愛犬と少女と私

 生き物は皆いずれ死ぬ。その単純で絶対の摂理を、私たちは普段全く意識することなく生きている。今年二十四歳になる私も、もう何度か身内の死に立ち会うという経験をしてきたが、しかし自分の中で「それ」はちっとも現実感を伴わず、相変わらず私は蒙昧な生をただ謳歌していた。


 大学院まで進んだために、私は今も通いなれた院の研究室に籍を置いている。そこで懇意にしてくれている教授に、ある日脈絡もなく呼び出された。レポートの件で叱られでもするのかと身を固くして執務室に向かった私に、対面でゆったりと高そうな椅子に腰かけた教授は鷹揚に告げた。


「君に見てほしい写真があるんだがね」

「…写真、ですか?」


 思わず間抜けな返事をした私をちょっと笑って、教授は携帯の画面をこちらにかざす。

 そこには、茶色い毛の塊がその愛らしい姿を目いっぱい主張していた。


「…ワンちゃん…」

「娘が飼っている犬なんだよ。今年三歳になるんだが、可愛いだろう?」

「はあ…」


 まさかペット自慢をするためにわざわざ呼びつけたのだろうか。大学の教授などという人種は大抵変人か奇人であるし、この教授も例にもれず研究室のビーカーで茶を沸かしては客人に振る舞うような人物であった。が、今回の振る舞いはあんまりにもあんまりだ。

 そうした諸々の私の心情に気づいたのかもしれない。ちょっと申し訳なさそうな表情になった教授は、「いや、本題はね」と前置きしてその話を切り出した。


「この子が子犬を生んだらしいんだよ。元々繁殖させるつもりで飼い始めたんだが、思った以上に沢山生まれてね。引き取り先がなかなか見つからないんだ」


 愛犬が子どもを産むことを「繁殖」と表現した教授に少なからず畏れを抱いたが、要件を待つ。

 教授は急に言いづらそうに口をもごもごとさせ、言った。


「もう君くらいしかもらってくれそうな人がいないんだ。一匹、預かってくれないかね?」


 自分の権威を理解していない権力者ほど厄介なものもない。

 まさか断る訳にもいかず、ほとんどなし崩しで子犬を引き取ることに決まったのだった。




 教授の娘さんが子犬を伴って我が家にやってくる、というくだりとなり、両親は俄かに色めき立った。「教授」と「その娘」さらには「子犬」というパワーワードの連続である。特に私が可愛くて仕方ないらしい母は、わが子にとって大切な客人に粗相があってはならないと要らぬ気合を入れ、その日朝から家じゅうをくまなく掃除し始めた。


「…お母さん。そんなとこ磨いても誰も見ないよ…」

「もしもって事があるでしょ。お客様がトイレに立たれた時に、ちょっと目に触れるかもしれないじゃない」


 父は父で、滅多に客が来ない我が家に若い女性がやってくるという話にひどく狼狽した。一番いい服を引っ張り出してきてやたら綺麗に身なりを整え、客が来る予定の二時間以上前からソファの上で身を固くしている。

 コントのような様相を見せる両親に、私はかなり呆れながらいちいちツッコミを入れてやった。


 やがて予定の二時きっかりに、玄関の呼び鈴が控えめに鳴った。かくいう私も大分浮かれているらしい、バタバタと駆け足で間口に降り、戸を開く。

 そこに、小さな女の子が籠を手にしてちょこんと立っていた。


「あら…」


 私の背中越しに覗き込んだ母が、すっとんきょうな声を上げる。その中学生くらいの少女は、丁寧に頭を下げて、言った。


「いつも父がお世話になってます。今日はお招きいただきありがとうございます」


 最近の若い子は、随分しっかりしている。その子のぶら下げた籠の中から、かけられた布の隙間に顔をのぞかせた小さな小さな子犬が、キャンキャンと甲高い声で鳴いていた。




 かくして、子犬との生活が始まった。教授の娘さんが、ペットを飼うのも初めての我が家の住人向けに犬の世話のマニュアルをよこし、それをおっかなびっくりにこなす日々が幕を開けたのだった。


