借り染め

 人生、どこまで登り詰めようと転落するのは一瞬である。

 渡米した先で有名なアートスクールを華々しい成績で卒業して帰国し、国内では並ぶ者のないほどの地位を得てきた。個展を開けば来場者数数十万人、もちろん国内外からの評価はうなぎ上りで、オークションに掛けられた俺の絵画には数千万円の値が付く。


 そんな一般人がおよそ体験する事のない頂きに立った。

 それでも尚、俺は満たされなかったのだ。


 そうしてつい魔が差して、他人の作品のアイディアを盗んでしまったのである。



 世間からの評価は以降ガラッと変わり、彼はアートの真似事をしていただけのペテン師である、と方々の紙面やネットニュースに書き立てられた。

 人気絶頂の作家の盗作疑惑なんてセンセーショナルにもほどがあるもので、日頃絵画や美術というモノに触れない層にまでこの事件は知れ渡り、結果オレに慰謝料を請求する裁判を皮切りにいくつもの訴えを受けて、築き上げた財産は瞬く間に吹っ飛んだ。


 残ったのは、もう一銭の価値もなく、むしろ汚名がこびりついたおびただしい数の絵画達と、もはや振るう場所もどこにもなくなってしまった己の利き腕。



 今日も俺は、己のしたことの後悔と恥辱にまみれながら路地裏をはい回り、他人の残飯を漁っていた。



「おや、そこで何をしているんです」


 相変わらず昼飯を買う金すらなく、レストラン裏の路地で生ごみの籠を漁っていた俺に、それは呼びかけてきた。逃げる準備をしながら振り返った先、路地の入口には、いかにも高そうなブランドのコートと帽子、革靴を身にまとった男が鋭い眼光をこちらに向けている。


「なんでもねえよっ」


 ここの生ごみをいつもあてにしていた俺は、食い扶持を失った怒りから乱暴に吐き捨てた。汚れた指をボロボロのジーンズのポケットに突っ込み、背を向ける。

 その俺の腕を、男はがっしと掴んだ。


「待ちなさい。あなたの顔、見覚えがあります。海外にも名の知れた画家では?」

「人違いだっ」

「いいや、間違いない。あなたの作品を幾つか所蔵している。なぜこんなところに」

「ちっ、知らねえのかよ…」


 この所の不遇――何もかも自分のせいだが――のおかげで大層怒髪天に陥っていた俺は、その老紳士に今までのいきさつとどうしようもない胸の内を洗いざらい吐き出してしまった。話すうちに次第に息は荒くなり、頭が沸騰し、しかし語り終わる頃には涙が目に滲んでいた。

 …そりゃあ、こんな生活したくはないさ。だけれどこれがアートの神に唾を吐いた人間への、真っ当な罰ってもんだ。何もかも終わった、仕方がないんだよ。


「そうですか…」


 自ら首を突っ込んだ割に、男は俺を咎める気も責める気もなさそうだった。数秒思案したのち、ぱん、と手を打って言う。


「では、私があなたの残りの人生を買います」

「はあ…? 買うってなんだ、俺を召使にでもするのか」

「いえ、あなたのパトロンになりたい。あなたの腕のほどは私がよく知っています。私の支援の下で絵を描きなさい」

「そんな…俺なんかが絵なんて、もう…」


 老紳士はギラギラと漆黒に輝く目に俺を映し、両手で俺の右腕を握りしめる。


「あなたの才能は素晴らしい。私があなたを生き返らせてみせる」




 そこまで言われてしまうとなし崩しだった。そのままあれよあれよという間に街で一番高いタワーマンションの一室に連れていかれ、ぼろぼろの服を剥いで風呂に突っ込まれた。

 久しぶりに湯船いっぱいの湯で体を清めていると、今までの事が走馬灯のように頭をよぎった。


 …ひとりが許してくれたところで、世間は俺を忘れないだろう。一度盗作を犯した画家が再起する事など不可能だ。それ以降の作品にも、永久に「これも盗作なんじゃないか」という目が向けられ続ける。

