先輩の絵
幼い頃から、「描く」と言う事が当たり前のように隣に在った。産まれてから一歳を迎えるころには既に、クレパスを与えられ画用紙一杯に何の意味も意図もないようなぐちゃぐちゃとした線を描き殴っていた。それが今もアルバムの自分の写真の隣に大切に貼り付けられている。
当時描いたものを見ても、あの頃何を考えてそれを描いていたのか、そもそも何か考えていたのかすら思い出せなかったが、しかしその極彩色に絡みつく線の束は、不思議と懐かしく温かい。
幼稚園と小学生時代のほとんどを室内で絵を描いて過ごし、気が付くと中学生になっていた。
中学生ともなると、随分いろいろな事を深く考えるようになるし、それに伴い自分の描いている物も変化して行った。小学生時代までは、本当にただ楽しさから描き続け、主にデッサンも取れていないような人物の落書きを延々紙につづり続けていた、が、中学に上がり美術部に籍を置くようになってから、いやがおうにも人の眼が気になり始めていた。
同じ美術部員の描く物は、その当時単純なキャライラストやゲーム雑誌の模写程度しかした事の無かった自分にとって、大層華やいで見えた。
本格的に部でデッサンを勉強した先輩達が描き出す油絵などは、自分にはもう本当に美術の大家が描くような何千万円もする絵画と然程遜色ない様に思えていた。毎日毎日美術準備室で絵を描き続けながら、周囲の描く物をちらちらと伺うたびにみすぼらしさと惨めさで気持ちが溢れかえって行く。
先輩に一言「教えてください」と言えば良いのは解っていた。しかし、思春期特有のつまらないプライドがそれを阻止していた。
そんな自分の絵であっても、やはり自分自身にとってはかけがえのないたった一つの物だ。入部初めてのいわゆる新人戦となる博覧会に向けて、今日も自分は準備室で延々筆を動かし続けていた。
「おっはよー!」
はつらつとした大声を上げながら、先輩の一人が準備室に転がり込んでくる。そうしてまだ早朝の室内に僕一人しかいないのに目を留めて、きょとんとした後笑い出した。
「いやー、また君か! ホント絵好きだよねー、こんなに熱心に描いてる子は美術部でも見た事無いよ」
「先輩こそ。まだ七時ですよ。毎朝よくもまあこんなに早起きしますよね」
「お互いにね!」
自分はそんなに人付き合いが上手くもないし好きでも無い。それでも毎朝と毎夕長い時間を美術室で共有するこの先輩とは、比較的気さくに言葉を交わすようになっていた。
先輩は手荷物をロッカーの中に放り投げると、椅子とカンバスを引っ張って来て僕の隣にどっかりと腰を下ろした。こんなにガサツな人ではあるが、一応は女生徒である。僕も当初あけすけに自分と言う男子と付き合うこの先輩に少しどきどきしたものだが、しかし今では姉か何かのようにそこにいるのが当たり前の存在になっていた。
先輩はパレットとテレピン油のビンを取り出し、それらを軽く溶いてから筆でちょんちょんと画面に絵具を置いていく。それらを見るとはなしに見とめながら、僕も淡々と筆を動かした。
時計の針の音がやけに大きく聞こえた。まだ初夏の事である。冷房もない室内はむしむしとうだるように暑く、申し訳程度に唸る扇風機が心地よい風を運んでくる。開け放たれた大きな窓からは、校庭からの草いきれがぷんと匂い室内にたゆたうのだった。
先輩と僕は、もう一言すら話す事もせずに黙々と腕を動かし続ける。
高校入学後初めての美術展となる今回の博覧会は、文科省が主催する全国規模の物だ。各学校から二、三名代表の者の絵を教師が選び出展し、それらに事細かに順位が付けられる。つまり、まず僕らが突破しなければいけない壁とは、十数人いる美術部員の中の限られた枠に選ばれる事なのである。
