移動要塞“ひまわり“
恋や愛なんていらない。私には本があるから。
活字はいつも私を裏切らなかった。人間のように出来心で嘘をついたりしないし、こちらが上手く返事を返せなくても怒り出す事もない。急に無遠慮に体に触れてきたり、意味もなく怒鳴ることもない。
私にとっては一緒にいて最も心地の良いパートナーが本であり、本棚と活字に囲まれていれば他に何も必要なかった。
文学部から大学院を経て、大手出版社に就職したが、そこで待っていたものは私の理想をことごとく裏切る現実だった。本を商売の種としか思っていない俗物たち。
日常的にこんなに素晴らしい神の英知に触れていながら、やれ流行がどうの流通がどうの、有名作家の原稿がどうのと活字にランクをつける。許されざることだと思った。
神経をすり減らして二年もたたずに会社を辞め、さてどうするかと思い詰めた時に、自分を慰めてくれたのはやっぱり本だった。だから、なんとか私の大好きな友人である本達を、大切に扱う仕事に就きたかった。
そんな時出版社の知り合いの伝手で、移動書店をやってみないかと勧められたのである。
そうしてあれよあれよという間に準備は整い――実際には上を下への大騒ぎがあったのだが――私の現在の職場、「移動要塞”ひまわり”」が完成した。
「新作入りましたか?」
今日も、”ひまわり”に本を乗せて住宅街の中心部辺りにある公園に訪れていた。
潜在的に活字に飢えている人間がことのほか多くいるのだと、この仕事を始めてからよくよく知ることになる。どこの町に行っても大抵分厚い便底眼鏡をかけた男性女性に得意客が出来たし、彼らと本について語らう時間は満ち足りていて幸せだった。
「新作はね…M先生の新刊が出てますね。今回は恋愛小説に挑戦したらしくて」
「ほんとですか、読みたい! 新機軸じゃないですかー」
Mという人物は、本名も書影も明かしていない、イマドキ珍しくない覆面作家であり、何かのイニシャルなのであろう「M」という一文字をペンネームにして活動している。若い女性中心に莫大な人気のある傾向の小説作品を多数執筆しており、このお客さんも例にもれずM先生の大ファンなのだった。
「最近夫が仕事忙しくてあまり構ってくれなくて…M先生の小説が唯一の楽しみなんですよー」
「本は裏切りませんよねえ。他にも何冊か見繕いましょうか?」
「あ、イイんですか、お願いします」
「この先生とこの先生の作品と…あと、この雑誌の今週の文学評論がなかなか面白くて。お勧めです」
「全部買いますー! ひまわりさんのお勧めは間違いないですもん」
このお客さんも含め、私を慕ってくれる人の多くはこちらの事を「ひまわりさん」と呼ぶ。私には非常にかしこまった、四角四面な本名があるのだが、自分でもその本名と己の雰囲気が合致していないのを感じていた。だから、彼らに名乗る時も常に「”ひまわり”の店長」としてきたのだった。
いつからか「ひまわりさん」が通称となり、私はようやく愚鈍で人間関係の構築が苦手な「私」ではない、新しい誰かに成れた気がしていた。
「あっ、ひまわりさん、おばさんも! こんにちはー!」
お客さんとの雑談に興じていると、遠くから大声で私を呼ぶ者がある。そちらにややあって目をやると、最近お得意様になりつつある見た目中学生くらいの男の子がこちらに向かってぶんぶん手を振っていた。
「タケル君、こんにちは。今日も学校はサボり?」
奥さんがはにかみながら声をかける。駆け足でこちらに走ってきたその男の子は、ガシガシと頭を掻いてその言葉を肯定すると、真っ白な歯をむいてニッと笑った。こんにちは、と遅れて私も挨拶を返す。
この子を見ていると、明らかに野球やサッカーにでもいそしんでいそうな、スポーツ少年らしき雰囲気を感じるのだが、本が好きらしく二か月ほど前から私がこの住宅街に来るたびに足蹴く通い詰めてくれている。今日もタケル君はポケットの中からしわくちゃになった紙幣を数枚取り出すと、
「ひまわりさん、今日のお勧めはどれですか?」
と子ども特有のキラキラ光る目をこちらに向けた。
「そうだねえ。この前買ってくれた作品はもう読んだの?」
「うん。全部ガチ面白かった。あのホラーと推理小説が融合した奴が特に良かったです」
「そっか、あの先生の旧作あるから読んでみる? ちょっと傾向は違うけど面白いよ」
学生らしき身分でありながら学校に行かず本ばかり読んでいるこの子にも、何らかの事情があるのだろう。きっと私と同じ、本に救われているクチだと思っていた。だから私も、ここの常連さん達も彼を一人前の人間として扱う。自分たちの同志だと理解しているから。
