音叉

 中学時代は碌なもんじゃないと思っていた煙草を、高校生になった今戯れに吸っている。いざ嗜んでみると別に大したことはなかった。

 煙草を吸う人間に、どこか成熟して煮崩れした大人、というイメージを抱いていた。

 しかし周りに流されてその道楽におぼれるくらいの事であれば、大して成熟もしなければ大人にもなれないらしい。現に俺の周りの、同じく煙草を嗜む不良たちは大層精神が幼い。俺も例にもれず、だが。


 今日も、ワルい先輩達と同級生との五人ほどのグループで体育館裏にたむろっていた。古い木造の体育館からは、上履きが床を滑る「きゅっきゅっ」という音と、ボールが床をだむだむ跳ねる音が断続的に聞こえてくる。

 この音を聞きながらぼんやり空を仰ぐのが好きだ。


「そういや三つ先の駅の前に新しいゲーセン出来たってよ」

「おおー、行くべえ。早速今から授業バックレてゴーじゃね」

「そもそも授業出てねえけどな」


 軽くじゃれ合うような言葉のやり取りを交わして軽薄に笑い合う間柄は、とても気が楽である。高校生にもなると、俺達のような真っ当な道を外れた人間に世間はいっそう冷たい。

 未だに俺達の将来の事を考えてくれるのは怒鳴り声のうるさい生活指導教諭くらいで、他の先公は勿論親兄弟も、もう「こいつはどうせ碌なモノにはなるまい」と頭から決めつけて諦めては久しかった。自分でもその諦観に大して反論の意もない。


 何もかもが面倒くさい。

 生きる事も、そのために勉強する事も、どうせ底辺でしかない未来をわざわざ想像してあれこれ画策する事も。


 流れ流されて生きる事の何が悪いのか。こんな頭の悪い人間に生まれた時点で結果は既に目に見えているのに。


「ん? お前も一緒にいかねえの?」


 気が付くとつるんでいる先輩達が先を切って、その大柄な体を揺らしながらこの場を歩き去ろうとしていた。


「ん…わりぃ、なんだっけ」

「いやだから、ゲーセン。新しく出来たんだってよ。行くだろ?」

「んー…」


 仲間の誘いを渋ったのには理由がある。間もなく放課後になるからだ。

 授業が粗方引けて、部活動が始まると体育館裏にずっと居たくなる理由が俺にはある。


「金がねえんだったわ。悪いけど今日はパス」

「おー、金欠かあ。じゃあ仕方ねえな。しっかし最近付き合い悪くね?」

「原付買うために貯金してんだわ。ついでに免許取るために勉強してる」

「偉くね!? そっかー、頑張れよ」


 俺のついた嘘に愚かにも合点したらしい同級生がはけていき、体育館裏の狭い空き地に俺だけが取り残された。

 体育館からは、相変わらずシューズが床を蹴る音と、ボールの音、生徒たちの掛け声、教師が指示を飛ばす声。部活が始まったらしく、バスケ部とバレー部が練習を開始したようでなお一層気合の入った物音が空き地にそぞろ響く。