僕は内心この美術展に賭けていた。もちろんそんなのは自分だけではないだろうが、しかし僕にとって、小学生時代に取ってきた数々の絵画展の賞とは比べものにならない程、この博覧会の賞は重い。
主に水彩で数時間も掛けずに描いた絵が集う小学生の絵画展とは違うのだ。多くの作品は自分が使っているアクリルや、先輩が使っている油彩を使った、何日も何週間も掛けて描いた力作ぞろいであるし、当たり前のように時間を掛けた分それらはクオリティ的にもカンバスそのものの大きさ的に言っても段違いの物となる。
それだけに、気合いが入り過ぎているのだろう、僕の絵は何度も何度も上から絵具を塗り重ね修正を続けてきた、既に総描画時間五十時間を超える物となっていた。
それは先輩も同じである。特に油彩は塗り重ねに強い画材である代わり、非常に絵具の渇きが遅い。自然描画時間は平気で一枚百時間、二百時間に及ぶ。横合いから覗き込む先輩の絵は、まさに今までの先輩の努力と血と汗と涙が滲み出た、非常に重厚な一枚となっていた。
「ふうっ、もう始業時間だね!」
恐ろしいほどの集中力を見せていた先輩が、不意に顔を上げて壁の時計を見上げる。つられて見上げた僕も、気が付くと今朝美術室に来てから二時間以上が経っていた事にようやく思い至った。
「時間が過ぎるのが早いですね。この調子だと毎日描いても締切ギリギリになりそうです」
「私もだよー! でも、時間を掛ければ掛けただけ応えてくれるからね、絵は」
「そうですね」
雑談を交わしながら道具を片付け、廊下で先輩と別れて教室に向かった。
ホームルーム中も、授業中も絶えず絵の進行と修正点に思いを巡らせる。黒板にチョークで下手な字を羅列する教師の目を盗んで、ノートに今描いている絵の構想を詰めていく。
基本的に絵は、構想に時間を掛ければ掛けるほど良い物になる。思いついたアイディアをすぐに絵にしてしまいたくなるし、思うまま好きなように描き殴るのが芸術だと思われがちだが、しかし特に芸術、美術と言うくくりで呼ばれる物は、限りなく積み重ねられた経験と知識、そして構想の集大成だ。例えばカンバスに絵具をぶちまけただけに見える抽象画であっても、それを生み出す際恐ろしいほどの手間と時間が掛けられている。その時間の重みこそが絵に深みと味わいを生じさせるのである。
放課後、心持駆け足で廊下を美術室に急いだ。途中ですれ違う同じ学校の生徒たちが、口々にこれから遊びに行く約束を交わすのを、少しじりじりとした気持ちで聞き流した。
僕にはお前たちみたいにのんきに遊んでる暇なんかないんだよ。
心中そんな言葉をささやきながら、美術準備室の扉を引っ張る。
果たして先にカンバスの準備を始めていた先輩が、こちらを見てにかっと笑った。
「おっ、もう来たか。廊下走っちゃだめだよ!」
「先輩に言われたくないですね。校則ってのは破る為にあるんです」
「同感! 今は一秒でも惜しいしねえ」
ケタケタと笑い合いながら椅子に腰かけ、僕らはまた絵に没頭して行くのであった。
その日は数分するとほかの部員もちらほらと美術室に顔を出し、巡回に来た美術教師が簡単に絵を見て回って講評してくれるのを受けて、少しずつ絵を直した。油彩に比べれば圧倒的に乾きが早いのが僕の使うアクリルという画材であるが、しかしそれでもアナログの画材であるから基本的にガシガシ描き続けていると絵具が混ざって画面が濁ってしまう。絵具が乾くまで待ち、その後筆を置いてまた乾くのを待つ。そんな事を繰り返す訳だから、自然と一日出来る限りの時間粘っても絵の進みは遅かった。
結局その日も大した進捗も無く、しかし確実に絵の完成度を上げ、先輩や他の部員たちと簡単に挨拶を交わして帰宅した。
家でも何か描いていないととにかく不安で、寝るまでの時間一杯を使って素描をスケッチブックに描き貯める。そうして今日も暮れていくのだった。