 ならば、もう描く事など。


「さっぱりしましたか」


 風呂から上がり、脱衣所に用意されていたガウンを羽織ってぺたぺたと部屋に出ていくと、多少ゆったりした格好に着替えてきたらしい老紳士が笑顔で出迎える。

 俺はこんな待遇を受けるに値する人間ではない。そんな人の善い笑みを向けないでくれ。


「…あんた、何を企んでるんだ。俺をどうしようってんだ」

「なんとも。私はただただあなたに絵を描いていただきたいだけです」

「俺の絵なんてもう一銭の価値もないぜ」

「構いません、世間の尺度など。私にとってあなたの絵はいつでもとても素晴らしい」

「…頭がおかしいんじゃねえのか」


 話が通じなさ過ぎてもはや笑えてくる。

 そんな俺の苦笑を何の笑みと受け取ったのか、老紳士は穏やかに笑って頷くと、部屋の隅に備え付けられていたナイトテーブルからメモ用紙の束を取り上げた。


「ひとまずこの部屋をあなたに与えます。ワンフロア全て使っていいので、アトリエと物置にも出来るでしょう。あなたの元の家は引き払い、私の監視下で生活して頂く」

「…軟禁じゃねえか。まあ、いいぜ。俺の家は○○番地の○○ハイツってアパートだ。そこに売れ残ったのと返品された絵と画材もある」

「解りました、今日のうちに手のものを向かわせてこちらに運び込みましょう。他に必要なモノはありますか」


 その頃には俺は、これ以上転落しようのない人生にほとほと疲れ果てていたことから自暴自棄になっていたと思う。

 男の手に首輪で繋がれる生活も悪くはない、と思ってしまったのだ。


「絵具と筆だな。それだけありゃとりあえず何とかなる」


 男は満足げに笑った。




 彼の言ったように、その日のうちに我が家は引き払われ、まあ元々家にあるモノの大半がゴミであったからほとんどの家財は処分されたらしい。

 二十点ほどの絵画と数百点に及ぶペーパーバックのドローイングが新しい部屋の物置に詰め込まれ、そして家主が手ずから選んだらしい筆と筆洗、文具類、パレット、イーゼル等々が相次いで到着した。


「頼まれたものはこれで全てだと思いますが」

「ああ、完璧だ」


 先ほどから背中を冷や汗がひっきりなしに伝い落ちていく。

 盗作騒動からこっち、筆を執った事もなくはなかったが、真っ当に絵を描こうとすると手が震えて全く作業にならなかったのである。しかしてその時はもう自分は絵を描く事もなく死んでいくのだ、と納得した物だった。何年も経った今頃になって再び筆を執るこのような事態を招くのは、想定外も良い所だったのだ。


「せっかくなので描くところを拝見してもいいですか」

「…好きにしろよ」


 前宅から取り寄せた愛用の椅子を引きずってイーゼルの前に腰掛けると、新品の筆を執る。カタカタと震え出した利き腕をもう一方の手で堅く握りしめた。とまれ。とまれ。

 額に玉のような汗がにじみ出てくる。俺は絵を描くんだ。描かなきゃいけないんだよ。


 頭の芯がぐらぐらと揺らぎ、眩暈と吐き気が襲ってくる。


 気が付くと手から零れ堕ちた筆がカーペット敷きの床に転がっていた。


「…すまん。やっぱり俺は…」

「気分が乗らないなら今すぐ描かなくても構いませんよ。もし気持ちが許すなら、あなたの話を聴かせてもらえませんか」

「話? そんなもの何の足しになるんだ…?」

「パトロンが自分の出資している画家の事を聞きたがるのは自然な事だと思いますが」

「…まあ…そうだな」


 筆を拾い上げてひとまずテーブルの上に置くと、相変わらず震える腕を胸の前で握りしめて老紳士の目の前に腰掛ける。


「で、何が聞きたい」

「あなたが絵を志した理由など、どうです」

「そうだな、あの頃俺は…」




 あの頃俺は、底辺の家族に囲まれて、底辺の生活をしていた。

 親父はクズだった。ろくに仕事もせずに朝っぱらから酒をかっくらい、悪い仲間とつるんで頻繁に豚箱に押し込まれていた。

 俺と幼い弟を養うために、おふくろは水商売に手を出した。それでも一家四人の食い扶持になどならず、やがておふくろは弟の臓器を売りに出した。中をあちこち持ってかれた弟は、腎機能の低下で間もなく死んだ。

