咎人の談

「海で死にたいな。こんなからっからの陸地で、血が繋がってるだけの他人と一緒に地中に埋められるなんて御免だ」


 彼は、生前よくそんなことを言っていた。

 冗談交じりの言葉ではあったし、そもそもサーファーでも漁師でもなかった彼が海に掛けた思いなど大したものではなかったと思う。ただ、彼との数少ない思い出にすがるしかない私にとって、彼がこぼした言葉の一つ一つ、その記憶から消えようとしている小さくて些細な思い出たちを、腕の中にかき集めて残しておかなければいられなかった。


 彼が死んだ翌日、葬儀はしめやかに執り行われて、身内だけが出席した細やかな故人を偲ぶその催しは、何の盛り上がりもなくあっけなく終わった。


 故人の死体が大層な棺に入れられて火葬場へと運ばれて行くさ中、私の胸の中に件の彼の言葉が蘇ったというわけだ。

 そうなるともう気もそぞろで、灰になり、ただの白い点々とした塊になった彼を長い箸で一つ一つ拾っていく遺族に交じって、ごく自然な動きを取り繕って遺灰の塊の内一つを黒衣のポケットに忍ばせた。


 心臓が大きく脈打ち、今にも手を取られて「なんてことをするんだ」とののしられるのではないかと身構えるが、しかし存外こんな時の他人の仕草に気を払っている者などいないようで、その恋人――元恋人の一部はパンツのポケットの中でわずかに温かかった。


「これが最後のお別れになります」


 そんなことを葬儀屋の人間であるらしきおじさんが宣い、その集まりは静かに解散した。




『どうだった? 気持ちの整理は出来た?』


 その晩、彼との共通の知人と通話していると、そんなことを言われた。

 彼と恋人という関係になるまでは、よく男女混じりあったグループで遊びに出た間柄の一人だ。無論彼の葬式にも出たがったのだが、彼の家族が「葬式は家族のみで」の一点張りで、恋人だった私もかなり邪険に扱われた。

 彼らの周囲の人たちが、「そんな可哀そうな事を言わないで」とどうにか彼ら――主に彼の年老いた母親――を宥め、私の葬儀への参加を渋々認めさせたのである。


「気持ちね…うん、とりあえず区切りはついたかな」

『まあそんなにすぐには切り替えられないよね。あなた達、仲良かったし』


 他人行儀の彼女の言葉が、今だけは心地よく感じられる。

 こういった極限の状況において、いつもと変わらず淡々と接してくれる身近な人間というものは貴重だ。事情を全て知ったうえでこちらの人格を尊重し、ただ傍にいてくれる。

 …そう、その役目に当たってくれたのは、今までは彼だった。そして、彼はもういない。


『明日も仕事なんでしょ? 休めばいいのに』

「さすがにそうしようと思ったんだけど、二日も連続で休暇取ると今の時期厳しいから」

『責任感が強いなあ。じゃあ、せめてもう寝な』

「ありがと、そうする」


 通話を切り、テーブルの上に点々と並んだ空のビールの空き缶を屑籠に放り込んで、布団にもぐり込む。


 ハンガーにかけた喪服のポケットに、あの遺灰は入ったままだ。

 今になって自分のしたことの重大さが身に染みてきて、正直今日は眠れそうにない。


 悶々と壁のシミの形をなぞっていたが、しかし疲れていたようでいつの間にか眠りに落ちていた。




『海は良いよな』


 いつものごとくしみじみと呟く彼の横顔が見える。

 すぐに夢だと気づいたが、そのまま端正なその横顔を見つめ続けた。


『海の近い街で育つとさ、どんな時も波の寄せて帰すのを見ていると気持ちが安らぐんだ』

「なんとなくわかる」

『うん。だから…』


 そうしてまたあのセリフを呟いた彼の声を、耳に焼き付けるように、脳に刻むように、ただただ覚えていたかった。




 だけれど、翌日目が覚めると結局彼の声もその言葉も、思い出の中の一部でしかなくなっていて、私は初めて少し泣いた。忘れるという事がこんなに悲しい事だとは思わなかった。


 そうして、喪服のポケットから遺灰を取り出して、崩れないように丁寧にハンカチに包み、仕事の鞄の中に潜りこませた。




 仕事中は大して気が散る事もなく、ほとんどいつも通りの仕上がりで事情を知る上司や同僚に逆に心配の眼を向けられたが、とにかく笑って乗り切って、そして今列車に揺られている。

 ごとんごとんと不規則に上下する車体に身を任せていると、さすがにこの数日の慌ただしさから疲れが押し寄せて、しかしなんとか眠気をこらえ、彼の遺灰の入った鞄を撫でる。


 やがて列車は海沿いの無人駅に滑り込んだ。

 これが終電だが、まあ帰りはタクシーを拾おう。


 真っ暗な、何もかも飲み込んでしまいそうな漆黒の海に伸びる波止場に降り立ち、コツコツと靴を鳴らしながらコンクリートの足場の先端に向かう。



 昨日少しだけパソコンで調べたところによると、遺灰を勝手に持ち出したりそれを野山に放つ事は死体遺棄という罪に当たるそうだ。昨今、遺灰を海や空に撒く、という葬儀とセットになったサービスもあるそうだが、それはあくまで法で許された範囲で、という事らしい。


 つまり、私が今犯している事は、立派な犯罪である。

 そう考えると却って胸が透いた。




 私が彼にしてやれることはこれが最後。だから、その罪とともに生きていこう。



 波止場の先端に立ち、鞄をまさぐって遺灰を包んだハンカチを取り出し、開いて、真っ白い灰の塊になったそれを手の平の上で転がす。

 おもむろに手を握って力を込めた。脆いそれはぼろぼろと崩れ、本当にただの灰の粉になってしまう。


「さよなら」


 灰を持った手を海の上で広げる。


 海風に吹かれて微かに白く灰が空に広がり、沖に向かって海に吸い込まれて行った。


「…さよなら」


 もう一度だけ呟いて、手に残った粉を払い、背を向ける。


 私がやがて死ぬその時まで、お別れ。

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