演宴
台本の、既に何十回となぞった一節を声に出して朗読する。その短い台詞が私の唇から零れて稽古場の冷え切った空気に溶けて行き、霧散するまでのわずかな響きが、私の鼓膜を、そして心臓を痛いほどに揺らした。
これは、私の儀式だ。
新しい台本を貰った時には、自分の原点であるこの稽古場に訪れて一人で台本をそらんじる事にしている。
そうして次に自分がのぞくべき世界の片鱗に触れ、その味を全身で確かめる。それは演劇に魅せられ、もはや演技と言うものに憑りつかれた私の、大切なルーティンとなっていた。
「よしよし、今日も綺麗じゃないか」
ふいに私に声を掛けてくる者があり、振り向くと、私をこの世界に引き込んだ張本人がしわだらけの顔をゆがめて老獪な笑顔をこちらに向けていた。
「おばあちゃん。病院は終わったの?」
「検査なんてそう何時間もかかりはしないさ。それよりも、愛孫の晴れ舞台だ。例え命と替えたって見過ごせやしないね」
「そんなこと言って、おばあちゃんにもしもの事があったらただ事じゃすまないでしょ。晴れ舞台って言ったってこれが初めてでもないんだし」
「おやおや」
コツコツ、と杖を鳴らして歩み寄ってきた老婆は、けばけばしい色のマニキュアが塗りたくられた指で私の顔を、それは優しく、愛おしそうに撫でる。その瞳に、目の前にいる私ではなく、在りし日の若々しい彼女自身の姿が蜃気楼のようによぎるのを確かに見たのだった。
「お前に限って”もう慣れたもの”なんて甘い考えとは無縁と思っていたがね」
「それはそう」
そして、私もまた老いぼれた彼女の姿に、自分のいつか到達すべき頂を見出していた。演劇界の至宝と言われた彼女の役作りの才と、私に引き継がれたその血統と。
「何度目でも、特別だわ。どんな役も一生に一度、その時だけにしか演じられない。だから私の人生の全てを賭けて挑むわ」
「それでいい」
老婆は上品に笑い、そして長年痛めつけたせいで節々にガタの来た体を引きずって客席のほうに引っ込む。…これ以上私の邪魔をする気はないようだった。
それに安堵しているのか、それとももっと彼女と話していたいのか。その境すら曖昧だ。
既に私は私ではない。台本を開いたときから、トランスは始まっている。
身も心もすべてを捧げて役と同化し、吸収し、吸収される。己の境目を極限までぼかして役に入り込む。それが私が彼女に教わった演技と言うものの本質だった。
「さあ、続けなさい」
彼女の厳かな一言に導かれるように、舞台から客席に半歩乗り出し、そしてまた台本の言葉をなぞる。空調すらない古い劇場の、身を切るように冴えわたった空気がのどを刺した。片手にぶら下げていた霧吹きから水分を摂り、そしてもう一言、二言、三言。
先ほどとは打って変わって険しい顔でこちらを見つめる老婆の姿が、次第にフレームアウトしていき、やがて周囲の景色が一変する。咲き誇る野薔薇。敷き詰められた石畳の上を行く豪奢な二頭立て馬車。口々にささやきを交わすきらびやかなたたずまいの貴族たち。
「完全に入っているね」
もはや魂がここにはない私を見て、老婆はかすかに笑ったらしかった。明日から通し稽古が始まる。
今回の演目は「ロミオとジュリエット」。演劇界では定番も定番、過去何万回も上演されてきた題目であるだけに、その演者は過去の演者とどうしても比べられる。それだけに今回も格式高いこの世界のサラブレットばかりがキャストに名を連ね、結果業界の注目度は否応なく引き上げられる。私にとっても今までの役とは一味も二味も違う、緊張と高揚を覚える役だ。
祖母の教えに、どんな役にも特別はなく、舐めてかかっていい役もない。ただただ全身全霊をもって演じよ、というものがあったが、それが今回の題目のせいだけでなく、私はイマイチこの役に乗り切れないでいた。
「…ちょっと、あなた馬鹿にしてんの?」
ジュリエット役に抜擢された、私の一回りは年上であろうベテラン女優が刺々しさを隠しもせずに私にキツイ目を向ける。…私の今回の役どころは「ロミオ」。そう、演劇ではよくある事だが、今回は男装して役に挑むことになる。
「全然集中できてないじゃない。台詞と台詞の間がバラバラ。まさか台本読みもしてこなかったわけ?」
「…ごめんなさい。もう一度お願いします」
「…ったく」
しかし、かくいう彼女自身も動揺を隠しきれないでいるのが、首元にじっとりと掻いた汗の跡に滲んでいた。
今回この演目を仕切ることになったのは、通例に則ってこの業界随一の演出家。ではない。
私たちが立っている舞台を観客席と言う一段低い場所から、しかし明らかに見下ろしているのは、誰あろう私の祖母だ。
今朝がた、稽古に集まった面々を前に座長が青ざめた顔で早口に述べた所によると、昨晩突然もともとオファーのあったはずの演出家の自宅を訪ねた祖母が、その演劇界での数々の特権を振りかざし、半ば威圧して今回の公演の演出の座を奪い取っていったらしい。
胸騒ぎがしてやまなかった。女優として活躍していた当時から、祖母はそりゃあ様々な無茶をやっては世間を騒がせたが、まさか今回のように演劇を根元から折るような、演劇そのものを汚すような真似は決してしなかった。
祖母にとって演者が快く役を演じられるという事が何よりも重要なことであるはずだったし、それは年老いて第一線を退いた今も変わらない。現にこの十数年間、表舞台にしがみつくこともなく、大人しく隠居していたではないか。
一体なぜ今更になって。何が祖母をそうさせる?
