだけ動揺するか、あまり考えてもいなさそうである。しかしそう言う所がこの人の善さなのだ、そんな事を考えながら添付されたアドレスをクリックして先生の言うイラコンの募集要項を確認する。
規模の大きさは先生の言う通りで、特賞となったイラストレーターには百万の賞金が出るらしい。総賞金額五百万。募集内容もかなり自由度の高い物になっているようで、オリジナルのキャラクターイラストから応募が可能であるようだ。
そして、ここが最も重要な点であるが、先生がコンテストの審査員を務める、という一文が目についた。
なるほど、これはかなりのチャンスだ。これだけの規模のイラコンとなれば、入賞でもした暁にはかなり自分の付加価値になり、仕事の伝手も得やすくなるだろう。何よりも、先生に絵を審査して貰えるなどこの機を逃すわけにはいかないと言うものだ。
幸いこの所目立った案件も抱えていないし、締め切りまで一ヶ月ある、思いっきり自分の力を出し切った作品を作ることが可能だ。
俄かにワクワクし始める自分を楽しみながら、まずはラフを切るかとペンタブの電源を入れた。
『あ、あなたもイラコン出すんですね』
「はい、何しろ先生が審査員やるらしいんで。ファン一号としちゃあ逃せないでしょ」
『はは、そうですねえ。私も出そうと思ってるんですよ、あれだけ賞金額が大きいとさすがにやる気でますね』
「それも確かに」
今日は先生の配信が無い日である為、ネットで知り合ったイラストレーター仲間と通話しながらぼちぼち作業を続けていた。勿論例のイラコンに応募するイラストの執筆作業だ。
当初気合いが入りまくって巨大なイメージボードを基にラフを切ってしまい、正直作業の進みが遅い。しかしこれは描き切りさえすれば確実に良い物になるであろうことが既に解った。あとは自分のモチベーション次第であり、またその点は先生の協賛の件で全く問題が無いであろうことが予想できる。
『いやー、にしても、最近あなたも大きなお仕事手掛けられてますよね。私みたいなコミッショナーには羨ましい限りです』
「全然ですよ。ウケる絵を描ければ仕事は来るので…僕にはあなたみたいな”自分の絵”を持ち続けてる人のほうが羨ましく見えます」
『いや、ははは』
気持ち良くペンを走らせながら雑談に興じる。彼は自分より二、三歳年上で、会社員をしながらコミッション(個人依頼)を請け負っているイラストレーターであり、専らアナログの水彩で絵を描いてはその現物を依頼主に贈る生活をしているらしい。現代に於いてアナログメインで活動する絵描きは随分減ってしまったし、その中で個人とは言え依頼を取りつけられる実力はかなりのものである。
そして、彼も言葉通り自分を尊敬してくれているらしく、自分達はお互いに対する尊敬も相まって非常に仲が良かった。
『そういや、その新しいゲームタイトル、もうプレイしました? 私はなんだかんだ時間が無くてまだ触れてないんですが』
「チュートリアルくらいはやりましたね。ぶっちゃけイラストレーター陣は凄いんですが、システム面ではそれほど新しい物もなかったかな」
『へえ。まあ出尽くした感がありますよねえ』
その日も彼と長話をするうちに夜が更けて行き、結局一時過ぎまで話しながら作業を続けていた。
しかしそれから一週間、二週間が経とうとも、イラストは仕上がらずその進捗も芳しくなかった。締め切りまであと二週間、さすがに焦り始める。自分にとって気合いを入れすぎて空回りするなどという経験はほとんど初めての物で、対処法も解らなかった。
『あー、まあ憧れの人に見て貰えると思うとそうですよねえ』
いつも通りとらえどころのない彼が、それでも心持困ったようにアドバイスしてくれた。
『とりあえず描き切る事だけを考えるのはどうでしょうかね? 完成させてから直したい部分は直せばいいですし。仕上がらないと何にもならないですから』
「…確かに」