「まずはしつけ…」


 犬を室内で飼うときに最も重視すべきなのは、トイレの場所をしっかり教える事と、無駄吠えを辞めさせること。加えて、主従関係を理解させ、主人となった私たちに従わせることだ。


 犬とは主従関係で自分以外との関係を構築する生き物である。同じ犬たちや、人間すべてに対して事細かにランク付けを行い、自分よりランクが下だと判断した者には決して従わない。よって、この主従関係を堅固に結んでおくことが、互いのストレスを軽減することにつながる。

 ここは、甘やかしたり可哀そうだと思ってはならない、と少女からもらったマニュアルに赤線が引かれていた。


 にも拘わらず、特に生き物を飼うのが初めてらしい父が、まず子犬にメロメロになった。


「かぁわいいねえ。ん? ご飯か? ご飯がほしいのか?」


 休日、家にいるときなど、始終赤ちゃん言葉で語りかけている。結果まず子犬は父になつき始めた。しかし確実になめられているらしく、よく父の手を噛むし、父に向かって吠える。


「お父さん…いい加減にして」


 私は一計を案じた。


 父に子犬との接触をとりあえず禁じ、その間に諸々のしつけを済ませることにした。

 母は私に協力的であり、子犬が我が家に訪れる前に購入しておいた犬用のトイレマットを敷いたエリアで、その子が用を足すように繰り返し教えた。


 最初の頃こそ家中のあちこちで粗相をしていた子犬だったが、繰り返し粘り強く叱るうちに、いつの間にかちゃんとトイレで用を足すようになった。

 その頃には子犬が家に着て二週間強が経過していたが、その短い期間に、私達一家の生活はすっかりこの愛犬中心のものとなっていた。毎朝と毎夕、私が愛犬を散歩に連れて行き、家に帰ってから母が犬用のペットフードをしっかり計量して与える。父が毎度のように自分も何かやりたそうにするので、まあいいだろうと愛犬との接触を解禁し、それからは父が休日の散歩当番となった。




 それから、時折教授の娘さんが我が家に遊びに来るようになった。彼女には母犬の臭いが染みついていると見える、子犬は彼女が来ると、毎回駆け寄って行って腹を見せて転がり、なでろ、かまえ、と甘える。

 子犬を連れて現れた当初、ほとんど表情を崩すことなく、非常に冷静かつ事務的に要件を片付けていった少女だったが、子犬にかまってやっているときは柔らかい年相応の表情を見せるのだった。

 しかし我が家に来てもお茶の一杯も要求しない。大抵母親――つまり教授の奥さん――が用意したものらしい水筒と簡単な軽食を伴って現れ、我が家で子犬と過ごしながら、昼になると黙々と軽食を平らげ、やがて三時きっかりに帰っていく。


「この前頂いたお菓子があるんだけど、どう?」


 と母が訪ねても、


「おかまいなく」


 と実にクールに、簡潔に言うばかりで、私たちの手からは何も受け取ろうとしなかった。教授の娘であるだけに、日ごろ母親からの教育が徹底されているのだろう。



 子犬は、私にはなかなかなつかなかった。あれだけ毎日のように散歩に連れて行ってやっているのに、私が撫でようと近寄ると機敏な仕草で逃げていく。自分が動物に好かれないタイプの人間だとは思わなかった。

 しかし、それを繰り返されるとさすがに気持ちが腐ってくる。


「ねえ、どう思う?」


 ある日、やはり我が家に子犬の様子を見に来た少女に尋ねてみた。

 しっとりとした黒い瞳を伏せて思案した彼女は、やがてきっぱりとした口調で言う。


「わかりません。でも、そんなに心配することもないと思います」





 そうして過ぎて行ったある日、私が居間に胡坐をかいて携帯でネットニュースを流し見ていると、どこからか愛犬が現れて、恐る恐ると言った風にこちらに近づいてきた。…まだ怖がられているのか。

