妙薬

 高校入学後間も無く、私はあるアニメにどハマりした。

 それは昨今増えてきているという漫画や小説を原作にしたものではなく、完全アニメオリジナルのストーリーもので、疫病の蔓延する世界で暮らす人々の生活を描いた群像劇だ。その世界では疫病に感染したものは徐々に体が硬化して、いずれ全身が砂のように崩れて死んでしまう。恐ろしい。


 私が入れ込んでいるのはそのアニメのキャラクターの中でも、ガスマスクをつけて疫病対策を徹底する主人公たちと敵対する、ペストマスクをつけた一派のうちの一人である。物静かだが迫力のある眼光と、あの人気声優が担当する掠れたような重低音の声質が魅力で、私はそれはもう彼に惚れ込んで日々推し活に励んでいる。


 私の通うなんてことない市立校には、同じアニメにハマっている生徒が多数いて、そのうちペストマスク集団を贔屓にしているグループに、私は嬉々として紛れ込んだ。

 そうして順風満帆、推しに塗れる幸福な高校生活が始まったというわけだ。




 その日も私は、推しのグッズが壁中に飾られた自室で目を覚ました。高校生活ももう四ヶ月目となり、夏休みを間近に控えていた。初夏の白い日差しが薄っぺらいカーテンを透かして爛々と部屋に降り注いでいる。

 今日も穏やかでいい目覚めだ。


 しかし、なぜかしら頭がぼんやりとして意識がはっきりとしなかった。

 朝の目覚めの良さには定評がある私だったし、なんならそれが数少ない長所と言えた。家族にも友人にも、起床時の機嫌の良さをそれとなく指摘して褒められていたものだ。それが、なぜ。


 それでもその時は対して気にも留めなかったし、ゆっくりと着替えを終え朝食の菓子パンを食んでいるうちにまあまあいい時間になってしまって、深く考えるまもなく家を飛び出した。




 通学路を心持ち駆け足で学校に向かう。私と同じ制服を着た生徒たちが数名、転々と街路に広がって私と同じく遅刻はすまいと足を急がせている。どこかしらに仕事に出ようという会社員らしき男性、女性の姿も何人かあたりに臨まれた。

 相変わらず頭に霞がかかっていたし、なんだか顔が熱かったが、今日は朝から燦々と日が差していてその時間帯から蒸し暑い日本の夏の装いを見せていたし、そのせいで体が熱っているのだろうと結論づけた。


 そうしてなんとか始業の五分前に学校に駆け込んだのだった。



「おはよ。今日やけにギリギリだったね」


 肩掛けカバンをロッカーに気忙しく押し込んでいると、高校に入ってからできた友人に声をかけられる。

 肩をすくめて見せながら、態度で彼女を促して前後に並んでいる私たちの机に向かった。


「いつも通り余裕もって起きたんだけど、支度してるうちにね」

「ふうん。あ、そういや昨日の夜、公式サイトに発表あったじゃん」

「あっ、見た見た。アニメ二期決定だってね。ヒャッホウって感じ」

「私たちの戦いはこれから、だねえ」


 彼女とも例のアニメの話を通して仲良くなった、いわゆる同好の士である。彼女も、ペストマスク集団の一人である、私の推しとちょくちょく行動を共にしているパートナーに当たるキャラクターを崇めている。これは比喩ではなく。

 一度彼女の家に呼ばれたところ、その推しキャラクターのグッズを祀った祭壇を紹介され、数時間に及んで互いの推しへの愛を語り合った。あの時間は本当に幸福だった。


 私の中で、推しを除けば彼女のことが最も自分にとって価値のある人間だ。その彼女が推しの相棒を推している、という事実には、厨二病っぽくはあるけれどなんとなく運命的な導きを感じていた。


 そうしてアニメ二期の話で盛り上がっている最中、担任の教師があくびをしながら教室に入ってきて、眠たげな目で生徒を見回しては着席を促す。


「おーし、出席取るぞー」


 そうしてその日のホームルームが始まったのである。




 一限目は私の得意な古文であった。授業内容は前回の古文の時間から引き続き、枕草子からの引用を紐解いていく読解で、古文教師は授業中ランダムに生徒を当てては回答を迫ることを生き甲斐にしている外道である。自然生徒たちの危機意識は高いものになっており、皆授業の前日にある程度予習をしてくる習慣がついているから、まあこの教師のやり方は正しいのかもしれない。

 認めたくはない、が。


 とはいえ私にとっては得意科目であったし、古の文学を紐解くこともオタクとして楽しんでいたから、教師の暴挙もなんてことはなかった。平安時代の貴族がどのような生活様式でどう言ったことを考えながら生きていたのか、に思いを馳せるのも悪くはない。

 あの頃の貴族たちも案外私たちと変わらず、学業に励んだり恋をしたり推しを見つけて推し活に励んでいたりする。血は水よりも濃いのだ。私たちの中には平安時代の人間の血が脈々と受け継がれている。


