上澄み
彼とは、気まぐれに入った喫茶店の、まるであつらえたようにしっくりくる相席がきっかけで出会った。
その時は丁度暇を持て余していて、特に用も無いのに朝から街をぶらついていた。昼下がり、何かお腹に入れようかとふらっと立ち寄ったのがその茶店だったのだ。
しかし都市部の喫茶店の、しかもかき入れ時ともなるとさすがに席は空いていない。店員が申し訳なさそうに奥まった角の座席を指さす。そこに、嫌そうな表情を変えようともせず主張して、彼が先に座っていたのだった。
「あちらの方とご相席でよろしければ…」
「あ…まあ、なんでもいいです」
その頃、私は三年程付き合った恋人に酷い振られ方をしたところで、無性にむしゃくしゃしていた。年若い女の子の常と言う奴だ、自分を乱暴に扱う事で元恋人に対するあてつけにしようとした。ずかずかと角の座席に歩み寄り、そこに腰を下ろす。
「…どうも」
「…」
彼は明らかに面倒くさそうな顔になると、すぐに私から目を反らし壁を見るとは無しに見つめながら紅茶を啜り始める。あたふたと店員が近寄って来て、私の注文を手早く取っては逃げるようにはけて行った。しかし私はと言えばもう、彼になんとか喧嘩を吹っ掛ける事しか考えていなかった。
「ねえ、君、男の子の癖に紅茶なんて洒落てるね」
「…あんたに関係ある?」
「それは君が決める事かな?」
「…質問に質問で返すとか…」
この手の口論は得意ではないのだろう。もごもごと口ごもったその男の子を前に、なんとも言えず勝ち誇った気分になった私は、相変わらず彼が見つめている壁のほうに視線を流す。そこには、見るからに重厚な、その喫茶店の調度におよそ似つかわしくない高そうな絵画が掛かっていた。
「この絵画、君に似てるね。女の子の扱い方も良く分からない癖に、こんなお洒落なカフェで紅茶なんか飲んで。気取ってる」
「あんたにこの絵の何が解るの」
彼の目を見た途端、地雷を踏んだのが解った。まるで燃え盛るような、見た物全てを焼き尽くすような、めらめらと熱いまなざしをこちらに向けていたのだ。
「…よく分かりもしない絵の事をそんなふうに言うもんじゃないよ」
気圧された私に気づいたらしく、彼は今度こそこちらに興味を失くして、またふいっと絵の方を見た。その目が、どこか悲しげに見えた。
結局、その時の自分の勘が当って居ようと外れていようとどちらでも良かった。とにかく私は、すっかり彼に魂を奪われてしまったのである。
重苦しい空気が支配する中、二人黙って昼食を取り、それでも私は諦めきれずに去り際、自分の携帯番号を書いた紙を差しだした。じろりとそれをにらみつける彼。
それでも受け取ってくれたのは、今もって何の気まぐれだったのかよく分からない。
そうして私たちの交際が始まった。
付き合い始めてまず初めに彼から聞いたのは、彼が絵を描いて生計を立てていると言う事だった。
それから二年、今日も私は彼の住まいであるぼろアパートの一室に足蹴く通い詰めていた。
上り下りするたびに今にも崩れるんじゃないかと不安になるほどボロい階段を上がり、二階の角部屋の前までやってくると、いつも通り、インターホンを鳴らすでもノックするでもなく、黙って合鍵で扉を開けて努めて静かに部屋に入る。六畳一間の小さな部屋には、決まって敷きっぱなしになっている万年床の上で、彼が目の前のカンバスとにらみ合っている。
最初の頃こそ、一分でも長く会話を交わしていたくて、彼が手を止める度に話し掛けた物だが、その後噛んで含めるように説明されたところによると、絵描きにとっては実際に筆を動かしていない時間も、描いている時かそれ以上に重要な物であるらしい。彼にとってみれば私と言う恋人は常に二番かそれ以下であり、一番上の更に上に君臨する「絵」という最重要項目には決して及ばない。
それを認められるまでに一年を要したが、二年目に突入する頃には気が済むまで描いて、描いて、やがて疲れでボロボロになってそのまま布団にもぐりこむまでの十分足らずの時間を共有できるだけで十分だと思えるようになっていた。
「…今日はこれで終わり?」
「うん」
「疲れた?」
「…疲れた」