翌朝。今日も六時にセットしておいた目覚まし時計がけたたましい音を立て、僕は眠い目をこすりながらタイマーに掌を叩きつけた。夏場の事であるから、既に高く日は昇り、カーテンの向こうから日差しが差して部屋はぼんやりと明るい。あくびを噛み殺しながら朝食のパンをかじり、制服に着替えて家を出た。
学校までは自転車で十五分と言ったところである。人も車も少ない通学路を軽快に飛ばしながら空を見上げると、昨日の天気予報では一日晴れだと言っていたのに、まだらに黒い雲が立ち込めているのが目に入った。今にも降り出しそうだ。傘は持ってきていないし、学校に着くまで降り出さないと良いのだが。
思惑とは裏腹に学校まであと二、三分と言ったところでぽつぽつと雨のしずくが鼻っ柱を打った。
かと思う間に雨は強くなり、ざあざあと音を立てながら僕の制服を濡らしていく。ペダルを踏む足を速めて、なんとか学校に乗り入れた。
雨に濡れそぼる校舎の廊下は、電灯もともされておらず薄暗かった。しとしとと雨が校舎の壁面や窓を打つ音が遠くに、近くに、聞こえる。鞄の中からタオルを引っ張り出し、ぐっしょりと濡れた髪を拭いながら、僕は美術準備室に急いだ。廊下を歩く足音がやけに高く響いた。
美術準備室の前に立ち、扉に手を掛けるとするすると開く。
真っ暗な室内で、何者かが仁王立ちして何かを見下ろしていた。
「…先輩…?」
シルエットからその人影の正体を見とめて声を掛けると、その人物はびくりと身を震わせて、そしてこちらをゆっくりと見た。
雷が落ちたらしい、稲光と轟音が準備室を振るわせる。その光の中で、青白い先輩の顔が一瞬照らし出された。
「…やあ。参ったな、君、こんな朝早くから来てたんだ」
「何してるんですか…? それ、その足元の絵…」
先程の稲光で、束の間先輩の足元にずたずたに切り裂かれたカンバスが見えたのだった。先輩はいつもとは打って変わって、静かな、しかししゃがれた声で応える。
「うん、もう完成させる必要がなくなったんだ…だから、捨ててしまおうと思って」
「何言ってるんですか…あんなに頑張って描いてたのに」
「もう良いんだ」
なにも良くは無い。とにかく先輩を止めようと室内に踏み入る。
また稲光が先輩を照らし出し、その手にしたペインティングナイフと頬を濡らす涙を浮かび上がらせた。
「何があったんですか」
「つまらない事だよ…親がね、私が美術系の高校に進むのを反対してるんだ。今回の美術展でいい成績を取れば認めてくれると思った。でも…」
先輩はしゃがみこみ、切り裂かれたカンバスの表面を撫でる。
「昨日、”くだらない事に一生懸命になるのはやめろ”って言われたよ。そんな事にこれ以上金を掛けるつもりはない、って」
震える声を絞り出す先輩は、ペインティングナイフを大きく振りかぶる。そしてそれをカンバスに叩きつけた。何度も、何度も。
慌てて走り寄りその腕を取って止める。か細い、女の子らしい腕だった。
「くだらなくなんてないです。僕は…先輩が頑張ってるの、見てました。そんな、そんな…大人の都合なんて、先輩は気にしなくて良い」
腕を握る手に力を込める。先輩の手からナイフが滑り落ち、からからと乾いた音を立てて床に転がる。
「…じゃあ、どうすれば良いのさ。私は、私にはもう絵を描く資格なんてない」
「そんな事無いです。また描けばいいじゃないですか…僕は、先輩に絵を描いていて欲しいです」
それから、始業のベルがなるまで、僕は嗚咽を漏らし続ける先輩の傍らで、ただ腕を握りしめていた。
その日、先輩は早退したらしい。美術教師が心持青ざめた顔で語ってくれた処によると、授業が始まっても涙が止まらず、今日はもう授業を受けるべきではないと担任が判断したそうだ。美術教師も心配はしているようだったが、しかし家庭の事情に学校側が深く踏み込む事は基本としてタブー視されている。大体にして先輩の言うように絵を描く事を「くだらない」と言い捨てる先輩の親を、どう説得すれば良いと言うのだろう。
