零時の客

 店内を心もとなく照らす蛍光灯が、さきほどからブンブンうなりを上げている。そろそろ切れる頃だろうか、新しい蛍光灯を倉庫から持ち出してこなくては。

 ふっと壁のほど高い位置に設えられている時計に目をやると、零時を少し回ったところである。

 …今日もこの時間になったか。


 蛍光灯を替えるのは先延ばしにして、カウンターに引っ込み「その客」を待った。ほどなく眠たげな音を立てて自動ドアが開閉し、大柄な人物が「ぬっ」という擬音がぴったりくる緩慢な仕草でこちらに歩み寄ってくる。


「…お決まりでしたらどうぞ」

「ん。三十二番をひと箱」

「三十二番ですね。…こちらでよろしいですか?」


 お決まりとなったやり取りを交わすと、互いにふっと笑みを漏らした。


「あと、アイスコーヒーを」

「かしこまりました」



 私がこのコンビニに店員としてバイトに入り、週五日、平日に夜勤に立つようになってから、この客は毎日途切れもせずに決まった時間に訪れては、タバコとコーヒーを買っていく。

 初めは特に気にも留めなかった。その風貌はどこにでもいる中堅サラリーマンといった風で、ことさらシャツが着崩れていたり髪が乱れていたりといっただらしなさはないが、言ってしまえば大して特徴もない。初めは顔も覚えられず、何度か応対を繰り返すうちに決まって買っていくタバコの銘柄と顔が一致しだしたくらいだった。


 ある時、寝不足らしい隈の浮いた目をした彼が、いつものタバコとアイスコーヒーではなく、酒を数本買い込んでいった。その去り際に、どうしても気になって声をかけてしまったのである。


「あの、お疲れですか?」

「ん? …ん、ああ、大事ないよ。むしろ最近手掛けてた商談がようやくまとまって、今日からしばらくは定時で帰れる」

「あ、じゃあそのお酒は…」

「一人で祝杯でも挙げようと思ってね」


 にやっと歯を見せて笑った彼に、こちらも笑顔が漏れた。

 そんな一件があってから、それとなく言葉を交わす仲になったのだった。


「ここのコーヒーは美味いね。インスタントじゃ出せない味だ」

「まあ、それと比べられてしまうと…。実際のとこドリップコーヒーとしては下の下ですよ」

「店員がそんなこと言っていいのか…?」


 今日も簡単に雑談を交わし、くっくっと人の悪い笑みを残してその人は店を出ていった。

 …今日も名前を聞けなかったな。


 自分がいつまでこの店にバイトとして入れるかわからない。シフトが変更になってしまえばもう会う事もなくなるのだろうし。

 そう思って度々連絡先を聞き出そうと勇気を奮い起こしてはみたが、それはすぐさま弱々しくしぼんで、そしていつも無難な挨拶だけを交わして見送る日々が続いていた。…きっとこのまま、何事もなく毎日過ぎて行って、そして何かのきっかけで道が分かれて、さも当然のように互いに忘れ去っていくのだ。

 そう思うとひどく寂しい気がして、この所なかなか仕事に集中できないでいた。




 その日も私は時計が深夜十一時を指す少し前にバイト先に訪れた。そのコンビニは今や全国展開している巨大なフランチャイズ店の一店舗であり、とは言えそのネットワークは規模が規模なので、個々の店舗の運営は大体が店長に任されている。そしてその店長はと言えば、偶にいるかいないか分からない存在を主張しに数十分出勤してくるだけで、特に深夜帯はほぼ自分ともう一人、先輩バイトだけで回していた。

 今日も、先輩は綺麗に結ったおさげを揺らしながら、陳列棚を見て回っているふりをして上手くサボっている。こうして要領の良い人間と悪い人間とはどんどん差がつくのだろう。