祖母がそこに座っているというだけで、今回役に選ばれた男優、女優たちは縮こまり、まともな演技など出来る状態ではない。それは私とてそうだった。
それでいて彼女は、そんなこと露とも知らぬとでも言うように先ほどから黙って客席の一つに陣取り、感情の読み取れないまなざしを諾諾とこちらに向けている。
「あの…先生。演出をお願いして良いですか?」
堪り兼ねたように座長が声を上げた。それに対して、ああ、とか、うん、とか曖昧な返事をした祖母は、サングラスの奥の気の入っていない目でこちらを見渡し、
「じゃあ最初から通しでやってもらおうかね。この面子ならもう全員台詞は入ってるだろう。とりあえず最初から最後まで見せておくれ」
とだけ言って、腰かけた座椅子になおも深々と背中をうずめる。却って緊張感が増すその場の空気は、張りつめて今にも割れそうだった。
そんな中で、私だけが祖母の違和感に気づいていた。
…おそらく、もう目が見えていない。
蒸し返すような熱気を帯びる舞台上とは裏腹に、いつもの彼女らしくない、生命力を感じられない祖母が、対照的に冷え切った指示を飛ばすのだった。
「おばあちゃん」
「劇場を出るまでは先生と呼びな」
その日の稽古は酷い有様のまま終わり、やがて役者たちが引き上げていった客席に、相変わらず祖母はぐったりと身を預けていた。
こんなに弱った彼女の姿を見たことなどなかった。やはり、もう祖母は。
「あっけないものさね。世界一の女優とまで言われた女も、老いには勝てないんだねえ」
「…そんなに悪いの」
「お前も気づいたろう、もうほとんど視力がないんだ。役者を見てもやれないくせに、どうしても今回の演劇に関わりたかった。もう最後なんだよ。これが、最後」
しわがれた声で語ると、大きなため息をつく。
「なあ、お前にこんなことを言う日が来るとは思わなかった。私は好き勝手やってきたし、散る時も誰の負い目にもなりたくなかった。だけど、どうしても。どうしても、これだけは」
「…何?」
「私を超える女優になってくれないか。私の名前を、お前が継いで欲しい」
絞り出すように、彼女は語る。
「私の名前だけでも、この世界に生き続けてほしいんだ」
「良いよ」
跳ねるように舞台に上がり、照明の消えたその場所から祖母を見下ろす。
「私がおばあちゃんを演じてあげる。これから、一生」
目を閉じ、うつむいた彼女は、弱々しい声で「ありがとう」と囁いた。
公演初日が始まる。
舞台の初日は、その数週間にわたる公演日程の中でもいつでも特別だ。押しかけるマスコミ、記者の数も、業界関係者の数も、また観客たちの注目度も段違いのモノとなる。
あれから祖母は、打って変わって激しく私たちに指示を飛ばした。時には恫喝寸前と言う剣幕で俳優たちをののしった。
ひたすら、ひたすら焦っているようだった。
しかしてその剣幕に推され、奮起した俳優たちによって、舞台は一定の完成度を見た。一定の、というのは少し違う。明らかに、今までのロミオとジュリエットの歴代公演の中でも最高の出来だ。
世界一の女優が、その最後の命を賭けて俳優たちを動かしているのだ。そりゃあ半端なものになるはずがなかった。
間もなく幕が上がる。既に華美な衣装を身にまとい、ごてごてと化粧で顔を作り、舞台袖から客席を見まわしていた私に、ジュリエット役の先輩女優がそっと囁く。
「正直、最高ね。私達、未だかつてないほどいい状態だわ。一時はどうなる事かと思ったけど、歴史的な公演になるわよ」
「…そうですね」
明らかに高揚した様子の先輩に応える私の声は、対照的に固い。なんだか今朝目が覚めた時から首の据わりが悪いのだ。頭の上に何か乗っているような、いや、頭の中を何かが占めて、ぐっと重くしているような違和感が始終私を支配していた。しかし、当日になって体調不良などとんでもない話だ。公演を一日二日遅らせるだけでも劇場にとって、また劇団にとっても莫大な損失になるし、第一今まで体調管理を怠ったことなどなかった。不調などではないはずだ。
「さあ、始まるわ」
先輩の一言を契機に、幕が上がった。主演である自分はすぐに出番だ。
何かが、頭の中ではじけた。
俳優たちが混乱しているのが解る。仕方ない話だ、今自分は事前に体と頭に刷り込んだ演出を、すべて無視して、まるっきり自由奔放に演じている。そうする自分を止められない、制御できない。台本通りであるはずの台詞すら新しく創造してしまう程に、何もかもがめちゃくちゃになっていく。
それでいて、観客席が熱狂に飲み込まれていくのが解った。
私のリードで、今この場で新しい演出が組み立てられ、それが演者に視線や仕草で伝わって完全に未知の演劇が生み出されていく。
「やめてくれ…」
舞台袖で老婆がうめいた。その声は、もう私には届かない。
やがて、客席からの巨大な声援によって舞台は幕を閉じた。
汗びっしょりになって舞台袖に帰っていくと、彼女がぐったりとそこにうなだれていた。
「先生」
「わかっていたさ。それが役者って生き物だ」
老婆はただそれだけを囁き、ふらふらと杖を頼りに去っていく。後ろからなだれ込んできた役者たちが、口々に今日の公演の成功を祝う声を上げる。
そのさなかに、私の心はもうなかった。
役を通じて赤の他人になる。それが役者。
私は、神様を演じられるほどの才能を今開花させたのだった。それは、かつての祖母を遥か凌ぐ力だ。
「なんなの、何なの今日のあなた。サイッコーじゃない!」
抱き着いてくる先輩女優に、私は綺麗にほほ笑んだ。神様のように完璧な笑顔で。
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