マリンスノウ

 僕は生まれつき皮膚が弱いようで、気がつくと腕を掻きむしっている。アレルギーや皮膚炎の可能性を考えた親に何度も医者に連れて行かれたが、「血液検査では問題は見つかりませんでした」「心因性の問題ではないかと思います」と毎回告げられるのみで、かといってうちはまあまあ普通の中流サラリーマン家庭であり両親も健在だし家族仲も悪くない。強いストレスを感じるような要因はないはずだ。

 何が原因なのかわからないままジリジリと時はすぎ、その間にも腕の発疹と痒みは続いて、もはやそれに慣らされるまでになった。

 今では根本治療はすっかり諦めてたまにボリボリと腕を掻きながら、それでも一般的と言われる生活を送っている。



 今日も大学の講義があらかた引けたので、構内にある食堂で昼食兼早めの夕食と洒落込んでいた。

 小中高とそれなりの数の友達がいたし、大学入学後にも何人か、同じ講義をとっている学生と連絡先を交換したりなどしていた。しかし最近は、それらの「友人」と呼ばれる人々とのこまめな連絡が面倒で仕方がない。


 現代は何かと情報のインプット過多になりがちな時代である。SNSを開けば繋がっているネットやリアルの友人のリアルタイムな発信がのべつ幕無しに流れてくるし、彼らの話についていくために動画サイトや映画、アニメ、漫画のチェックも欠かせない。それはそれとして大学の勉強や自分の興味のある分野の調べ物も並行して行わなければならないし、そんなことを続けていると俄かにうんざりしてくるのだ。

 「自分に必要なもの」とそうでないものの線引きがまだうまくいかないのであろう。それでも楽しそうに自分の好きなものについて語る彼らのキラキラした現実を側から眺めていると、妙な焦りと疎外感を感じる。


 当初は生来身につけた処世術でそれらをなんとかこなしていたが、最近は気がつくと空ばかり眺めている。


 空は良い。一日中見ていても見飽きるということがない。

 様々に形を変えていく雲のたなびく様や、夕焼け、朝焼けの鮮やかな赤。それも、毎日のように携帯で写真を撮って記録していると、一日として同じ色の日がないことに気づく。真昼間の抜けるような青空や、雨雲に覆われた黒い空も魅力的で、辛いことがあると部屋や講堂の窓からぼんやり空を眺めては、自分の中に渦巻く黒々とした感情を吐き出した。


 今日も、空は秋晴れの高い高い快晴で、鰯雲がぴょんぴょんと連なってこの時期特有の雲形を描いている。この食堂おすすめの日替わり定食をかき込みながら、傍の窓の外に望まれるその青を、追う。無性に腕が痒くなってきて、ほぼ無意識にガリガリと爪を立てた。


 ああ、雲はいいな、僕もあんな風に揺蕩うように生きられたら。


「失礼、隣いいかな」


 僕の思索に割って入るものがあった。ハッとして振り向くと、人の良い笑みを浮かべた女性が、カツ定食、それも大盛りの盆を手にして立っている。


「あ、どうぞ。もうすぐ食べ終わりますし…」

「そうか、ありがとう」


 妙に通る声で言いながら、その女性ーーここの女生徒だろうかーーは、やけに洗練された仕草で盆をテーブルに置くと、僕の隣に腰を下ろす。チラと周囲を見回してみたが、ここ以外にも空いている席は多いしなんなら今日は食堂全体が空いている方である。なぜわざわざ僕の隣に。


「君、悩みがあるだろう」


 早速豚カツにかぶりつき、口をもごもご言わせながら彼女が言う。


「悩み…? なんであなたにそんな」

「まあまあ、いいじゃないか」

「初対面の人間に悩みとか、そう話すもんじゃないでしょ…」

「じゃあ“君に興味があるんだ“。これでいいかな?」


 何も良くはない。何もかもが唐突すぎるではないか。思わずポカンと口を半開きにして見つめると、彼女は不思議な笑みを見せた。こちらのことを何もかも見透かしている、という笑み。


「さっきから腕を掻いているけれど、ストレス性の蕁麻疹と言われたんじゃないか?」

「え。まあ…」

「その悩みを解決してあげられるかもしれない」


 なんだろう、宗教の勧誘でもされるのではなかろうか。この手の霊感商法の被害はうちの大学でもそこそこあって、多感な時期の揺れ動きやすい学生を狙って霊験あらたかな印鑑や数珠の類を高額で買わせる被害が割と多発していると聞く。…だとしたらさっさと話を切り上げて逃げるに限る。