 考えるとはなしにそんなことを考えながら、時計をちらちらと見やった。あと十分ほどで零時になる。


「ねえ、今日も来るのかな、あのお客さん」


 先輩が話しかけてきた。もとより気さくな雰囲気のある人で、バイトに入った当初は話しやすくて助かったが、現在はこの女子女子した態度が少し苦手だ。


「来るんじゃないですかね。毎晩のことですし」

「あのお客さんちょっとかっこいいよね。実は狙ってるんでしょ?」

「…そういう話、当人のいないとこでするのは失礼じゃないですか」

「かったいなあ」


 しかし面白がっているだけで、毎日この時間には私と例の客がサシで会話できるよう気を使ってくれているのである。その点は確かに感謝に値すると思っていた。

 今日も先輩はけらけらと軽い笑い声を上げながら、時計が零時を差したのを見て「じゃあ表の掃除しに行くから」といってはけていった。

 その姿が自動ドアをくぐって表の闇に溶けていくのとほぼ入れ替わりに、大柄な影が入店する。


 来た。

 今日こそ、今日こそは名前と連絡先を聞くんだ。


 早鐘のように鼓動を刻み始める心臓の辺りをぎゅっと握って、その人に向かい合った、今日もいつかのように、ひどく疲れた顔をしている。


「あ、あの…」

「ん? うん、三十二番をひと箱」

「あ、はい…」


 完全に出鼻をくじかれてしまい、面食らいながらもなんとかいつものタバコを手に取って、カウンター上に差し出す。彼は見るとはなしにぼんやりとそのパッケージを見つめた。よくよく見ると、少し目が赤らんでいる。


「…徹夜ですか?」

「ああ、いや…うーん、カッコ悪いな、さっきちょっと泣いてね」

「え…何かあったんですか」

「んん、人に話すようなことじゃないんだが…まあいいか」


 スーツのポケットをまさぐって小銭を引っ張り出しながら、彼はぽつぽつと漏らした。


「母が亡くなってね。ちょっと参ってしまった。ついさっきまで通夜をやっていたんだよ」

「それは…」

「いや、すまない。気を遣わせるつもりじゃなかったんだが…」

「そんな…」


 思った以上の事態を告げられ、正直急には気持ちが追いついていかなかった。要領の悪い返事ばかりを返してしまう。

 その間にも彼はお釣りの出ない額の小銭をぱちぱちと並べると、


「じゃあ、今日はこの辺りで」


 と言って足早に去っていこうとする。

 このまま帰してしまってはいけない気がした。


「あの…っ、…これ」


 とっさに差し出したのは、制服のポケットにちょうど入れっぱなしになっていた眠気覚ましのガムだった。当然封のあけられた食べ差しである。

 何も考えずに行動に移してしまったことを、次の瞬間には後悔していた。顔が上気するのがはっきりと感じられ、ガムを差し出す手が小刻みに震える。こんな時だというのに自分は何をやっているんだ。


 逃げ出したい衝動をすんでのところで耐える私を、つかの間ぽかんと見つめた彼は、次の瞬間その大柄な背を丸めてそこにうずくまった。


「あ、あの」

「ん、いや、んん」


 双方なんとも言い難い表情をしているのが見なくとも解った。数秒間抜けな空気がその場を満たしたが、その後彼は立ち上がり、ガムを大切そうに受け取って歯を見せて笑った。その顔がかすかに赤らんでいた。


「ありがとう、助かる」

「噓でしょ…ガムの食べさしですよ」

「それ以上言わないでくれるか、また恥ずかしくなってきた」


 顔を伏せるようにしてまた笑うと、手を振って去っていく。見送る先から先輩が駆け寄ってきて、どん、と私にタックルをかました。


「なにー? いい雰囲気だったじゃん。連絡先聞いた?」

「…忘れてました」

「進捗小学生並みかよ」




 翌日、またいつものように店内の時計を見上げ、彼を待った。先輩は今日はそばで見守る事にしたらしい、在庫チェックを言い訳に良く見える場所をうろうろしている。

 自動ドアが眠たげに開き、今夜ものっそりと彼が入ってくる。


 昨日の事を思い出し、さっそく赤らむ顔を意識しながら、それでもいつものように、丁寧に口をつく。


「お決まりでしょうか」

「ん。三十二番がひと箱。あと、アイスコーヒー」

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