 せめて刺激しないように無関心を装ったが、内心ドキドキと心臓が脈打つ。

 やがて、足元までやってきた子犬は、ゆっくりと私の足の上に登り、組んだ両足の真ん中の空間にうずくまって、満足そうにあくびを漏らした。


 危うく、涙が出るところだった。


 後日、またいつもの装備で身を固めて、余所行きの上等な服に身を包んで現れた少女にそれを報告したところ、彼女は珍しくとてもおかしそうに笑い、その愛らしい笑顔をキラキラと私に向けた。


「だと思ってました。お姉さん、動物に嫌われるような人じゃないから」




 それから、私と少女、そして愛犬がともに過ごす時間が、ひどく重厚で大切なものとして積みあがっていった。

 次第に私たちの前でも笑うようになっていった少女は、夕方ごろまで我が家で粘るようになり、私と共によく子犬の散歩に出た。その際、様々な話を聞いた。


 彼女はその家柄から、学校でも浮いた存在となりそれを苦に現在は不登校となっている。しかし両親が家庭教師を雇い、むしろ勉強は学校で習う範囲よりも進んでいるとのことだった。

 加えて習い事もいくつか掛け持ちしており、実はかなり忙しい日々を送っているらしい。

 それでも母犬や子犬と過ごす時間だけはどうしても邪魔されたくない、と母親に直訴し、我が家に通うことを認めさせたそうだ。


「初めて母にわがまま言っちゃいました」


 不思議な黒に沈んだ瞳を揺らして語った少女に、私は答える。


「親なんて子どものわがまま聞くために存在してるようなもんなんだから、良いんだよ。それに、私もあなたがうちに来てくれて、すごく嬉しいよ」


 その言葉にはにかむ少女と、彼女にまとわりついて離れない子犬。


 今まで決まった恋人がいた事もなく、両親もいて当たり前の存在で人や動物に対する愛情など自覚したことがなかった。しかし、彼女と愛犬の事は、何か特別な、ひどく代え難いものとして自分の中に刻み付けられつつあった。




「…今度の夏休みだけどね」


 母が、ある日ワクワクと上気した顔をして大学から帰った私を出迎えた。また何か企んでいるらしい。思わず身構えた私に気づかず、母は早口でまくし立てる。


「みんなで旅行に行かない? ワンちゃんも、教授さんの娘さんもつれて。きっと楽しいわよ」

「…うん、いいね。良いと思う」


 普段誕生日や結婚記念日などの特別な行事となると先走って暴走する母だが、今回の計画は妙案だ。あの子も、愛犬も楽しんでくれるのではないだろうか。

 翌日、いつものように我が家に現れた少女に単刀直入に切り出すと、少女はまた黒い瞳を揺らして、もう子犬とは言えないくらいのしっかりした表情をするようになった愛犬を、じっと見つめた。


 彼女が、悩んでいるのが解った。


 少女が愛犬たちの事となると思い切った行動に出ることを知っていたが、本来彼女は人間相手になると途端に消極的になるタチなのだろう。きっと、周囲の人間たちの事を今までほとんど信頼することなく生きてきたのだ。だからこそ、動物に心を通わせて、彼らを大切な存在として守ってきたのだと思う。

 それだけに、なんとしても彼女を連れ出したかった。もっと広い世界を見せてあげられないか。愛犬と、私と一緒に。


「お母さまには私からもよく頼んでみるから。お願い、一生のお願い」

「…分かりました。よろしくお願いします」


 言葉少なに答えた彼女の瞳が、不思議な色に輝くのだった。




 そうして、私たちは一泊二日の小旅行に出かけた。犬が一緒に泊まれる宿を探して手配し、行き先を決め、なるべく余裕をもったスケジュールを組んで、当日、父の運転する車で出立する。

