フルーツタルトに堕ちる

 店内にはコーヒー特有の、濃厚でほろ苦い香りが満ちていた。もはや壁紙や机椅子、メニューの台紙などにも匂いが染み付いてしまっているらしく、たまに窓を大きく開けて換気するタイミングにも出くわすがこの香りが消えたことはない。

 いつものように、この店を一人で切り盛りしている店長がツカツカと私の腰掛けている小さなテーブルに歩み寄ってくる。


「今日のご注文は何になさいますか?」


 この文句もいつもと一語一句違わぬルーティンである。

 まさにロマンスグレー、という言葉が相応しい初老の店長は、どの客に対しても全く態度が変わらず、うやうやしい仕草と丁寧な言葉遣いで私たちに接する。出してくれるコーヒーや茶菓子も逸品なのだが、併せてこの折目正しい店長に会いたくて私は毎日のようにこの店に訪れていた。


「じゃあ…カフェオレと、あと、今日は何かおすすめあります?」

「そうですね、先日から試作を重ねていたタルトがそれなりに食べられる出来になったので、よろしければおまけでおつけしますが」

「わあ。じゃあそれでお願いします」

「かしこまりました。差し支えなければ感想をいただきたいのですが。改良の余地があると思いますので…」


 ニコッと柔和な笑みを残して、メニューとともに引き上げていく。

 その姿勢のいい後ろ姿をそっと見送って、ふと息をついた。




 この店に初めて訪れたのは、新卒で入った出版社を辞めて、その伝手でフリーライターの仕事を始めてすぐの頃だった。

 前の職場のコネである程度仕事の本数はあったのだが、何しろフリーで働くというあり方がまだ今ほど一般的ではなかった頃だ。税制やらその控除申請やら、確定申告やら事務手続きやらで、とにかく実務以外に覚えることが大量にあり、私の頭は早晩パンク寸前だった。

 おまけに軽い気持ちで入稿した仕事に散々リテイクを出され、元々低いプライドがさらに地に落ちていたわけである。


 仕事には責任と信用が伴う、ということを、当時ありありと思い知らされていた。


 もとより物忘れの激しい性格であったから、新しく覚えたことを片っ端から付箋にメモして愛用のノートパソコンに貼り付けた。付箋の数は日に日に増していき、やがて貼り付ける場所が全くなくなったので、仕方なく分厚いシステム手帳を買って、苦労してそれにメモを取る習慣をつけた。


 夜、寝静まると、決まってメモ用紙の束に全身を覆い尽くされる夢を見てハッとして目覚め、汗だくのシャツを着替えため息をつく。

 そんな日々がどんよりと私の日常を覆っていた。


 ここじゃないどこかに行ってしまいたい。


 ある日そう思い始めるともうどうにも止まらず、使い込んだパソコンも手帳も自宅のテーブルの上に置き去りにして、財布だけをジーンズのポケットに突っ込み家を出た。

 とにかくしゃにむに近所の路地を突っ切り、どういう道順で歩いたかも覚えていない。

 気がつくとその店の前に立っていた。


 元々が閑静な住宅街である一角に据わったその店は、なんだか昔読み漁ったオシャレなティーンズ文庫に出てくる魔法のコーヒーショップのようにテラテラと淡い光を放って見えた。

 誘われるように入店すると、カウンターでコーヒー豆の選別に勤しんでいた初老の男性が顔をあげ、ふわっと微笑み、はっきりと通る声で言うのである。


「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね。コーヒーでも飲んで行かれませんか?」




「お待たせしました、カフェオレとフルーツタルトです」


 回想に身を委ねていた私の前にいつの間にか歩み寄っていた店長が、カタカタ、とごく小さな音を立てながらカップと皿を机に並べる。現実に舞い戻る私の鼻腔を、カフェオレの甘苦い香りが刺した。


「いい香り…」

「ありがとうございます。新しい豆が入ったので、使わせていただきました。ではごゆっくり」


 優雅に頭を下げて去っていく店長を見送り、コーヒーカップを手にとる。透き通るように白い陶磁器でできたカップは、中身のカフェオレの熱でまるで小さな生き物のようにほんのりと暖かかった。

