電話ボックスを出ると、すぐに右側、すなわち来た方向とは逆側に曲がり、全速力でかけぬけた。

 すると、どこからともなく無数の蠢く手が壁になって俺を取り囲みはじめたが、スマホのライトを向けると、たちまち手が退き、道ができた。


 全力で数秒走り続けると、地面に傾斜が現れ、立ち止まった。

 この先があの世の玄関、さっきは奈落に見えたが、今は溢れんばかりの手に埋め尽くされていた。走るのに夢中で気がつかなかったが、手の動きをじっと見ると、俺を手招きしているように見え、全身に悪寒が走り、ライトを持つ手が震え出した。

 俺は再び大きく深呼吸をして落ち着けると、ガタガタの橋を渡るかのように、一歩一歩ゆっくりと進んだ。


 進んでも進んでも石井の姿は見当たらなかった。五分、十分だろうか、はたまた一時間ほどだろうか、俺は坂道を下り始めてから時間の感覚が薄れ、どのくらい歩いているのかもわからなくなっていた。

 そんなとき、何かが聞こえた気がして、耳を澄ますと、ジリジリジリというラジオの局番を合わせるときのような、聞き覚えのあるノイズが下から聞こえた。この音は探知機からの音で、石井が近くにいることを示していたが、俺が立ち止まるとノイズは徐々に下方に遠ざかっていく。

 俺は探知機が下に引き寄せられていることに気づき、早足で坂を下ると、地面に仰向けで倒れている石井を見つけた。

 彼女の体には、青白い手がまとわりつき、奈落に引きずっては止まって引きずっては止まってと繰り返していた。

 俺は石井に駆け寄ると、石井の体にライトを当てて、青白い手を振り払った。

 石井に声を掛けても返事はなかったが、息はしていることに安堵し、彼女の身体を担ぎ上げようと、腕に手を伸ばした。

 そのとき、スマホのライトがチカチカと明滅を始め、探知機からギギギというノイズが激しく鳴り響いた。明滅していたライトは、徐々に光を失っていき、マッチの火のようなかすかな明かりになっていた。

 闇に乗じて、おびただしい数の青白い手が石井の体を押さえ、再び引きずり始めた。咄嗟に俺は石井の腕をつかみ、反対に引き上げようとすると、青白い手が俺の左足首を掴み、下へ引きずり込んだ。

 体のバランスを崩し、仰向けに倒れた拍子に、手に握っていたスマホが横を向き、ただでさえ小さかった光が俺から遠ざかり、たちまち青白い手が目の前まで迫った。俺の顔を掴もうとすると思いきや、無数の青白い手はピタッと静止した。

 その直後、青白い手の隙間から、青白い女の顔がせり出した。

 女の顔は、三十代くらいで、目の焦点が合わず、口が半開きで、少し痙攣しているようにカタカタと小刻みに震えていて、それを見た俺は、呼吸が止まるほどに体がこわばった。俺が異様な女の顔から視線を外せないでいると、半開きになった女の口は、お…お…と、何かを伝えようとかすかに声を発しようとしていた。

 それを見た俺は、ガチガチと歯を震わせながら、

「お…お前たちは…い…いったい何なんだ…?なんで…こんなことするんだ…」

 と言うと、途端に焦点の合わなかった女の目が俺の目を捉えた。そして、異様だった女の表情は途端に口角が上がり、目が線のように細く、ニタァとした不気味な笑顔に変化し、女は「おいで」とゆっくりと口にした。


 この女の笑顔は、純粋な悪意、他人の不幸に対する喜びであって、女の薄汚い欲求を満たすために俺たちが弄ばれていることを知った。

 俺はこの世ならざるものたちの人間らしさ、生々しさを感じると、恐怖よりもむしろ憤りが勝り、これまでの愚行への仕返しとして、女の顔に唾を吐きかけ、にらみつけた。

「…ざけんじゃねえ」

 すると、笑顔だった女の表情はスッと無表情に変わった。もはや対話など必要なく、女の表情は俺への敵意の現れであるとわかった。

 女の顔が無数の青白い手の中に戻り、掴まれた俺の左足が、より一層強い力で下に引っ張られた。

 俺は石井の身体を抱き寄せると、地面にかかとを立てて、引きずり込まれないように抵抗し、おのずと大声を上げてしまうほどの強い力を込めると、左足を上に引き上げることができた。

 なんとかなりそうだと安堵した瞬間、青白い手が次々と俺の左足に伸び、俺はあっと声を上げた。

 抵抗の余地はなく、俺と石井の身体は強引に引きずり込まれた。

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