魔法の手

 祖父の手は、魔法の手であった。少なくとも祖父の生きていた当時まだ小学生であった自分には、その手は魔術か幻術のように常世ならざるものを生み出す手に見えた。

 自分がバタバタと物音を立てながらアトリエに入って行くと、祖父はいつも一抱え以上はありそうなカンバスに黙って向き合っていて、魔法の手にも服にも、顔や髪にまで絵具が跳ねて、祖父自身をおとぎの国の住人のように艶やかな物に見せていた。そう、祖父は生涯を通して画家であった。祖父を人に語る時、自分はいつも彼が遺したおびただしい数の絵画の解説から入る。祖父と言う人を解ってもらうには、それが一番適当だと思えたからだ。


 祖父は、滅多に風呂に入らず、トイレもアトリエに敷設された小屋で足し、また食事の時もそこから離れる事はなかった。ゆえに祖父の時間はほぼ九割以上が、その部屋に濃縮されていた。

 自分と同じように祖父を見て育った父が、「あの変わり者は、アトリエに根っこでも張っているんだろうよ」などと言って温かく笑うのを何度も聴いた。その時傍に母が居ると、決まって「お義父様はまさに大樹ですわね」などと巧い事を言って、その場の空気を一層柔らかくした。父と母が穏やかで壮健な精神の持ち主であったことは無論大きい。それでいて本質は、祖父の持つ、賢者のような、大気そのものを纏う偉大な空のような、或いは古道具屋の倉庫で余生を過ごす柱時計のような、物静かなようで苛烈な人間性がもたらす、周囲の人間からの深い畏敬であった。

 自分が物心ついた時から、わが家には祖父の絵を求めて多くの画商が訪れた。

 彼らは一様に、祖父の後ろの一歩引いた位置に立ち止まって、飽きもせず祖父の手元を何時間でも眺めていた。祖父は祖父で、そんな客人たちに対して一切気を払う事も無く、ただ黙々と筆を動かしていた。彼らの間には、絵具と筆とカンバスの布地の生み出す独自の言語が、とつとつと歌を歌っているのだった。


 祖父の絵の売れ行きは、実はさほど芳しくなかったらしい。特定の数人の画商に気に入られ、得意先に成って貰ってはいたが、祖父自身が絵具が買い足せる程度の額で売れればいいと考えていたそうで、ほぼ二束三文の値段で絵を譲っていたと言う。祖父はもうとうに隠居していたが、昔は祖母の稼ぎを宛てにして暮らしていたらしい。その祖母も、この世を発つ直前まで「彼には思いっきり絵を描かせてあげて欲しい」と繰り返し周囲に念を押していたから、本当に祖父の全ては絵であり、絵が祖父の全てであった。



「じいちゃんの所行ってくる」


 それが自分の、毎日朝食を平らげてすぐ口を突く決まり文句となっていた。


「じいさんの邪魔するんじゃないぞ」


 父が関心があるのかないのかそんな事を言い、自分はそれに頷くやいなや駈け出そうとする。それを引きとめて、


「これ、おじいちゃんの朝食も持って行って」


 と母から言伝を頼まれるまでが一連のルーティンなのであった。


 母から持たされる朝食も、毎回決まっていた。はちみつをたっぷり塗りこんだカリカリのトーストと、サラダが一皿。自分も幼いながらにその決まりきった役目に誇りを持っていたらしく、アトリエに入って行って祖父がこちらをちらりと見て、


「おお、いつも済まんな、坊」


 ともごもごと口の中で言うたびに、心臓の辺りが温かくなるのを感じた。転んだりしないよう慎重な足取りで小机に近づき、荷物をとりあえずそこに置くと、自分も客人たちに倣って祖父の後ろ、一歩引いた位置に位を構える。

 それからは、祖父も自分も一言すら声を発さず、時折祖父が腰を伸ばしながらトーストにサラダの野菜を挟んで摘まむ以外は、延々絵を描き、それを眺め続けた。



 祖父のカンバスは、新しい物が滅多に手に入らない為に、大抵が誰か他の画家の描いた習作をまず表面に湛えていた。祖父はその絵を慈しむように心から名残を惜しむように撫で、そして「済まないな」と自分に向かって言うのとはまた違ったトーンで言いながら、ペインティングナイフで下地を作って行く。そしてその上から、とん、とん、と木槌を振り下ろすように一定の速度で筆を置いて行く。祖父の得意とする「点描」という描法であった。

 それらは一見して全く意味も法則性も無い只の水玉のように見えた。それが、祖父が何度も何度も、何時間も掛けて筆を動かし続けるうちに、急に一つの風景が、水底から浮上するように浮かび上がってくるのだ。その瞬間が見たくて、自分は飽きもせずに祖父のアトリエを訪れていたのだった。