今更イラストのランクを下げる事になるかと思うと一丁前に嫌な気持ちがしたが、しかし彼の言う事はもっともである。特に仕事を始めてからは、「とにかく仕上げる」と言う事の大切さを身を持って知っている。
クライアントに依頼の途中経過を報告する際も、ある程度絵が形になっていないとそもそも報告の意味も無いわけだから、自然、完成度を上げる事よりはまず「完成させる」癖がついている。それでも今回上手くいかないのは、やはり自分の中に完成のイメージがちゃんと出来ていない状態で描きはじめた事が大きいのであろう。
三週間目、悶々としながらとりあえずキャラデザインと背景の原案を練り直し、ある程度装飾を絞って今出来るレベルまで落としたものを再度絵に落とし込んだ。このような方向転換は仕事でも何度も経験しているし初めてではないが、しかし相変わらず漲るやる気がぐるぐると胸の中を渦巻いていて、なかなかうまく筆が動かなかった。
そんな状態で迎えた四週間目、締め切りまであと一週間、本当に後が無い。
その上この所なりをひそめていた企業案件が急に一件入ってしまい、そちらも早急に仕上げて欲しいと言う話で二枚のイラストを同時に進める事になった。これも初めての経験ではなかったが、しかし迷っている最中にやるとなると何もかも勝手が知れない。
憂鬱な気持ちで絵に向かいながら今夜も先生の生配信を眺めていた。先生はさすがに人格者であり、また人生経験も豊富なのであろう。配信を見ていても普段の発言を見ていても滅多に荒れた所など見せないし、今日も飄々と良い声で視聴者の質問に答え続けている。
『あ、そういえば例のイラコン、締切三日前みたいですねー』
嫌な核心に触れられ、自分は煽っていた珈琲を苦々しく飲み下した。先生はそんなこちらの気持ちなど無論全く知らないように、淡々と続ける。
『皆さんの作品は俺も見させてもらう事になってるんで、まあ楽しみにしてます。力作待ってるぜ!』
その時の自分の焦りと苛立ちは、本当に今までにないものであった。
結局、仕事の片手間に、大幅に妥協した案のまま詰めた物を完成させるしか無かった。それでもこの一ヶ月毎日睡眠時間が三、四時間の生活である。描き切った事に多少の達成感はあり、心身ともボロボロになりながら募集要項を再確認して締切ギリギリでイラコンに応募した。
そしてその日はまだ日が高い内に眠りにつき、そのまま十三時間程爆睡した。
十一月の末日である。明日から十二月、いよいよ一年も残り一ヶ月だ。
目覚めてから卓上カレンダーでそれを確認し、やれやれと伸びをした。不思議な心地である。充実感、虚無感、解放感、脱力感。プラスの感情とマイナスの感情がないまぜになった、何とも言えない気持ち。
しかし、その中に今回のイラコンの結果に対する期待は全くなかった。あの程度の絵で入賞する訳がないと言う単純な確信である。
そして、その日の内にまた新しい依頼の話が一件舞い込み、自分の気忙しい年末は過ぎて行った。
『いやいや、みなさん大晦日なのに見てくれてありがとうございます!』
年越しの瞬間を、相変わらず休みもせず作業する先生の配信を聞きながら迎えていた。なんだかんだ言っても、自分もイラストの依頼に掛かり切りになったまま年越しである。このまま、気忙しい毎日をただただ泳いでいくのだろう。それが生きると言う事なのだ。
件のイラコンの結果が、既に届いていた。当たり前のように落選である。大して期待もしていなかったが、しかしやはり結末を迎えるとそれなりに落ち込む。件のイラストレーター仲間がこの所気を使って励まし続けてくれていたが、彼も今回のイラコンに出した作品は見事に空ぶったそうだから、お互い様と言うやつであった。
『おっ、いよいよ新しい年が来ますねー、まあ多分代わり映えもしないでしょうけれど、みなさん、来年もよろしくお願いします!』
先生の飄々とした声に、遠くからの除夜の鐘が被って聞こえた。
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