 煙草のフィルタを口にくわえ、音と煙の味を口に含んで一気に吐き出した。


 …今日も彼女は来るだろうか。



「やあ、今日もいるね」


 ややあって掛けられた声のほうに振り向くと、大きな荷物を抱えた女生徒が長い黒髪を揺らしながらこちらに向かってくるところであった。


「相も変わらず煙草を吸っているな。体を粗末にするなと言っているだろう。親が泣く」

「別の理由でもう散々泣かしてきたんだ、この先どうあっても変わんねえよ」

「そんなことはない」


 女生徒はつかつかと俺に歩み寄ると、ためらいもせず空いた左手で俺の咥えていた煙草を摘まみ、えいやとばかり地面に擦り付けるのであった。


「君が良い方に変わればご両親も友人もそりゃあ喜ぶさ。…灰皿は持っているかな」

「…あんたに言われたから持つようにしてるぜ」

「偉い偉い」


 俺の差し出した携帯灰皿に拾い上げた煙草を放り込むと、女生徒はにっこりと笑った。


「煙草を辞められればなお偉いがね。じゃあ、今日も聴いてもらおうか」



 右手に抱えていた大きな荷物――ギターケースから傷があちこちについた古びたギターを取り出し、それを爪弾き始める。




 彼女と出会ったのも、この放課後の体育館裏でだった。

 その日はいつもつるんでいる仲間たちとなんとなく気が沿わずに、今日と同じく誘いを適当な嘘で断って、体育館から聞こえてくる音を背に空を仰いでいた。


 青い空が嫌いだ。誰にでも平等に太陽の光が降り注ぐものと思っているのはその恩恵を受けている真っ当な人間達ばかりで、俺のような不良にはお天道様も厳しい。

 晴れ渡った空を見ていると、いつも変われない自分を責められているような気がした。そして、それがなんとも分相応で逆に居心地がよいというわけだった。


 煙草の先端と口の端から立ち上る紫煙が青空に溶けていく。

 俺の人生もこの煙のように、あっけなく終わるのか。


 そんなメランコリックな考えに囚われだした時、砂利を踏む音がして、俺の煙草を今日のように摘まみ上げたのがその人だった。


「よくないな、未成年の喫煙は」

「誰だあんた?」

「そういう君はいつもこの辺りにたむろしてる不良の一派だね。時々顔を見るから憶えているよ」


 煙草の火を足で踏みつぶすと、彼女は例によってにっこりと笑う。


「君は…頭が良いのに何もわからないふりをしているな」

「はあ…?」

「流されるままが楽だから。考えないでいれば無いも同じだから。…だけれど、どこかで窮屈さを感じてる」

「…なんだいきなり。あんたに何が分かる…」

「分かるさ。私も同じだ」


 そう言って背中に担いだケースからギターを取り出して、俺の隣のコンクリートの足場にどっかと腰を下ろす。


「まあ、これも縁だ。よければ一曲聞いていってくれないか」

「今から弾くってか」

「そうさ、聴かせる相手がいなくてね。感想が欲しい」


 そうして俺の返答も待たずに軽快に弦を爪弾き始める。


 正直、押しの強い人間は苦手だ。自分のペースに他人を巻き込むことが正しいと信じている人間は特に。

 だからその時も曲なんて聞かずに去ろうとしたが、空き地の空に流れ出した旋律が余りにも悲しくて、つい耳を傾けていた。


 それが始まりだったのである。




「…っし、と」


 自信満々に弾き始める割に、今日も彼女は一曲弾き終わるといとも恥ずかしそうにはにかむのだった。


「どうかな、昨日から練習している新しい曲なんだ」

「うん、いいんじゃねえの」

「そうか」


 でもここをもうちょっと表情豊かに弾きたいんだよね、ここは跳ねるようなタッチで…などとぶつぶつ言ってはまた同じ曲を奏で始める彼女を、ぼーっと突っ立ったまま眺める。


 感想が欲しい、と言ってはいたが、俺が言えることは「いい」か「悪い」くらいであるし、彼女の演奏を聴いて後者の感想を抱いた事はまずなかった。

 だから毎度のごとく先のような適当な言葉でしか感動を表現できない。


 それでも彼女は別に気にしてもいないように、ただ奏でることそのものが目的であるかのように、一日何曲も披露しては満足したように笑う。


 …こんな風に、何もかもをなげうつように真摯に一つの事に向かう人間と、接するのは初めてだ。

 だから、彼女といるのは気持ちが良くて、心地が悪かった。彼女が自分とは真逆の人種であることを本能がガンガン叫んでいる。




「…さて、今日はこの辺にしておくか」


 いつものように彼女が言い、俺は現実に引き戻される。腕時計で時間を確認するその人に促されるように自分も携帯を開くと、今日ももう六時、ぼちぼち暗くなり始める時間だった。