「じゃあ私はお先に。ひまわりさん、次はいつここに来ます?」
「また一週間後には。面白そうな本仕入れておきますね」
「ありがとう。じゃあね、タケル君」
「さよならー」
奥さんがぺこぺことサンダルを鳴らしながら離れていくと、タケル君はいつも通り気おくれしたようにもじもじする。この男の子が自分にほのかな恋心らしきものを抱いている事を、ぼんやりと察知していた。
とはいっても、この子くらいの歳ごろの男の子は大体が身近な年上の女性に憧れるものだし、彼の恋心も思春期にひく風邪のようなものだと思っている。
「今日はM先生は大学?」
周りにタケル君と私しかいない事を確認してからいつもの話題を振ると、タケル君はふっと大人びた表情を見せる。
「うん。あの人最近彼氏できたらしくてさ。大学の先輩だって」
「あらあら。だから恋愛小説なんて書かれたのかしら」
「だね、経験してない事は書けないっていつも言ってるもん」
ラブラブなんだよ。そう訳知り顔でいう彼に、吹き出しそうになるのをなんとか耐えた。先ほどのお客さんが大ファンのM先生は本名を「マドカ」さんと言い、このタケルくんの異母姉らしい。紆余曲折あって一緒にくらしているのだと折を見て聞き出した。
タケル君伝手に効くM先生の印象は、大層な変わり者。
いつかお会いしたいと思っていたが、なんとなくそれを言い出しそびれており、タケル君も人気作家である姉にあまり興味もないらしい。
…彼女の作る作品の事は高く評価しているらしかったが。
ここまでの話はもちろん公には内緒、タケル君と私の秘密と言う奴である。
「その内お父さんにご挨拶に来られるんじゃない? 先生の彼氏さん」
「げろげろー。絶対その場にいたくない」
大人ぶっているつもりらしいが年相応の物言いをするこの子の事が、愛らしかった。その日も適当に雑談を交わして、その後やってきた他のお客さんの対応もこなし、夕方になったので切り上げることにする。
現在のところ大幅に黒字が出るほどの売り上げはない。それでも最低限の生活が出来る額を稼げてはいるし、何よりも自分が本に直接関わっているという満足感が私を満たしていた。常連さん達と関係を築くのもとても楽しい。
彼らとは「活字」という共通言語で繋がっている気がした。
自ら運転席の狭いシートに身をうずめ、それでももう慣れたもので、悠々と”ひまわり”を走らせて自宅に戻る。この移動要塞を駐車しておくために、自宅の近くのそれなりにセキュリティのちゃんとした車庫を借りていた。そこから自宅に向かって、徒歩五、六分の距離をぺたぺたと歩く。
今日も心地よい疲れが体に降りてきて、その日もよく眠ったのだった。
実は、「移動要塞」と言い出したのは誰あろうタケル君である。知り合った当初、彼は移動書店などみたことがなかったらしく、後部座席をごっそり切り取って備え付けられた本棚のスペースを目を輝かせて見つめ、「移動要塞みたい、いやこれ移動要塞だよ」などと何度も連呼した。
それを面白がったほかのお客さんが、誰とはなしに「移動要塞”ひまわり”」という名でこのワゴンを呼ぶようになったのだった。
だから、私にとってはタケル君は、他のお客さんより少しだけ特別だった。なにせわが書店の名付け親だ。
彼の純粋な感性に触れるのが、今や楽しみで仕方ない。
一週間後、約束通り再びその住宅街を訪れると、さっそくと言うように例のお客さんが突進してくる。
「M先生の恋愛小説読みましたー! もう、最の高。ヤバい。天才か…?」
「良かったですー」
早口で感想をまくし立てるお客さんを相手していると、遠くの路地からこちらに向かってくる見慣れた人影が視界に入った。
「あっ、タケル君」
「え? あ、ほんとだ。なんだか元気ないですね…? いつもならあの距離までくるとこっちまで聞こえる声で挨拶してくれるのに」
彼女の言うように、その子は明らかにうなだれながらとぼとぼとこちらに向かってくる。彼のこんな様子は見たことがない。
「タケル君、こんにちは」
「こんにちは…」
こちらの挨拶に答える声にも覇気がない。タケル君はちらちらと隣のお客さんの様子をうかがいながら、何かいいたげにしている。それを察したお客さんが手を振って掃けていき、その場に私とタケル君、そして”ひまわり”が残された。
「あの…」
意を決したようにタケル君が切り出す。
「僕を雇ってくれませんか」
「雇う…?」
「うん。ダメですか」
「いや待って、雇うって”ひまわり”の店員としてって事?」
