喰神

 毎日毎日、自分など誰にも必要とされていないと思い知らされる。独身で、養うべき親も早くに亡くし、兄弟もいない。親戚も不幸続きの我が家を気味悪がって立て続けに縁切りの手紙をよこした。

 要するに、天涯孤独だ。

 こうなってしまうと、学生最後の年に青春を犠牲にしてまでなんとか掴んだ一流商社の内定もかすんでしまう。


 今日も新人だからとやたら面倒な雑務を振られ、自分の本来の仕事が片付かず結果終電間際までサービス残業三昧である。かといって早く帰ったところで孤独に飯を食いながら見る価値もない動画配信をダラダラ見続けるだけなのだから、仕事でもしていたほうがまだ気がまぎれた。


 終電一本前のガラガラの電車で帰宅し、途中でコンビニに寄って売れ残りののり弁を手に取る。景気づけに酒でも買おうかと思ったが、つい昨晩酔った勢いで床板を踏み抜き、大家にひどく叱られたところだったなと思い出した。仕方がない、炭酸水で乾杯するとしよう。

 こんな遅くまで開店しているありがたい店舗を出て自宅のほうにぶらぶらと向かった。見上げた空には点々と星が散っている。…変にメランコリックな気分になる。


 しかし今日は月が出ないなと気づいたとき、我が家であるボロアパートの階段の踊り場にその少女の姿を見とめた。




「どうしたの、君。どこの家の子?」


 自分を見て明らかに警戒心を強める少女に、多少なり気を使って猫なで声で尋ねる。相変わらずきつい目でこちらをにらみ据える少女。

 しかしなんだか奇妙だ。最近七五三の撮影でもあったのだろうか、なぜかボロボロの振袖を身にまとっている。…撮影があったならボロボロというのは猶更変か。


 こんなところに座っているくらいだから、おそらくうちのアパートに部屋を借りている家族の娘さんなのだろう。もうとっくに零時を回っているし、行き掛かり上放置しても置けない。

 逡巡していると、少女が前かがみになってぐっとおなかを押さえた。


「大丈夫かい? 痛いの?」

「…おなかすいた」


 ぐうぅう、とまあデカい音を立てる。思わず吹き出すと、少女は顔を赤くして口を引き結ぶ。

 親が誰だか知らないが、こんないたいけな女の子をこんな時間に野外に空腹で放置するとは、碌なもんじゃない。


 そこで自分が小脇に抱えていたのり弁の存在を思い出した。


「これ、食う?」


 レジ袋を剥いで差し出すと、返事の代わりとでも言うようにもう一度大きな音で腹が鳴る。

 ならば仕方がない、どうせ自分は今日も食欲がなかったし、と場違いな事を考えながら、さっそく弁当を手づかみで頬張り始める少女の隣に腰掛けて、見る見るうちに腹の中に消えていく俺ののり弁をぼんやり眺めた。

 本当は家の中で食べさせてやりたいが、このご時世、こんな小さな子を部屋に連れ込んだとあってはいろいろと面倒なうわさが立ちかねない。それにこの子の両親も、この子がずっと外にいるものと思い込んでいるだろうし。


 せめてもと確保しておいた俺の炭酸水を口に運びながら、少女が振袖の上にボロボロと飯粒をこぼすのをいちいち拾って、コンビニで貰ったお手拭きの中に包んで捨ててやった。


 どうやら満足したらしく、空になった弁当の容器をそこら辺に放り出して幸せそうに息をつく。身なりから予想は出来たが、あまり裕福な家の子ではなさそうだ。容器を拾ってお手拭きと一緒にレジ袋の中に押し込みながら、今になってしげしげと少女を観察する。



 あちこちほつれて糸が飛び出している振袖。泥まみれの顔と手足に、なぜか帯の代わりに胴に結ばれている縄。見れば見るほど奇妙な子だ。

 それでいて顔立ちや仕草にはどこか品があるように感じられ、一層気味が悪かった。


「おなかいっぱい」

「ねえ、君は…」

「おじさん、ねがいごとは?」


 やけに親しげな顔でこちらを見上げてくる。


「は? 願い…?」

「なんでもかなえるよ」

「いや、いきなりなんだい。大体叶えるたって」

「わたしかみさまだから」


 やはり関わるんじゃなかった。すっかり出来上がっているタイプのお子さんだ。

 とりあえず「君が満足したならそれでいいよ」などと心にもないセリフを吐きながら部屋に退散しようとする。しかし少女は存外に強い力でこちらの腕をつかんだ。


「なんでもかなえるよ」

「…勘弁してくれ…」


 この権幕だと願い事を告げなければ帰してくれそうにない。とにかく口から出まかせでも何でもいいから願い事を言ってしまえば。


 …願い。願いか。この数年、そんなもの抱いてはいけないと思って生きてきた。俺の願いは…。


「宝くじ当てたい」


 …つまらん人間かよ。


 こちらの思惑も知らず、少女は満足げにうなずいた。まあ、この場から離れられるならもう何でもいい。さっさと踵を返して部屋に転がり込み、息をついた。全く、ついてない事のトリプルバーガーサンドって感じだ。今になって自分の腹の虫が猛烈に主張を始めたので、冷蔵庫を奥までまさぐって出てきた冷や飯と煮物の残りと漬物で細やかに夕食を摂り、その日は寝た。