 小型のバンに彼女と母と愛犬と私、の三人と一匹、ほとんどすし詰め状態だったが、はしゃぐ母と慣れない環境で緊張を隠せない愛犬、それらを感情の読めない目で見つめる少女。そして、私も含め全員が、確かに気持ちを高揚させていた。


 私たちを乗せた車は、走って、走って、やがて海の見える丘にたどり着いた。


「私、海って初めて見ました」


 愛犬を抱いて丘の頂に立ち、彼女はポツリと漏らした。

 その独り言のような独白に、私は彼女を今日連れ出して良かった、と心から思った。それに賛同するように、愛犬が一声、鳴くのだった。


 それから、にぎやかに二日間が過ぎ、私達はぐったりと疲れて帰宅した。少女を迎えに現れた教授が、その顔を見てひどくびっくりしたという顔をする。そして、何度も何度も私たちに頭を下げた。


「ありがとうございました。…楽しかった」


 やはり疲れ切った様子の少女が、しかし高揚した声で言った。私は腕の中のあたたかな愛犬を、ぐっと抱きしめた。




『今、大丈夫ですか?』


 携帯から、彼女の声がする。

 あれから、十数年があっという間に過ぎた。私は大学院を出て、製薬系の企業に就職した。主に新薬の開発と商品化に取り組んでいる。与えられた仕事をこなすだけでもまあまあ忙しく、この数年ほとんど実家に帰っていなかった。自然、愛犬とも少女とも疎遠になり、しかし彼女と我が家の親交は続いていたそうで、度々母から報告のメッセージを貰う。


 その日、珍しく彼女から直接電話を貰った。十数年も経つと、さすがに少女も少女ではなくなっており、高校からまた学校にも復帰して、現在は大学を出て教職についているらしい。私のほうも、もう随分前に恋愛を経て家庭を作り、子育てもそこそこに充実した生活を送っていた。


「久しぶりだね。元気してた?」


 懐かしい彼女の声に、久しぶりにあの日々の思い出がよみがえった。彼女は「はい」と短く答えてから、少し黙って、そして切り出した。


『あの子が亡くなりました。私から伝えたくて、おばさんには黙っててもらったんです』

「…え?」

『ずいぶん前から肝機能が低下してて、餌も食べられない状態でした。苦しまないように、最期は薬で痛みを減らして、でも、自然に逝ったそうです』

「そんな。私、何も…」


 彼女が悪質な冗談を言っているのかと思った。が、彼女の性格的にそんなくだらない事はしそうにない。

 心臓を直に握りしめられているような苦痛が私を襲った。急に悪寒がして、それなのに体の表面を汗が幾筋も滑り落ちていく。


『一度、帰ってきていただけませんか? もう納骨は済んだんですが、その骨を少しお渡ししたくて』




 夫と子どもになんと言い訳したかも思い出せなかった。気が付くと有給を取って、電車に飛び乗っていた。

 やがて車窓の景色が、ひどく懐かしい色香を帯び、そして列車は軋みを上げながら故郷の駅に滑り込んだ。




「ご無沙汰してます」


 わずかに面影を残す女性が、駅の改札の前に立っていた。

 その成長した姿を見て、何もかもが事実なのだと理解してしまった。ふらふらと彼女に歩み寄り、しかし何も言えずにうなだれる。


「これ、お渡ししておきます」


 女性が、愛犬の遺灰が詰まっているのであろうブローチを差し出した。黙ってそれを受け取る。


 何かが目の淵にあふれ、やがて頬を伝って流れ落ちた。彼女も、同じように泣いていた。


 生き物は、いつか必ず死ぬ。


 だから、生きている人間が、せめて覚えておかなくちゃいけないんだ。

 彼らが、確かに生きていたことを。




 今日も、私はベッドわきのテーブルに置かれたそのチェーンを通したブローチを手にして、心の中で少し泣いてから、服の中に隠すように首にかけて仕事に出かける。

 今日も、命をつなぐために。

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