先輩がしゃくりあげながら、絵に「ごめん、ごめんね」と言い続ける姿が目と耳に焼き付いて離れず、その日はカンバスに向かっても全く集中できなかった。
その次の日も、先輩は美術室に現れなかった。
本当に絵を描く事を辞めてしまうつもりなのか。
あんなに、あんなに絵を愛しているのに。
自分に出来る事をぐるぐると考え続けていたが、しかし何も妙案が浮かぶ事もないままその日も暮れて行った。
しかし、何もしないではいられなかった。
放課後、美術室では無く先輩のクラスに向かって廊下を駆け足で横切る。心臓が早打ちした。どうか、どうか間に合ってくれ。
夕日が赤々と照らすその教室で、先輩は誰もいなくなった室内でただ一人窓の外を眺めていた。
「先輩」
「…君か。昨日はごめんね、みっともないとこ見せた」
「そんな事は良いんです、良いから…美術室に行きましょうよ」
「本当にもういいんだ、私は…」
腹の底から何かがこみあげてきて、僕は足音を響かせながら先輩に歩み寄ると、その手を取る。
「良くないです。何も良くない」
「なんだよ、私は自分の絵をあんなにしたんだよ…君に心配して貰えるような人間じゃないんだ」
「それは先輩が決める事じゃない…っ」
先輩の効き手を握り締め、その掌を晒す。
「見てください自分の手を…こんなにいろんな場所にタコが出来て、絵具で汚れてもう落ちない。これは絵描きの手です。先輩は、絵描きなんですよ」
空っぽの教室に、僕の声がわんわんと響いた。
先輩は少し黙って自分の手と、それを握る僕の手を見つめて、そしてそれを静かに握りしめた。
「…そうだね」
小さな声で「ありがとう」と呟いた先輩は、また静かに涙を流し始めた。
それから、数カ月が経った。先輩はあれから、結局美術部には戻ってこなかった。僕は例の美術展に出す絵を描き上げたが、しかし先輩の事を考えると気もそぞろで、絵は酷い出来になってしまった。博覧会への出展用に選ばれたのも、僕の絵ではなかったし、先輩の絵は、もう。
やがて三年生が部活を引退していき、相変わらず毎朝毎夕美術準備室に通い詰めていたが、しかしそこは以前とは違うがらんとした空間になってしまっていた。
冷たい風が吹く十二月の末日だった。既に学校は冬休みに突入しており、僕は正月の前日を美術部員向けに解放された美術室で過ごしていた。今日も黙々とアクリル絵具を画面に置いて行く。
「…おはよう」
久しぶりに聴く声に振り返ってみると、心持痩せた様子の先輩が佇んでいた。
「先輩。今までなにを…」
「いや、ごめん。すぐにまた絵が描きたかったんだけど、あれから筆を持つと手が震えてさ。まともに描けなかったんだ」
やけに淡々と言いながら、先輩はこちらに歩み寄ってくる。その一歩一歩の歩みが、酷くか弱く見えた。
「だけど、君に言われた事考えたよ。やっぱり私は絵描きだ。きっと、死ぬまで。だから、美術系の高校に通えなくても絵を続ける事にした」
手にぶら下げていた鞄から小さな紙片を取り出すと、先輩はそれを僕に差しだした。
手にしたそれは、先輩があの時描いていた絵を小さく複製した、素描だった。
「君にそれを持っていて欲しくて。私達はもう会う事もないだろうけど、でも」
「忘れません、絶対に」
「…うん」
「大切にします」
「うん」
先輩は久し振りに笑顔になると、軽く手を振って走り去って行った。
僕は、先輩から貰った絵を壊さないように、汚さないようにノートのページの間に挟むと、椅子から腰を上げ窓のほうに向かう。先輩が校庭を横切って行く姿に重なって、降り出した雪が真っ白に視界を埋めて行った。
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