 翌日、通勤電車から降りたバスターミナルの一角に、やけに目につく宝くじの販売所を見つける。

 いやいや。まさかまさか。


 しかし、少女のあまりにも満足しきった顔を見た後だからだろうか、もうひとふざけくらいしてもいいかなと言う気持ちになっており、とは言え多額の金を突っ込むのも美しくないのでスクラッチ式のすぐに当たり外れがわかるタイプのくじを一枚買ってみた。

 銀紙を小銭で剥ぐとき、不覚にも手が震える。


 果たして、その宝くじは三千円の金券にとってかわったのだった。



「おなかすいた」

「いやいやいや、色々混乱してるんだよ、一旦説明してくれよ」


 昨日より若干豪華な弁当を携えてアパートに帰りつくと、案の定例の少女がぐぅぐぅと腹を鳴らしている。あれこれ言ってもらいたい言葉が頭の中で渦を巻いたが、目の前の子どもの興味はどうも俺の手にしている弁当にしか注がれていないようで、もう仕方がないなとばかりレジ袋から幕の内弁当を取り出す。

 少女はさっそくがつがつとそれを掻き込み始めた。


 どうせこうなるだろうと思っていたので今日は自分の分の弁当も買ってある。行儀が悪いかと思ったが、少女の隣に陣取って自分もその弁当を口に運んだ。美味そうに飯を喰らう少女を見ながら自分も米を食んでいると、久しぶりにちゃんとした飯を食っているような心地がした。

 そして今日も弁当を余さず堪能し、少女はポンポンと腹づつみを打つ。


「おなかいっぱい」

「そこまでがルーティンなんですね…」

「おじさん、ねがいごとは?」




 正直、この展開になることを見越して幾通りものシミュレーションをした。きっとこれは、自分に与えられた数少ないチャンスなのだと思う。この少女…うーん、もう、ええ、神様がいつまでこの場所にいるともしれない。現れた時と同じようにすぐにどこかに去ってしまう可能性のほうがきっと高い。

 だから、最速で自分が幸せになるための願い事を、今日の業務の時間中ずっと考えていた。おかげで残業した。

 その甲斐あって答えは出た。やはり金。金だ。まとまった額の金がほしいと願えばいい。一生働かなくても遊んで暮らせるくらいの。




「ねがいごとは?」

「…また一緒に飯、食おう」


 少女は意外な事に一瞬ぽかんとした顔でこちらを仰ぎ見た。だけれど、すぐに満面の笑顔になって、手を振る。恥ずかしさを推してこちらも小さく手を振り返し、部屋に戻った。

 空を見上げると、今日も月がなかった。


 その日は、幸せな夢を見た。両親がまだ生きていて、自分と一緒に飯を食っていた。その家族団らんの場に少女もいて、まるで昔からそれが当たり前で、これからもずっとそうであるかのように幸福な時間が、そこにはあった。

 少女は飯を食いながら「美味い、美味い」と言ってボロボロ涙をこぼした。なんだかそれがとても大切な事に思えて、ああ、覚えておこう、と思った。

 なぜか、そう思ったのだ。




 翌日、会社に行くと、上を下への大騒ぎになっていた。お遊びくらいのつもりで手を出した商材が大当たりしたのだという。その担当は、自分だった。

 給料アップ間違いなし、出世確実。


 得体のしれない胸騒ぎがした。



 それから、どんなに高い弁当を買って家の周囲をうろついても、少女は現れなかった。何日も、何日も少女を探して歩いた。だけれど、どこにもいなかった。初めからそこにはいなかったように。

 家に戻って疲れと落胆からうなだれていると、とんとん、と部屋の扉がノックされた。直後、ごとん、と何かをポストに放り込む音がする。

 はっとして確認すると、少女の胴に回されていたものとそっくりな縄が、ポストに投函されていた。ようやく気付いた。これはしめ縄だ。あの子は、本当に神様だったのだ。


 しめ縄をテーブルの上に乗せて、今日も買ってきた弁当を食べ始める。涙が後から後からあふれて、それが弁当の上に滴った。弁当は、美味かった。




 それから、不思議なほどに色々な事が好転した。親戚との付き合いも復活し、社内で友人と言える人間も複数できた。なぜそうなったのかわかっているから、胸が痛かった。


 今日も月が出ないようにと祈るけれど、その願いだけはいつまでも叶わない。


ーーー

三題噺ガチャ

「階段の踊り場」

「縄」

「食べる」

より制作

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