命の重みの説き方
さて今日も昼飯にしようと、一部の生徒にだけ特権的に開放されている学校の屋上に出ると、そこには今にも飛び降りようとしている少女が建物の縁のフェンスに張り付いていた。
全くなんて日だ。昨日バイト先で臨時収入があったから、今日の昼食は多少豪華にしようと購買で三つもパンを買い込み、さあ食べるぞとお楽しみも十分にここにやってきたのに。
咄嗟にこのタイミングで屋上に訪れたことを後悔し、いっそ気づかなかったことにしてこのまま気配を消して立ち去ろうか、なんて思いが頭を掠めたのだが、全く運のないことに、フェンスにしがみついて目を潤ませるその少女と、視線がバッチリかち合ってしまったのだった。
少女は綺麗なツインテールをハタハタと風に靡かせながら、いとも恨めしそうに俺を見た。俺も同じような顔をしていたかもしれない。
おそらくここの女生徒だろうが、高校生にもなってツインテールとはなかなかの度胸、肝っ玉である。自分が可愛いという強い確信があるタイプのお嬢さんなんだろうか。
場違いな思考に囚われながらも、まあ互いに互いの存在に気付いた以上なんとかしないわけにはいかず、すでにフェンスの外側に回ってもはやあと一歩踏み出せば地上に真っ逆さま、という状態の少女に、刺激しない程度にジェスチャーで制止の意思を伝える。
「君、どうした? 命を粗末にしてはいけない」
「この状況でそんなつまらないことしか言えないんですか」
君、今にも死のうとしてる割に気の強いことを言うね?
率直にそんな言葉が口を突きそうになって、まあやめた方がいいなと思い直した。自殺者の説得マニュアル、なんてものがあるとするならば、まず気が立っているであろう当事者を最大限刺激しないように振る舞うよう一番最初に書かれていると思う。ではそのマニュアルの要点をまとめるとするならばどうだろう。
…うん、何らかの「生きることに対する執着」を呼び覚まし、この世に未練を生じさせて自殺に対する意欲を削ぐこと。これだろう。
しかし面倒臭いな。この子が死のうが生きようが、正直初対面の自分には全く関係がない。今目の前で死なれると自分にも一割か五分くらいの責任が生じると思われるので、今日の夢見のためにもそれだけは回避したいという心情であるが。まあ、この場は何とか言葉でケムに巻いて、とりあえず自殺の決行日を伸ばしてもらうか。
そのような俺の思考がほぼ全て顔に出ていたようで、少女は明らかに軽蔑と警戒の入り混じった胡乱な目で俺を見た。
「もう生きていてもしょうがないんです。…大好きだったんです。でも私を見てくれることなんて永遠にないんですから」
おっ、自分語りを始めたぞ。これはいい傾向だと思う。少なくとも俺と自殺の動機を共有したいと思う程度には他人に対する信頼を捨てていない、なおかつこの場で他人に話を聞いてもらいたがっている。つまり、少女も本当は死にたくなどなく俺に止めて欲しいのである。
心の中で大きくガッツポーズをしながら、最近バイト先ーー演劇の端役をやらせてもらっているーーで覚えたスキルで目の端にいっぱい涙を溜めてみせた。ギョッとする少女。
「わかるぞ。…辛いよな。俺はお前の事情はよく知らない。でも、恋の一つ二つ経験はある」
「…本当ですか」
「ああ、本当だ」
口から出まかせである。俺の嫁はアニメ「りんごパラダイス」のヒロイン、九条りんご一人のみ。恋愛など人生に不要。
「俺も今まさに恋をしている。けして叶わない恋だ。いつもその人のことをそばから見つめているが、彼女が俺を見てくれることはけしてない」
ここら辺は事実から拝借した。
「だが俺はその子を思い続けると決めた。報われないからなんだ、好きな人がいると言うことを支えに生きていけるじゃないか」
「…やっぱり死にます…」
なんで!?
