曲がり角
かいばつれい
曲がり角
琴江夫人は日課の散歩から帰る時、自宅へと続く曲がり角の右を非常に注意深く曲がるのが常であった。
隣に住む男の子が遊びに行くのに、いつも飛び出してくるからである。
一応、角の電柱にカーブミラーが取り付けられてはいるが、男の子の身長と自身の曲がった腰のせいでミラーに微妙な死角ができていた。
そのため、彼女はいつも曲がる前には必ず立ち止まり、走ってくる者がいないか待ってから曲がるのである。
「今日はまだ学校から帰ってきてないようだね。良かった良かった」
男の子が小学校に上がったばかりの時ほど寿命が縮む思いをしたことはないだろう。
あの時は毎日、友達の家へ遊びに行く男の子とぶつかりかけて、その都度肝が冷えた。
それでも琴江夫人が男の子の両親に抗議しなかったのは、彼が所謂、鍵っ子であることに同情していたからだろう。
両親は彼が眠るまで帰ってこないことを夫人は知っていた。
それ故に男の子は友達と遊ぶのが寂しさを紛らわす方法のひとつであり、友達と早く遊びたいという衝動に駆られて駆け足になるというのも自然の流れであると夫人は考えた。
だが、左右確認をせずに曲がるのは危険なので、夫人は走り去る男の子の背に向かっていつも同じことを言うのだった。
「いきなり飛び出してきちゃ危ないよ。ちゃんと止まって右と左を見るんだからね」
「ごめんなさい。気をつけます」
男の子は振り向かずに答える。
それが夫人と男の子の日常だった。
「最近はあの子とあまり会わないから怖くないけど、一度身についた癖は中々直らないもんだね」
立ち止まって誰も来そうにないと思い、夫人が角を曲がったその時、夫人の隣の家から学生服を来た少年が出てきた。
「こんにちは」少年は夫人に軽い挨拶をした。
「こ、こんにちは」夫人は初対面であろう少年に声を掛けられたので少し驚いて返した。
一言だけ挨拶をすると、少年は夫人が来た角を落ち着いた足取りで曲がっていった。
「あのお宅にあんな大きな子いたかしら?」
自宅の門の前でプランターに水をやっていた家政婦が夫人の帰宅に気づいた。
「あら、お帰りなさい奥様。お散歩どうでした?」
「今日も暖かかったわ。ねえ市原さん、今お隣から学生服の子が出てきたんだけど、お隣の子にご兄弟いたかしら?」
夫人は家政婦の手を借りて家へ入った。
「まあ、あの子は奥様がよくぶつかりそうになってた男の子ですよ。今年の春から中学一年生ですって。最近は、学校から帰ると図書館に勉強しに行くんですよ。私によく挨拶してくれるので直接聞いてみたんです」
「中学生?もうそんなに大きくなったの」
夫人は男の子の成長の早さに驚いた。
「よくお聞きになりませんか?余所の子供は大きくなるのが早いって」
お茶を淹れながら家政婦は言った。
「そうねえ。確かによく聞くけど、見違えるほど立派になったものだから、私びっくりしちゃって」
「月日が経つのは早いですわね」
「ほんとにねえ」
二人はお茶を飲みながら、時の流れの早さをしみじみと感じた。
「でもなんかちょっと淋しいわね」
「奥様?」
「あの元気に駆けてくる男の子の姿がもう見れないと思うと、ね」
夫人はそう言うと、お茶菓子の塩羊羹をひと切れ口に放り込み、ゆっくりとお茶を飲んだ。
曲がり角 かいばつれい @ayumu240
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