 弟の骸を見て親父の吐き捨てた一言が、今も耳にこびりついて離れない。


「最後まで役に立たなかったな」


 ああ、俺も弟と同じになるんだ、何の楽しみも知る事無く死ぬんだ、と、覚悟するしかなかった。

 そんな時、アメリカのアートスクールが交換留学生を募集しているという話を耳にした。


 なんでもいい、この家族から、死から逃れられるなら、なんでも。その思いで朝から晩までカンバスにかじりついた。あの頃は他人の数十倍の量をこなしていたと思う。

 その俺の作品を一目見た向こうの学長に気に入られ、俺は見事渡米するに至った。



「なるほど。…辛かったですね」

「いや、そんな事もない。あのクズ家庭に生まれなければ俺は絵と出会う事もなかったろうからな。まあ、その結果がこれなんだからクズから生まれた俺も結局クズだったんだよ」

「そうでしょうか…」


 今まで歯切れよくはきはきと話していた男が、初めて言葉尻を下げた。


「誰にでも、胸に秘めた思いの一つや二つあります。あなたのご両親がどんなにクズでも、あなたを思う気持ちがなかったとは言い切れない。逆に、思われていなかったからといってどうでしょうか。あなたがあなたらしく生きることに全く関わりのない事では?」

「…あんたと話してると自分の幼さを痛感するよ」

「下手に歳だけは重ねていますからね」


 そうして俺たちは弱く笑い合った。

 その晩は彼が持ち込んだワインの盃を傾け合いながら、一晩中語り合った。主に俺の話に彼が聞き入る形だったが、こんなに何時間も人と対面で話したのは初めてだったと思う。

 それまでの疲れといきなりの安心がどっと押し寄せたようで、俺はいつの間にか眠ってしまっていて、目が覚めると体の上からふわりと毛布が掛けられていた。



 男はいなくなっていて、一瞬何もかも夢だったのではないかと思ったが、見回せば見知らぬ部屋に自分はいて、否応なく現実を直視させられた。

 ナイトテーブルの上のメモ用紙に、新しい筆跡が走っている。


――また夜になったらそちらに寄ります。それまで制作するなり散歩するなり自由に過ごしてください。


 やけに達筆な文字を眺めているうちに、何かが無性に胸の内側から湧き上がってきた。

 ああ、久しぶりだ、この衝動。”描かなくては”。



 イーゼルの前に腰掛け、筆を握る。もう腕は震えなかった。




「おや、今日一日で随分進みましたね」


 その夜、部屋にやってきた老紳士が、イーゼルに立てかけたカンバスを見て楽し気な声を上げた。


「絵描きの進捗というものを初めて間近で見ました」

「そんなに珍しいかい」

「ええ、それにとてもワクワクする」

「…ははっ」

「いつ頃仕上がりそうですか」

「そうだな…」


 実のところ、今日はやけに筆が乗って彼がやってくる前に仕上がりそうな気配があったのだが、どうしてもこの男の注文を取り入れたくて完成を伸ばしたのである。


「明日か明後日ってとこだな」

「噂に違わぬ速筆ですね」

「で、あんたから何か注文があったら聴こうと思ってたんだが」

「ほう。私の意見も取り入れて下さると」

「うん、だからまあ、とりあえずなんでも言ってみてくれ」

「では…」


 男は眼を細めてはにかむと、懐から小さな小箱を取り出す。


「このメノウを混ぜた絵具をどこかに使ってもらえるでしょうか。好きな色なんです」

「そんな事でいいのか。構わんよ」

「ありがとうございます」


 男から小箱を受け取り、中から絵具の入ったケースを取り出す。


「こりゃあ日本画用の岩絵の具だな。俺の専門は油絵だが…まあなんとかなるだろう」