まるで一辺倒に思える会話を交わしたのち、彼がもそもそと面倒くさそうに動いて薄い布団にもぐりこむのを待って、また静かに部屋を後にする。そんな時間が毎日のように続いた。
あの時、何かを耐えるように細められた視線を、私は彼の中に見出し続けている。ずっと寂しそうにしている。何か、巨大な孤独に耐えている。そんな気がした。
この人には誰かがついていて上げなければいけないんだと思った。
付き合い始めて間もなく、彼があの喫茶店にいた理由を聞いた。
あの時二人で見つめた絵は、美大で共に学んだ友人が喫茶店に寄贈した作品なのだと言う。その友人は、重い病気を患っていて彼の傍らで十分に絵を描き切った後、灯を吹き消すように静かに死んでいったのだと。その際、遺品に成っても揉めるだけの、売れない絵を分散して譲ってしまったのだ。
彼の手元にも、その内の一作が遺されていた。それを彼はアパートの自室の隅の隅、闇が吹き溜まるような角に飾って、それでもいたく大切にしていた。しかし、彼が複数の意味でそれでは満足していない事が良く分かった。
第一に、もっとその友人の作品を多く手元に置いておきたいという気持ちが、日々透けて見えた。時折気まぐれを起こして私と出掛ける事になっても、決まって友人の絵の飾られている場所に足を運ぶ。そして、一時間も二時間もそこに居座って、まるで語らうように絵を見つめているのだった。
その間、彼の時間は逆行し、遥か数年前、故人との思い出の日々まで遡っている。その束の間見せる彼のまなざしから、私は目が離せない。
慈しむような、惜しむような、心から幸せそうな、だけれど決して満たされてはいない空々しい視線。うるんでいる癖に虚ろな遠さを持っているのだった。
そして第二に、彼は故人の事を強くライバル視していた。
部屋の隅に置かれた一枚の絵の事を、まるで敵でも見るようなとげとげしい目で見る。それは決まって彼が絵を描いている時で、手を休めるまにまにその激しく劣情が燃え盛る眼を友人の絵に向けるのだった。
彼にとって、人生で最も親しく、同時に疎ましい存在がその友人である事が、しんしんと痛いほどに染みてきた。そして、その蜜月に、どれだけ時間を積み重ねても私は入り込めないのが理解出来た。
だから次第に思うようになった。
自分の役割は、故人の幻から彼を解き放ってあげる事なのではないだろうかと。
彼と恋人になって三度目の春だった。数週間前から彼は、酷いスランプに悩んでいた。
そもそも画家にとって、スランプや不調と言う物は本来的に避けられないものらしい。自分と付き合い始めてから今までにも、何度も似たような顔で苦しんでいたし、何なら不調で無い日のほうが少ないくらいだというのが私から見た所感だった。そもそも自分の絵に恒久的に満足出来てしまえるなら、画家などと言う職業には就いていないだろう。
つまり彼らは、本質的に飢えているし乾いているのだ。その状態で一生を過ごし、燃え尽きて死んでいくのであろう。
それが彼にとって最も我慢ならない事であるのだろう。彼の友人は、幸福に絵を描いて幸福に死んでいったのだから。
「大丈夫?」
「…うん、なんか食いに行く?」
「いいの? 疲れてるんじゃない?」
「質問に質問で返すなっていつも言ってるでしょ…」
今日は珍しく彼のほうから食事に誘われた。しかし、決して良い状態だから機嫌を良くして、ではないのがありありと彼の虚ろなまなざしから読み取れた。彼ももがいているのが解った。どこまでも私と同じに。
もそもそと芋虫の様に緩慢な仕草で着替えを済ませる彼を待って、立地の悪い安アパートを後にした。
二人、手をつなぐでも腕を組むでもなく隣あって歩いていく。その距離も、歩幅も決して縮まらない。もどかしくてならなかった。
そして、やはりと言うべきか、今日も彼は故人の絵の飾られている例の喫茶店に足を向けるのだった。
奥まった壁に仰々しい額縁を伴って飾られたその絵は、「目立つ場所に飾りたくはないが、貰った以上無下にする訳にもいかない」という店側の事情を強烈に主張していた。そもそも店のコンセプトに沿った作品とは決して言えない。無理もない話だ、彼の友人が好き勝手描いたものがほぼランダムに贈られたのだから。店も、彼も、この世の中の全てが彼の友人の絵を持て余している。しかして故人は満足して死んだのだ。…やりきれない思いがした。