 あらかじめミルクと砂糖を私の好みの量入れてくれたそれを、舌の上で転がしながらうっとりと味わう。

 またあの頃の記憶が頭の中にさっと影を差した。




 この店に出会ってコーヒーを頼んだあの日、


「お砂糖とミルクはいかほどになさいますか?」


 と注文の時にわざわざ尋ねた店長を、疑問の眼差しで見返すと、彼はちょっと笑って言ったものである。


「ミルクや砂糖の分量でお飲み物の温度が微妙に上下するんです。なので、初めから入れる量を決めて最適な温度でお出ししております」

「そんなことまで…」

「もちろん、手ずから砂糖などの量を調整したいと言うお客様には、そのようにしていただいております。どうされますか?」


 店長の接客の姿勢に心から感服し、その上で出されたコーヒーを口に運んで、また感動した。まさにコーヒーと茶菓子を心から嗜むためだけに完璧な配合で調整された店なのだ。店長が客の心地よいひと時のためだけにどれだけ心を砕いているか、その瞬間に殴られたように理解し、私は打ちのめされた。


 出版社の業務を、今のライターの仕事を、私はここまで投げ打つように、真摯にこなしたことがあっただろうか。


 嫌なことがあればダラダラと不満を並べ、自分の能力不足を棚に上げて「いつか自分の能力を認めてくれる人に出会えるはずだ」なんて言う都合のいい夢想に浸る。

 この誠実さの塊のような男性の前に立って、私は今まで通り呑気に笑えるだろうか。こなすべきことも何一つこなさないまま。



 気がつくと目からスッと涙が流れ落ちていて、私は慌ててカップを皿に戻した。こんな店でシャツの袖で涙を拭くのもためらわれてあたふたしていると、いつの間にか音もなく隣に佇んでいた店長がいとも完璧な仕草でハンカチを差し出す。


「よろしければお使いください。新品なのでご心配なく、そのままお持ち帰りいただいても大丈夫です」


 そうしてまた音もなく私のそばを離れる。

 私はもうどうしようもなくなってしまって、次々と目の端に溢れる涙を彼に渡されたハンカチで拭った。そのハンカチはお言葉に甘えて持ち帰り、今もお守りのように外出のたびパンツのポケットに忍ばせている。




 何はともあれ、息を吹き返すどころか生まれ変わったような気持ちで店を出た私は、足取りも軽く帰宅した。

 不思議と肩にのしかかっていた疲労が消えており、ぐるぐると腕を回しながらノートパソコンを開く。湯水のように言葉が湧いてきて、その日は日が暮れるまで仕事に没頭した。


 それから、地図アプリで店の場所を正確に確認し、仕事が詰まる昼時にこのコーヒーショップで一息つくのが日課になったのである。




 この店は客層にも上品な人が多く、皆一人がけのテーブルに腰掛けては黙って飲み物と茶菓子を味わって、穏やかに礼を告げて帰っていく。今日も三人ほどの客がそれぞれの席で飲み物を嗜んでいた。


 カフェオレを半分ほど飲み終えた私は、いよいよフルーツタルトにフォークを入れる。

 ドライフルーツを控えめにあしらったタルトは、フォークの圧に対して柔らかに裂け、そのひとかけは口の中でほろほろと甘く崩れた。


 美味しい…。


 思わず声に出しそうになってどうなり耐える。多くの客もそうであるのだろう、この店では店長だけでなく、誰もがこの嗜好の時間を維持するため自分を律している。


 そう、私はあの時から、とっくにこのコーヒーショップの魅力に堕ちていたのだ。




 タルトの最後のかけらを口に運び、私は今日も惜しみながら席を立った。カウンターで支払いを済ませながら、店長と軽く雑談に興じる。

 一言二言タルトの感想を伝えただけだったが、彼は静かに光る目をスッと細めて、笑顔で頷くのだった。


 午後からも頑張ろう。


 店を出て家路を辿りながら、周囲に人がいないのを確認してちょっと伸びをする。

 今日も、憑き物を丸ごと落とされたように体が軽いのだった。


ーーー

三題噺ガチャ

「コーヒーショップ」

「ドライフルーツ」

「堕ちる」

より制作

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