 しかし授業が半分ほど進んだところで、ひどい頭痛が襲ってきた。朝方覚えていた眩暈も悪化していて、おまけに寒気がして冷や汗が吹き出す。


「ん…? そこの君、大丈夫か?」


 初老の古文教師が老眼鏡を持ち上げながら私を遠視する。しかしその時には、私はもう誰かの問いかけに答えるだけの余裕すらなくなっていた。

 ガチガチと歯の根を震わせて、椅子の上の自らの体をギリギリで支える。


「ちょっと…やばいんじゃない? 先生、保健室に連れて行っていいですか」

「んん…そうだな、じゃあ君、お願いできるか」

「はい! ほら、大丈夫? 歩ける?」


 後ろの席から慌てて立ち上がった友人が、私の肩をほぼ抱き抱えるようにして支える。なんとか礼の一つも言いたかったが、そんな気力すらもないほど消耗した私は、ぐったりと友人に体を預けて教室を後にした。

 騒然となりざわざわし始める教室で、古文教師がなんとか場の平静を取り戻そうとしているらしき声が遠くに聞こえた。




 そうして保健室に担ぎ込まれてどうにかベッドに身を横たえたらしいが、その直後私は気を失ってしまったようで、次に目が覚めたのは放課後であった。それがわかったのはちょうど、ベッドの私の位置から見える場所に時計がかけられていたからだ。


 一日無駄にしてしまった。まあ、これくらいの授業の遅れならすぐに取り戻せるだろうし、堂々とサボれたと思えば儲け物、なのか? サボったにしてもずっと寝ていたわけだから何も得してはいないか。


 そんなことがスーッと頭の中をよぎり、私は汗びっしょりの体とシーツをもぞもぞ言わせながら身を起こした。

 かなりの量の寝汗をかいていたが、そのおかげか熱は引いていて、そして傍の丸椅子の上で友人が頭をこくりこくり言わせながら居眠りをしていることにも気づいた。


「あ、起きた? 熱はどう?」


 カーテンの敷居を寄せ上げて、保健師が顔をのぞかせる。


「あ…もう随分いいみたいです」

「あ、そう。多分夏風邪だと思うわ。市販薬だけどビタミン剤があるから、これ飲んでちょっとしたら帰りなさい。もう放課後よ」

「あっ、はい。…ありがとうございます」


 先生の差し出したカプセル剤と水を飲み込むと、友人の肩を控えめに揺らす。はっと目を開けた彼女は、まず私の顔をまじまじとみて心底ほっとしたように息を吐き出した。


「よかったあ…相当悪そうだったから。心配した」

「ごめんね。もう大丈夫」

「うん、顔色も良くなってるね。今日はもう帰ろ、早めに帰宅して寝た方がいいよ」


 促されるまま保健室を後にし、友人がもってきてくれていた私のカバンを手に学校を辞す。

 彼女はまだ心持ち不安げな目で私を見ていたが、笑って見せると曖昧にはにかむのだった。




「あ、そうだ、今日一番くじの初日だった」

「え!? 推しのグッズもあるのかな…」

「さっきSNSチェックした感じだと私たちの推し二人のマスコットがあるらしいよ」

「引かないわけにはいかない…」


 病み上がりであっても推し活は全てに優先される。

 私たちは今時の女子高生よろしく、堂々とコンビニに寄り道を開始した。


 夕刻のコンビニは、夏至の直後ということもあってまだ日が高い中、それでも裏寂しい黄昏の空気を纏っていた。今夜の夕食を買い求める人々でそれなりに混雑しており、特にレジの前には若干の列ができている。

 友人と一緒にその後ろに並び、ジリジリしながらその時を待った。


「それにしても…」

「ん? 何?」

「いや、急に体調崩すからさ。なんかの重病にかかったかと思っちゃって。ほら、アニメみたいな…」

「あはは。疫病?」

「笑い事じゃないよぉ。心配したんだってば」


 友人の声音から、冗談を言っているわけではないことがわかった。私とてまんざらではない。


「まあ、疫病だったらお互い無事ではないけどね」

「確かに。ペストマスクもガスマスクもしてないわけだからあっという間に感染するか」


 そうこうしているうちに列が進み、店員がめんどくさそうにくじの箱を差し出す。


 引いた結果、C賞。私たち二人ともくじ運がいい。めでたくお互いの推しのマスコットを手に入れた。




「今日はしっかり寝なね」


 私の家の前まで送ってくれた友人が、マスコットをぷらぷら目線にかざしながら、言う。私も同じようにマスコットを掲げて、その手を振った。


「オッケー。今日は本当ありがと。めちゃくちゃ効いたわ」

「何が? 何に?」

「推し活が。夏風邪に」


 私の言葉に吹き出した友人は、じゃあね、と軽快に告げて背を向けた。私はその姿が角を曲がって消えるまで、ずっと見送っていた。


 手に残った、ペストマスクをつけたマスコットをじっと見つめる。夕日をキラキラと反射するそれが、私と彼女との大切な絆のように感じられた。


 ずっと、こんな日が続くわけがないことはわかっている。私たちは、大人になる。

 だけれど、今は。今だけは。


 空腹に耐えかねてなり始めるお腹を軽く叩いて、自宅の扉を潜った。母が作っているらしい夕食のいい匂いがふわりと私を包んだ。


ーーー

三題噺ガチャ


「コンビニ」

「ペストマスク」

「効く」


より制作。

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