02,高貴なるほっぺ


「おはよう」

「ひ、姫様……⁉」


 自室から一歩出ると、この神殿に仕える一匹の人魚と出くわした。ソバカスが散らばり、赤毛を後ろで一本の三つ編みに纏めた彼女の名前はドロシー。

 私の身の回りを世話する侍女の一人だ。

 そんな立ち位置だというのに、使えるべき相手を見つけたその顔と言ったら。まるで幽霊船の中に潜む亡霊を見たときのようだ。


 周りの侍女や使用人まで、ドロシーと同じ表情だ。


 わかる。言いたいことは言葉にしなくても伝わってくるぞ。

 腕を組んで少々顔を上に向けた。


 そう、ドヤ顔である。


「私が早起きしたらそんなに吃驚する?」

「するに決まっているじゃないですか‼ いつもは私が起こさなければ日が落ちるまで睡眠を貪っていると言いますのに……‼ えっ、どうかしたんですか、もしかして影武者⁉」

「か、影武者……って、失礼ね! 私だってやるときはやるんだから!」

「本当に‼ 本当にあの姫様ですか⁉」

「やけに本人確認がくどいわね……」


 逆の方向で信頼が厚いと、こういうときに苦労するのか。


 ドロシーの指が私の頬を目掛けて伸びてくる。

 この子、私の頬を抓る気ね⁉ 冬場の生牡蠣と称される、この私の頬を‼


 そうはさせまいと攻防戦と繰り広げていると、ヌッ……とドロシーの背後から人影が現れた。


「姫様……」

「あ、お、おはよう……‼」

「一回‼ 一回でいいので‼ 姫様のモチプニほっぺ触らせてください‼」

「嫌に決まっているでしょう⁉」


 正体は乳母のバードット夫人だ。

 白髪交じりの髪を後ろで一つにひっつめ、モノクルをかけている。


 そんな彼女も、もちろん人魚。


 ようやくドロシーを抑え込み、勝利が確定したところで気が付いた。

 何故かバードット夫人が肩を震わせている。


「ようやく……っ……ようやく‼ 決心が着いたのですね‼」

「はぁ?」


 なんのことだ?

 数年ぶりに早起きしただけで何が決心に繋がる?


 バードット夫人に肩を掴まれ、前後に激しく揺すぶられる。


「わたくしは信じておりました‼ ええ、ええ‼ 姫様も立派な大人ですもの‼ いつまでも神殿に引き籠もって大王様の臑を囓っているだけのプータロー姫なわけありませんものね‼」

「プ、プぅ……⁉」

「あ、バードット夫人、いつも影で姫様のことそうやって呼んでいましたよ」

「そうなの⁉」


 このタイミングでまさかの暴露である。


 影でそんな臑囓りのプータロー姫なんて呼ばれていたとは……事実ではある。そして今後も囓っていく予定だ、ここで変に言い返すと今後に響く。

 よし、聞かなかったことにしよう。


「いたたた~……もう、姫様ってば見かけによらず決め技は凄いんですからぁ……」

「護身術よ」


 私の腕から解放されたドロシーが、少し乱れた髪を整える。

 よし、今日も生牡蠣ほっぺを守ったわ、そう簡単に触らせてたまるもんですか!


「それで、本当に今日はどうしてんですか? 朝食……昼食? ならいつもの姫様の起床時間に合わせて用意しているので、まだ準備が出来ておりませんよ?」

「食事は後でいいわ。今日は今から大切な用があるの」

「用⁉」

「ドロシー、貴女は本当に……はあ……」


 従者にここまで言わせる自信の引きこもりっぷりが原因なのだ、そうだ、仕方の無いことだ。

 おいおいと泣くバードット夫人を慰めながら、ドロシーが首を傾げた。


 何故だろう、「いつも部屋の中にいるばかりで禄に客人も来ない姫様が部屋の外に出るくらい大層な用事があるだなんて、明日は海底火山でも噴火するんじゃないですか⁉」と副音声で聞こえてくるようだ。

 なんだかやるせない。


「……昨日の夜、父上に呼ばれたのよ」

「だ、大王様に⁉」

「ドロシーはお使いに行っていたから聞いていないかもしれませんが、それはもう大剣幕だったのですよ‼ いつもいつも、姫様と来たら大王様の呼び出しを無視するものだから、とうとう昨日の晩に堪忍袋の緒を切らしたのです‼」

「明日の朝来なかったらどうなるか、わかっているだろうな? ですって。もの凄く怖かったのよ⁉︎」 


 あ、これもわかるわ。どうせ「自業自得っスよ」とか思っているんでしょうね、まあそうなんだけれども。


「今日は姫様の記念すべき日になりますわ! もしかしたら祭日として新たに歴史に刻まれるかも……‼」

「バードット夫人? さっきから何を言っているのかわからないんだけれど」

「わたくし、姫様の決心をしかと見届けさせていただきますわ‼ ドロシー! あなたも着いていらっしゃい!」

「は、はい~‼」


 一体何が彼女をここまで高揚させているのだろうか。


 手首を掴まれると、水鳥が魚を捕まえる早さと良い勝負で、バードット夫人に大広間まで連れて行かれたのだった。



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