「なるほど…」などと言葉を濁しながら、定食の味噌汁をざあと喉に流し込む。傍の女性は明らかに逃げ腰の僕をみても、特にリアクションもとらず相変わらず美味そうに豚カツを口に運んでいる。


「逃げなくてもいいさ。信用できないのも無理はないがね」


 その合間にまたも口をもぐもぐしながら言うが、僕の中に彼女の話を聞くつもりはもうすっかりなかった。最後の米をかき込み、勢い椅子から腰を上げる。


「じゃあ僕はこの辺で…」

「まあ待ちたまえ。君は空が好きなんだろう?」

「…へ?」

「さっき羨ましそうな顔で眺めていたじゃないか。私も好きなんだ、空」


 彼女の表情からは何も読み取れない。


「いいよね。日によって違う表情も、呑気に流れていく雲も、夕焼けの美しさも。ネットやら通話アプリやらでその辺の連中とせせこましくやり取りするよりもよほど心が安らぐ」


 まるで本当に心の中を見透かされたようなその言葉に、息を詰める。


「まあ、今日のところはいいだろう。何かあったらよければ連絡してくれ」


 言いながら、箸を手繰る手を止めもせずに、彼女は空いた右手ーー左手で箸を使っているが、左利きなのだろうかーーで、小さな紙片を差し出した。どうやら名刺である。シンプルな字体で、「御堂葵」という彼女のものであるのだろう名前と、携帯のものと思しき電話番号だけが簡素に並べられている。


「おそらく今夜あたりが山だからね。気をつけて」


 そこまで言うと、もうお前に対する興味は失せたと言わんばかりにひらひらと手を振る。

 一方的すぎてなんの思考を挟む余地もなく、僕は無理やり押し付けられた名刺と空になった食器を手にすごすごとその場を離れたのだった。




 その晩、かくして腕の痒みがひどくて眠れなくなった。暗がりの中何度も寝返りを打つが、あまりにも腕がむずむずして寝付くどころではない。カリカリと腕を引っ掻くが、却って痒みは増し、その痒みは二十分もすると全身に広がって、今までにない不快感を僕に催すのだった。

 どうしようもなく灯りをつけて確認してみれば、全身に火傷のような発疹が赤く広がっている。これは、明らかに異常だ。

 常備している市販の塗り薬を全身に塗りつけて見たもののほとんど効能は見られず、その日はまんじりともせず夜が明けた。朝になっても発疹は治らず、痒みを通り越してひどい痛みが全身を襲っていた。これは流石にたまらない。


 病院に早急に予約を入れようと携帯を探ると、その横に適当に捨て置かれていた名刺が目に入った。

 理由はなんであれ、確かに彼女ーー葵の言う通りになっている。


 かなり迷った挙句、裂傷が我慢できない程度になってきたので、最後の綱を掴む気持ちで携帯に名刺に記された番号を打ち込んだ。



「ふむ、思った以上に進行が早いな」


 結果大学の近くの茶店に呼び出され、一日ぶりに葵と向かい合う。相変わらず得体の知れない不可思議な笑みを浮かべながら、彼女はじっくりと僕の全身を検分した。彼女が服の裾を捲って僕の肌に触れるたびに、その部位がまるでこの世の終わりみたいな痛みを催す。


「仕方ない、今から早急に施術するが、いいかね?」

「施術…? あんた、医者なんですか」

「いや、学生だよ、君と同じくね。本来ならタダではないからちゃんと契約書やらにサインをもらってことに及ぶんだが、まあ今回は特別だ、最初の一回くらいはサービスしよう」

「…」


 やはり怪しげな霊感商法の類だったか。しかしこうなるともう逃げられないし、この痛みから逃れられるなら宗教でもなんでもいい。


 痛みから投げやりな思考に陥る僕に、やはり考えの読めない笑みを浮かべた彼女は、周囲も憚らずに僕の目の前に立った。ジャケットのポケットから今時珍しくなったライターを取り出すと、火をつけて僕の目の前にかざす。


「これを見て。ゆっくりと呼吸をするんだ。吸って…吐いて…吸って…」


 ライターの火を見つめたまま彼女の声に従って深い呼吸を繰り返すと、不思議と痒みが、痛みが引いていく。ぼんやりと霞始める意識の中に、真っ青な空の像がゆっくりと広がっていく。確かに揺れる火を見つめているのに、同時にいつも通り窓から空を眺めているような…。