「なあ…いつも思うんだが、あんたほどの腕があれば路上ライブでもやりゃ客が沢山入るんじゃねえか? 俺なんかに聴かせてくれなくても…」

「うーん。君はいつも私の演奏を褒めてくれるが、私の腕は客観的にそれほどではないよ。好きなように鳴らしているだけだ」

「そうかね…曲の良い悪いは正直わかんねえけど、あんたの音楽はなんていうか…」

「それはね」


 ぱちぱち、とギターケースの金具を留めてケースを担ぐと、彼女はひらひらと手を振るのだった。


「君の感性に私の感性がハマるからさ。芸術ってものは、本来万人受けするものじゃない、特定の鍵穴にしかハマらない鍵なんだ」

「俺にしか良さが分かんねえって事か?」

「そう。だから私にとっては君が最高の観客なんだよ。じゃあね、また明日」


 軽い足取りで去って行く彼女を見送り、またぼんやりと空を仰ぐ。茜色に染まり始める虚空にぽっかりと白い月が浮かんで、その姿がなんとも寂しかった。




 その翌日も、不良仲間の誘いをなんとか断って体育館裏の空き地で待つうちにその人が現れ、いつものような文言を吐きながら俺から煙草を奪っては、何曲か奏でていく。


 …いつの間にか、このクダリが当たり前になっている自分にどこか気付いていた。

 自分を否定しない人間との交わりは気持ちよい。不良仲間との関りでもそれは得られたが、何かそこにある幸福感の質が違う気がしていた。


 仲間と一緒にいる時には感じない、何かまばゆいモノを一身に受けている感覚。

 そう、彼女は青空に浮かぶ太陽に然りなのだった。俺のようなくだらないものも平等に照らしてくれる太陽。



 そのまた翌日も、その更に翌日も、彼女の奏でる曲を聴いて、「いいと思うぜ」と変わらぬ感想を送る、それだけの事が、何かひどく代えがたいものとして積み重なっていく。

 そうして年を越し、あと一か月ほどで学年が上がろうというある日であった。




 その日もギターケースを背負って現れた彼女は、俺の隣に腰を下ろしてギターを取り出し、それを爪弾くそぶりを見せ、しかしその先が続かずにうなだれる。


「…? どうかしたか?」

「いや…改めて話したことはなかったが、私は三年生だ。この春卒業する」

「それは…」


 正直、彼女の態度や雰囲気から察してはいたがあえて触れずにいた事だった。

 当たり前だ。こんな日々がいつまでも続くわけがない。人は、特に子どもは、変わらずにはいられない。


「卒業式ももう終わっているし、私はもうここの在校生という身分ではない。…明日はもうここに来れない」

「そうか…」


 こんな時に何を言えばいいのかがまるでわからない。ただ、何かを言わなければ、このまま何も伝えないまま別れてしまえば取り返しのつかない事になる、という予感だけがあった。


「大学は、決まってるのか」

「ああ、東京の音大に進む事になった。明日この街を発つ」


 その人は遠くを見る目で空を仰ぎ、ギターをぎゅっと胸に抱く。


「君がいつも褒めてくれるから、私も次のステップに進もうと思ったんだ。…元々は一般大学の文学部に進もうと思っていた。だけれど、君のおかげで」

「俺なんか、何も…」

「そんなことはないさ」


 春一番が盛大に彼女の髪を流し、俺の学ランの裾を巻き上げていった。


「そんなことはない」




 四月、桜が咲き乱れる季節に、あの人の姿はもうなく、ただ自分も何かに打ち込まなければいられなくて、俺は中古のギターを買った。

 不良仲間とつるむのを辞め、煙草を吸うのも辞めて、毎日毎日体育館裏で、あの人のようにギターを弾き続けた。


 弦を抑える指にマメが出来て、それは何度も潰れてまたマメになり、やがて指の皮が分厚くて硬くなる。


 あの人の事を思い出すたびに何かが胸の中に溢れ、それを音にして吐き出した。そうして、また季節が廻り、夏になり、秋になり、冬になる。

 俺も、あの人と同じ音大に進むために勉強を始めた。



 いつか、また隣に立てるだろうか。今度は前よりも対等な目線で。


ーーー

三題噺ガチャ

『体育館』

『煙草』

『聞く』

より制作

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