それでも陽だまりのような、温度と湿度を伴う視線を向ける彼が、たまらなく愛おしい。
「今度絵が売れたらさ」
「…何?」
「いや、今お世話になってる画商さんが、近々大きな展示に向けて新人の作品を集めてるらしいんだ。それで、俺の絵もその中に加えたいって言って下さってて」
「良い話じゃない」
「まあ。でさ、その口が上手く行ったら」
据えかねるように早口でしゃべる彼の、言いたい事の目星をなんとなくつけた。
「友達の絵を一枚でも多く買い取りたい?」
「…うん。タダ同然で譲られたものだけど、俺はちゃんと正規の値段で買い取りたいから」
「解るよ」
「それで、あいつの絵をちゃんと然るべきところに出してやりたい」
「解る。でもさ、それって君がホントにすべき事なのかな」
余りにもないがしろにされてきた時間が長すぎるからなのか、私も微かに苛立ち始めていた。
その苛立ちをぶつけた所で、彼の中での絶対的な序列が覆る筈もない。案の定彼はまた、冷たい目で私を一瞥し、頭を振った。
「あんたには解んないよ」
「解るよ」
「いや、解んない」
「解ろうとしてないのは君のほうなんじゃない?」
「…食べよう。冷める」
久々に張り詰めるようなギスギスした空気が二人の間に満ちていた。食器が触れ合う音が、やけに大きく甲高く響く。やがて食事を終え、二人、見るとは無しに壁の絵を見つめ、そしてほとんど同時に溜息を吐いた。
「俺達が喧嘩しても仕方ないな」
「そうだね。とにかく今は、スランプを抜け出す事かな」
「だな」
無理やりに笑い合い、そして淡々とアパートに帰って別れた。
別れ際、惜しむように振り返った先で、彼がぼんやりと夜空を眺めるのだった。見てはいけない姿を見た気がして、踵を返し、脚を早めた。
その翌日、酷くうなされて目覚めた。何の夢を見たか、定かには思い出せない。しかしもやもやとした胸騒ぎが喉の奥でうごめいた。簡単に歯を磨き、リップクリームとハンドバッグだけを手に家を飛び出す。ほとんど全力疾走で駅に向かい、列車の中で息を整えてまた彼の家に走った。
果たして、彼の部屋の扉を開けた矢先、カンバスの前で肢体を投げ出す彼の背の低い体が目に飛び込んできた。
「ちょっと、大丈夫!?」
「ん…あ、来たの」
「来たのじゃ無くて。どうしたの、ケガ? 熱?」
「よく分かんない、昨日眠れなくて、ずっと絵を描いてたら」
「寝不足か…」
力が抜け、へなへなと床の上に膝を付いた私を見て、彼がふっと笑う。一体何がおかしいのか、と思いはしたが、私も笑っていた。
ケタケタと情けない笑い声が重なり、部屋の油絵具臭い空気に溶けて行くのだった。
やがて、季節が夏に映ろう頃、彼の言っていた画商が協賛する展示会が開かれた。
「新鋭画家企画展」と大仰に銘打たれたそれは、開いてみると全く客が入らず、しかしそれもいつもの事だ、企画力が足りなかったのだろうと言う事で片付けられたらしい。彼にしてみれば絵が売れ、それを見て貰える機会を得ただけで十分だとの事だった。
それでも大してお金も入らなかったそうだ。買い戻せた故人の絵は、例の喫茶店の一枚だけだった。
私はほっとしていた。もうあの喫茶店に行く事はないのだと思えたから。そして、彼の生きる意味が、まだ残されているのをよく分かっていたから。
「今日も暑いね」
「アイスでも食べようよ」
「賛成。今からコンビニ行く?」
「行く」
やがてやってきた夏が、また私たちの上に降り積もって行く。こうしてカンバスに塗り重ねられる絵具のように、私達の時間の上に絵が描かれていくのだ。そして、それはきっと、完成したら美しい。
先に立って歩いていく彼が、不意に立ち止まって振り返った。つられて立ち止まる私に、照れくさそうに左手を差しだす。
右手は、まだ絵と友達だけのものなんだね。
そう思ったけど声には出さずに、差しだされた手を握り返した。
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