「何が見えるね?」

「空…入道雲が浮かんでる」

「夏の空かな? 他には何が見える?」

「海。一面の…」


 何か巨大な生き物になった気分だった。僕はそのまま空の眼下に臨まれるその青い青い海に飛び込み、まるでそうすることが当たり前のように尾ビレと背ビレをたなびかせて海の底へ底へと向かっていく。

 やがて、白雪が降り出した。

 これを知っている。マリンスノーと言うやつだ、昔両親と一緒に見ていたテレビのドキュメンタリーで解説されていた。深海を漂う雪のように見えるこれは、無数の微生物の死骸なのだという。しかし、現実の僕の記憶ではない、僕は確かにこの光景を「実際に見たことがある」。


 日のささぬ海底に雪は振り続けた。僕はそれをただただ眺めていた。不思議と体の痛みは消えていて、まるで最初からなかったもののように感じられる。僕の皮膚は海水と接して、ひんやりと冷たく気持ちよかった。


『…そろそろ戻って来なさい』


 誰だ? 誰かの声がする。ああ、ずっとここにいたい。


『ダメだ。そこは“今の“君の居場所ではない』


 嫌だ、もうあんな息苦しい世界に戻るのは真っ平だ。

 何も上手くいかないんだ。周りの人間が自分とは全く別の生き物のように思えるんだ。

 だから、僕はもうこのまま…。


『いけない。君は生きなければならない。なぜなら生まれてしまったのだから。苦しいだろう、何も信じられないだろう。毎日息をするのも辛いだろう。それでも、生きていくんだよ』


 僕は…。


 ハッとして目を開けると、汗びっしょりになった女性が、僕の肩に手を置いている。その女性が「葵」と言う名前で、僕は今なんらかの施術を受けていて、ここは深海ではなく喫茶店だったのだと、徐々に思い出した。

 今までの彼女のイメージを覆すように、眉根を寄せた厳しい表情の彼女は、ようやく焦点を結び始めた僕の視線とかち合って、ふっと安心の息を吐き出す。


「危なかった。君はよほど“向こう“になじみが深いらしい。帰って来られなくなるところだった」

「何が…」

「発疹はそれなりに引いたね。痛みと痒みの方は、どうだ」

「…だいぶマシです」


 葵はその言葉に満足げに頷き、にっこりと笑った。これは心の底からの笑みなのだ、と、なぜか直感する。

 つられたように僕も笑っていたらしい。葵はライターを元通りジャケットに押し込むと、額に滴っていた汗を拭いながら、あの時のようにひらひらと手を振る。


「まあ、これでしばらくは大丈夫だろう。あと二、三回施術を受けてもらって、もう少し繋がりをぼかしておく必要があるが、まああの記憶も君にとっては必要な一部だからね」

「どう言うことなんですか…?」

「うん、前世の君は海で生きた鯨だったようだ」


 まるで当たり前のように言い放った彼女は、それ以上なんの説明もなく、僕の肩をポンポンと叩くと茶店を出て行ってしまった。「一週間後くらいにまたここで」と言い置いて。

 ぼんやりと彼女を見送り、椅子に腰を下ろしていると、その時になって彼女が飲み物の支払いをせずに出て行ったことに気づく。


 やられた。

 まあ、“施術“とやらをサービスしてくれたようだし、数百円くらいは僕が持つか。


 やけに体が軽く、思考も今までにないくらい明瞭に澄み渡っている。その日は倒れるように眠りにつき、ぐっすりと熟睡した。



「やあ、隣いいかな?」


 翌日、大学の食堂で今日も日替わり定食を突いていると、やはりガラガラの食堂内で目ざとく僕を見かけて葵が声をかけてくる。


「…こんにちは。昨日は、その、ありがとうございました」

「やけに殊勝だな、まあこっちも商売だから気にしなくていい。次からは割と高額な治療費を請求することになるしね」

「その割に今日も僕の隣で飯を食うんですね…」

「言っただろう」


 葵は早速今日の獲物である海老カツ丼をかき込み始める。


「“君に興味がある“とね。まあよければ仲良くしてくれ、私はその…友達がいないんだ」


 思わず吹き出した僕をチラと上目遣いに見た葵は、またあの時のようにいとも可笑しそうに笑うのだった。


ーーー

三題噺ガチャ

「日のささぬ海底」

「雪」

「掻く」

より制作

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