35,泥棒
考える間もなく、体を方向転換させた。
「大丈夫⁉︎」
「う……」
よかった、息はあるのね……!
声からして男のようだ。
うつ伏せで倒れているため、顔は見えないが気を失っているのだろうか。しゃがんで背中を摩っても、呻き声しか返ってこない。
「どうしましょう……。そうだわ、水を飲ませたらいいのかしら」
もしかすると、以前の自分のように日射病になってるのかもしれない。
こういう時の為の水筒よ!
持っていたカバンを下ろすと、重くぶら下がっていた水筒を取り出した。
付属のコップに水を注ごうとすると、視界の端で人間が動いた。
「お人好しのお嬢ちゃんだな」
「え?」
水を注いで、さあ一気にどうぞと言いたかったのに。
男は私のひざ元に置いてあった鞄を奪うと、路地裏の奥に走り出してしまったのだ。
「元気じゃない」
なんだったんだ?
元気ならいいんだけど……。
遠ざかっていく男の後ろ姿を見送っていると、頭上に影が落ちてきた。ドロシーだ。
「何やってるんですか‼ 追いかけないと‼」
「え、でもすごく元気そうよ? 余計なお世話だったかしら」
「何悠長なこと言ってるんですか!
あいつ、泥棒ですよ‼」
「そんなわけ「じゃあなんで姫様の鞄を持って行ったんですか‼ あの中には諸領主様のおつかいの商品が入っているんですよ⁉」あっ‼」
顔色が変わったのが、自分でもよくわかる。
思い返すのは、ダミアン様の注意する声。
「寄り道も厳禁だからなー」
ま、まずいわ。
おつかいの品を失った上に、寄り道していることがばれたら信頼がゼロどころか、マイナスよ‼
そうなったら今後の私の作戦が……‼
「ドロシー‼ あの男は何処⁉」
「あそこです‼ ああっ……逃げられてしまう‼」
「絶対に逃がさないんだから‼」
こんなところで台無しにされてたまるものか。
こちらに向ける背中は、まだ遠くないが今の私は走れない。
ならば、取るべき行動は一つ。
「〈止まれ〉」
「っ⁉」
人魚の持つ声の一つ、呪いの言葉。そこ言葉をかけられたものは、人間だろうと無機物だろうと呪いを受ける。
人魚達が敬遠される理由の一つでもあり、〝あの子〟を怖がらせた忌まわしきものでもある。
故に普段ではめったに使うことのない力業だ。しかし今は非常事態。
人間の姿になっても、呪いの言葉使えることだけは、父上に感謝ね。
「な、なんだこれ!」
「〈黙りなさい〉」
この男の命は、私の掌の上なのだ。
「これが、姫様の呪いの言葉……」
「あら、初めて見たかしら」
「だって普段使わないじゃないですか!
はー……やっぱり王族の方は強い言葉が使えて凄いですねー……」
「そうよ。その分簡単に命だって奪うことができる。
ドロシー、そこで待っていなさい」
黙りこくってしまったドロシーを尻目に、固まる男の元へ足を進める。
ああよかった、荷物は捨てられていなかったようね。
「……よかった! セレンディッド様の商品は無事ね!}
「……」
「それで、貴方はどうして私を狙ったのよ」
「……」
「とろとろ歩いてる女だから狙いやすかったのかしら?
だからってセレンディッド様の領地でこんなことをするなんて、許されるとでも? この不届き者!
でも安心しなさい、こんなことで命を取るような真似はしないわよ。
でも衛兵さんには突き出してやるんだから! ……ちょっと、さっきから何を黙っているのよ」
「(姫様ー! その男、呪いがかかったままですよー‼)」
あ。
興奮ですっかり忘れていたわ。
でも走り出されたら確実に逃げられるわね、口だけ動かしてもいいように呪いを解除しましょう。
呪いを舌の上にセットして、吐き出そうとした時だった。
「んぐっ!?」
「っぶねェ‼ 間一髪だな‼」
背後から、誰かに口を塞がれた。
「へへっ! 口を塞いでしまえばこっちのもんなんだろ⁉
おい、いつまで固まってんだよ‼」
「んんー⁉」
しまった、後に仲間がいたの‼
振り解こうにも、力が強すぎて振り解けない。
「クァー!」
「(ドロシー……‼︎)」
今まで上空で見守っていたドロシーが、翼をはためかせて猛スピードで突っ込んできたのだ。
男の顔面をその翼で引っ叩くも、屁のつっぱりにもならない。
「へへっ……こいつを連れて帰ればがっぽり大もうけなんだよ! 大人しく付いてこい!」
売る気か。咄嗟に思い浮かんだのは見世物小屋だ。
地上では少し変わった風貌をしている人間がいると、拉致されて売り飛ばされると聞いたことがある。
まさか自分がそんな目にあうなんて!
「むーっ! むぅーっ‼」
「お前なんざ口を塞いでしまえば、ただの小娘なんだよ‼ 大人しく売り捌かれちまえッ‼」
「んっ……⁉︎」
口を、塞げば……?
体を持ち上げられ、とうとう連れ去られる。そう覚悟を決めた時だった。
「――か弱い女の子に何してんのさ」
「ぎゃッ‼︎」
「んぅっ‼︎」
軽い衝撃で、体が浮遊感に襲われた。
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