 そして、絵が完成したら父にそれを報告しに行く所までが、まだ小さかった自分の大切な役目であった。



 ある日、祖父の朝食を携えて家の庭に出ると、秋の空は高く、空気は澄み、微かに冬の気配を纏って肌を冷たく刺した。この所夜寝るにも毛布一枚では足りなくなった。また寒い季節が来るのだろう。

 祖父は冬をとにかく嫌う。歳を取って寒さが腰や間接に来るようになったうえに、冬は空気が乾燥していて絵具の乾く速度が日ごとに違うのだ。そんな時には、あの聡明な祖父ですら、ぶつぶつと小言を漏らしながら筆を動かした。自分にとってはそんな祖父も決して嫌うべきものではなく、むしろコミカルで一層親しみやすいものなのだが。

 庭具がそのまま置かれた小さな庭園を横切って行くと、少し前方に小屋が現れる。母屋とは別棟として建てた、祖父のアトリエである。


 それを確認したとき、ふいに強い風が吹いて、自分はふわりと宙に数ミリほど吹き上げられた。昔から小柄なほうであったから。しかしやらかしてしまった。風が通り過ぎた時、自分の手に祖父のトーストを入れた籠が無い事に気づく。

 慌てて周囲を見回すと、それはまだ何の芽も出ていない花壇の上で無様に土を被って転がっていた。


 やってしまった、という以上に、何かざわざわとした不吉な予感を感じた。特に説明はできない、しかし、とっさに駈け出して祖父のアトリエの扉を開く。



 中には、祖父がいつも通り椅子に腰かけ、目の前のカンバスと向かい合っている。

 いや、いつもと違う。自分が入って行ってもこちらに顔を向けもしない。


 ヒヤッとしたものが背中を降りて行く感覚に震えながら、近づくと、祖父の筆を持った手がいつものように動いておらず、だらりと床の上にたらされているのが目に入った。


「じいちゃん…?」


 その声に、祖父の背中がぴくっと痙攣する。


「坊…か…」


 正す必要すらない程に苦しそうな息を吐きながら、祖父が最期の言葉を絞り出す。


「この…絵は、坊に…」


 そこからはもう声にならず、祖父の背中の曲がった体が椅子の上から崩れ落ちた。



 あっけないものであった。それから急いで両親の元に走り、医者を呼んだが、病院に担ぎ込まれる間もなく祖父は命を散らした。筆を持ったまま逝くというその死にざまは、こう言ってはなんだが非常に祖父らしかった。本人もそれ以外の最期を予期してすらいなかっただろう。

 だから、皆が納得ずくで祖父を看取った。葬式も告別式も何もかもあっという間に終わり、後には祖父のアトリエと、そこに残された数点の絵だけがあった。


 告別式の終わった夜、父は、珍しく酒を飲んで悪酔いしていた。母はあいさつ回りに出ており、自分は心もとなく父の座る机の隣に腰かけていた。


「じいさんは最期に何か言ったか…?」


 絞り出すように父が言葉を発する。それがジンジンと胸に染みてきて、痛いくらいだった。


「言ってたよ。この絵は坊に…とか」

「…そうか」


 父はぐいっと酒瓶から直接酒を煽ると、立ち上がる。つられて自分もなんとなく椅子から背を離した。


「あの変わり者は、最期に何を遺して行ったんだろうな」


 まるで誰に聞かせるでも無く呟くように父は言い、酒瓶をどん、と机に置いてから千鳥足で外に向かっていく。いざなわれるようにあとに続いた自分が目にしたのは、父が何気なく手にしたマッチであった。


「だめ、だめだよ」

「…く」


 まとわりつく自分を引きずるようにぐいぐいと進んでいく父の、意外なほどに力強い歩みを、それでも止めなければと思った。


「僕が貰ったんだ、だから僕のものだよ」


 雷に打たれたように父は、その言葉に直立し、そしてほどなくマッチを放り出してその場にうずくまった。


「そうだな、俺が貰っても仕方ないしな…」


 情けなく、夜は更けていく。



 あくる朝、自分はようやく祖父が自分に遺した最後の一枚の前に立っていた。昨日までは改めて見る時間が無かったので気付かなかったが、絵は八割出来上がっているように見えた。


 それは、どこともしれない異国の庭園の絵であった。

 南国を模した庭園なのだろうか、極彩色の草花が生い茂るその庭園には、一人の老人がベンチに腰かけている。老人の隣にぼんやりとした小さな影が描かれていた。なぜだか祖父の意図した事が全て解った。

 祖父がそこからいなくなってからそのまま置かれていた筆を手にし、祖父がそうしていたようにカンバスの前に腰かける。パレットを広げると、そこから絵具をとってとん、とん、と一定のスピードで影の上に置いて行く。


 気が付くと暖炉もないアトリエの中は酷く冷え込んでいた。明り取りの窓に、傾いた西日が差し部屋をぼんやりと赤く染めている。


 老人の隣に、不格好な少年が笑っていた。

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