 男は不思議な光を称えた目をこちらに向けた。何か言いかけて、やめたように見えた。


「完成楽しみにしています」

「あぁよ」

「今夜も話し相手になってくださいませんか。夜は長い」

「いいぜ、俺もちょっと休憩したかったからな」


 その晩も、不思議なほどに話が弾んだ。この男が相当に聞き上手なのだと思う。

 そういえば、俺は彼の事を何も知らない。何の仕事で財を成したのか、家族はいるのか、何で俺なんかを助けてやる気になったのか――。




 その翌日、目覚めると再び彼の姿はなく、またメモ用紙に昨日と似たようなメッセージが残されていた。

 伸びをしてイーゼルの前に腰掛け、絵に取り掛かる。


 その日も滑らかに筆が走り、彼に渡されたメノウの緑青で絵の中の人物の瞳を塗りつぶして、その絵は完成した。

 サインを入れかけて、辞める。ここの判断は彼に任せよう。この絵を見せたらまた喜んでくれるに違いない。



 しかし、その日は日没後も彼が戻る事はなかった。ソファに腰掛けて待つうちに俺はまた眠ってしまっていて、目が覚めた時、目の前に黒服をかっちり着込んだ青年が立っているのを見て、悲鳴を上げかけた。


「おっと、すみません…お休みのようだったので、勝手に入って待たせて貰いました」

「おっ…お前誰だ? あの人の知人か?」

「息子です。昨日未明、父が息を引き取りました。これからあなたの処遇を引き継ぎます」

「は、ちょっと待て…なんだって? 息を? 引き取った?」

「抗生剤や鎮痛剤などで極力苦痛は減らしていたんですが、父の体はボロボロだったんですよ。末期の肺癌です」

「そんな…馬鹿な」


 狼狽する俺の様子をあの人そっくりの細めた目で見ると、彼の息子だという青年は小さく折りたたまれた紙片を取り出した。


「ここに、急遽追加された遺言のあなたについての言及がありました。


 一つ。私(故人)が依頼して作成させた絵を、金十億で買い取る。

 一つ。彼に私(故人)の所有する物件のワンフロアを与える。


 とまあ、要約するとそのような内容です」

「十億…? そんなにもらえない! そもそも俺の人生はあの人が買い取ったんだ、あの絵はもともとあの人の…」

「あなたの主張はどうでもよろしい。…まったく、父の道楽にはあきれます。しかし…」


 青年は例の絵の方にすっと目を向けた。


「やはり父の審美眼は確かであるようです。素晴らしい絵だ。あなたはせっかく持ち得たその手と目を大切になさい。…十億もあれば、再起するまでの生活費には十分でしょう。あなたは、絵を描き続けなさい」


 そうしてつかつかと部屋の外に向かっていく。

 言葉が続かずうなだれる俺を一瞥し、鼻で笑うのだった。


「父が最期に言い残した事です。”あなたは人生最後の時をともに過ごす友として、死に向かう私の気持ちを軽くしてくれた。ありがとうございました”だそうです。その絵は後程回収させて頂きます。では」



 やがて室内に取り残された絵に、俺はサインをしない事を決めた。

 そうして、俺の画家としての第二の人生が始まったのだった。



 彼の心に巣くう俺と同じ類の弱さを、俺は見抜けなかった。ただ、寄り添ったあの時にかわした言葉達が、今も胸の中で温かい。だから、俺はもう一度筆を執ろうと思う。

 自分の罪を飲み込んで。


ーーー

三題噺ガチャ


「路地裏」

「メノウ」

「描く」

より制作

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