「そう」
「いや、うーん…」
無知な私とて労働基準法の存在を認知している。十五歳以下の少年を賃金を肩に働かせることは基本として認められていない。
…とはいえ、そういう事ではないのだろう。何か事情があるんだ。
「とりあえず何があったか話してくれない?」
「うーん…マドカがさ」
「ん? M先生?」
「うん。僕のこと馬鹿にするんだ。学校行かないとまともな大人になれないとか、このままでいいはずないとか」
「ああ、そっかあ…」
「だから、働いてジリツしようと思って」
相変わらず歳の割に妙に幼い思考をする子だ。しかし、ここで彼に請われることには深い意味があるような気がした。大人にしか分からない現実とやらを説いて諦めさせることは簡単だが、しかし本当にそれでいいのか。
「うん…そうだね。だったら、今日一日手伝ってみる? 一日アルバイト、みたいな。お給料は出せないけど本一冊現物支給するよ」
「いいの?」
ぱっと明るい顔になる彼に、心からホッとする。タケルくんはこうじゃなきゃいけない。
「じゃあ、制服の代わりでもないけどエプロンのスペア出すね。あと、本を扱うときは手を綺麗に洗って、爪は短く整える事」
「あっ、僕爪伸びてる…」
「うん、切ってあげるよ」
言ってしまってから、これはちょっとまずいか、と思い直した。しかし当の本人は、本屋の一日店員に浮かれすぎているようで憧れのお姉さんに手を取って爪を切ってもらう実感がわいていないらしい。
まあいいか。
いつもエプロンのポケットに常備する事にしている爪切りを取り出して、タケル君の右手をとった。パチン、パチン、と音を鳴らしながら爪を整えていく。
ああ、これは…。
恋愛対象としてみているわけでなくとも、妙にドキドキする。
ようやく実感がわいてきたらしいタケル君と私、二人で神妙な顔をして爪切りの音を聞いた。
「右手はおっけー。次左手」
「はい…」
パチン。パチン。
互いに目が合わないように苦慮しながら、私たちは向かい合う。
「よし、じゃあ手伝ってもらうね」
「はい!」
爪切りが終わってほっと息をつく男の子の前で、私は彼以上に大きく息をつきそうになるのをなんとか耐えた。
それから何人か常連さんが”ひまわり”の周りに集まってきて、彼らといつもと同じように世間話を交わしつつタケル君に指示を出してワゴン周りの雑用をこなしてもらう。
お客さんの発注があった本を本棚から出して貰ったり、お客さんに振舞う事にしている麦茶を注いでもらったりといった簡単な手伝いだったが、おそらく働くという事が初めてであろうその男の子は汗びっしょりになり、くるくるとめまぐるしくその場で舞った。
やがてその日も暮れ始め、私はパンパン、と手を打つ。
「じゃあ今日はここまで。お手伝いありがとね」
「お、お疲れ様でした…」
「うん。大変だったでしょ。麦茶一杯飲んでいきなよ」
ボトルから紙コップに注いだ麦茶を、彼は一息で飲み干し、先ほど以上に大きく息を吐いた。
「タケル!」
か細い声に振り返ってみると、向こうの路地から華奢な女性がこちらに向かってかけてくる。
「あっ、マドカ…」
「えっ。M先生?」
突然の邂逅に準備をする間もなく、マドカさんは目の前にやってくるとぎゅっとタケル君を抱きしめる。
「帰り遅いと思ったら…何してるの」
「ああ、申し訳ありません、タケル君にうちの仕事を手伝ってもらってたんです」
「手伝い…? タケルが?」
晴天の霹靂と言う奴だ、ぽかんと口を開ける。
「仕事をしてお姉さんに認めてもらいたかったんだそうで」
「…そんな事…。…すみません、ご迷惑じゃなかったですか」
「いえいえ、とても助かりました。いい働きっぷりでしたよ」
にっこり笑って見せると、マドカさんも曖昧な笑顔を見せる。そしてぽんぽん、とタケル君の頭に手をやり、帰宅を促す。何を考えているのか、その男の子は堅い顔で頷いた。
「じゃあ、タケル君、またね」
こちらから声をかけると、遠ざかっていく足を一瞬だけ停めて手を振る。
…男の子だなあ。
姉弟を見送って、タケル君の手を取った自分の左手にわずか残った熱を、そっと握って確かめた。
人間も捨てたもんじゃないかもしれない。
手を握れば、温かいから。
”ひまわり”に乗って自宅までの道を走らせる。私まで少し大人になったような心地がした。
ーーー
三題噺ガチャ
「移動要塞」
「爪切り」
「請われる」
より制作。
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