俺以上に目の端にいっぱい涙を溜めて、くるりとフェンスに背を向け、つまりは飛び降りる準備を整えた彼女を見て、俺は多少なり慌てる。
何かまずい言葉を選択してしまっただろうか。定石通り相手の心情に歩み寄り、共感と希望を示し、生きることを促したわけだから…説得としては二百点だったと思う。…くそっ、なまじ下手な説得をしてしまったことで、この子の自殺に関して俺の責任が一気に二、三割増してしまった。これはもう何としても彼女を止めなければいけない。
でなければ彼女の遺族とか友人とかに後々涙を流しながら誹られるんだ。
しかし今の説得の何がまずかったんだ…? そう、俺は何かを見落としている。何か…。
少女がフェンスに絡ませていた両手のうち左手をすいっと離して身を乗り出したので、俺はいよいよ慌てた。彼女の方に向かって思わず歩み寄るが、そこには不可視の壁が存在するかのように、俺の足はすんでのところで止まる。
そういえばドラマなんかでも、自殺者に歩み寄ろうとした説得者に対して「来ないで! これ以上近づいたらほんとに飛び降りるから!」という展開をよく見る。近づかれようが遠巻きにされようが結局飛び降りるなら何の関係もなかろう、と思っていたが、実際いざ死のうとしている人間に近づくのは躊躇われるものだ。
先ほどのマニュアルの話で言っても、あまりにも距離が近いと相手を逆上させる危険性がある。
しかし、宙にハラハラと涙を散らせる彼女を見ていると、どうももう説得の猶予もなさそうであった。どうしてもと言う時は力づくで彼女を抱き止めるしかない。それもフェンスに挟まれているわけだからギリギリ間に合うかどうかというところであるが。
…全く、とんでもないことに巻き込まれてしまった。
手にしていたパン三つをそこら辺に放り出しつつ、中腰になって少しずつ彼女に歩み寄る。少女は俺の方を見ているのかいないのか、あれだ、今まさに走馬灯がよぎっている最中なのかもしれない。だとしたら今この瞬間が相手を拘束するチャンスか…?
「大好きだったんです」
少女が震える声を絞り出す。
「…あなたのことが」
「は?」
謎の不意打ちを喰らって頭が真っ白になる。
「小学校の頃小さな劇場で見たあなたの演技に打ち抜かれました。それからどんなに小さな公演でも欠かさず見に行って、その度にあなたの存在が、声が、姿が、私の中で大きくなって…。でも、私はファンの一人だから。決してあなたの特別になんかなれないから。だから、死にます。永遠にファンとして」
「ちょっと待ちなさいよ、ええ…」
確かに俺は、小学校どころか幼稚園のまだ自我も芽生えていないような頃から演劇をやっていたし、度々色んな公演にも出演していた、が、全て端役だ。最近は自分の演技の才にも見切りをつけていて、まあそれでも公演に出る限り少額ではあれバイト料が入るから、成人して真っ当な仕事に就くまでの小遣い稼ぎとしてそれを続けていたに過ぎない。
自分で言うのも何だが顔もそこまで整っていないし、身長も高くない、声も他の演者に比べれば通らず滑舌の悪さを幾度となく指摘されている。…俺のどこがいいってんだ?
「じゃあ、もしかして今日ここで飛び降りようとしてるのも…」
「毎日屋上でお昼食べてるのを知ってて…。どうせ死ぬなら、最後にその姿を目に焼き付けて欲しくて」
えっ、愛が重い…。
流石にここにきて情報量が大規模渋滞し、俺の頭はもはやフリーズしていた。そんな俺の沈黙を何と受け取ったのか、少女はこちらを振り返ってにっこりと笑う。
「一言も交わさずに終わるかと思っていました。最後にお話できて嬉しかったです」
「…いや、ちょっと待って。待って待って」
俺は今度こそ少女の傍にすっ飛んでいって、その手をフェンス越しに取った。
「色々ツッコみたいとこはあるけどとりあえず全部置いて、もし今俺が君を受け入れるって言ったら恋人になってくれるの?」
「…え…?」
「演劇を始めてから、っていうか生きてきてそこまで熱烈に肯定されたことがなくて…。すげー嬉しい…。付き合ってください!」
「…は…はい…!」
かくして自殺騒動は二人以外の誰にも知られることなく呆気なく幕をひき、俺たちは正式に付き合うことになった。彼女のぶりぶりしたツインテールも、自分の恋人になってみると愛おしく感じられるものである。
その後も根っからのメンヘラであるらしい彼女が度々狂気を伴う愛情表現を繰り返し、それに何だかんだ俺は振り回されていくのだが、しかしハッピーエンド。ハッピーエンドである。
愛は世界の前に俺たちを救ったのだった。
ーーー
三題噺ガチャ
「学校の屋上」
「壁」
「歩む」
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