第7話 歪な四角関係

 倫太郎は、二人から好かれたことで、今までにない何か、ソワソワした気持ちになっていた。

「こういうのを女性を好きになった感情というのだろうか?」

 と感じた。

 以前に女性を好きになったことがあったはずなのに、その感覚を忘れてしまっていたのだ。

 それまでに好きになった女性は確かにいたはずなのだが、もし、今その人が目の前に現れたら、その時と同じ気持ちになれるであろうか?

 考えれば考えるほど、分からない。完全に忘れてしまっているのだから、他の女性に対して、ソワソワした感覚を抱いたからと言って、それが人を好きになったということなのかどうか、分からなかった。

 綾香と、あいりとはまったく違ったタイプである。その二人から同時に近寄ってこられたのだ。華やかに見えるのは明らかに綾香の方だった、あざとさのようなものも、嫌いではない。

 あいりに関しては、近寄ってきた今までの女性とは、何かが違っているが、何が違うのか分からなかったのだ。

 倫太郎がその時一番頻繁に会っていたのは、あいりや綾香と同じクラスの女性だった。

 彼女は、自分が倫太郎を独占で来ていることに自己満足を感じていた。恋愛感情があるわけではなく、

「チャラいけど、イケメンと付き合っているということがトレンドになる」

 という意識だけで一緒にいたはずなのに、最近では、一緒にいることで、自分が彼に慕われているという感覚になってきた。

「将来の夢は、保育士になること」

 と言っているほど、子供が好きで、慕われることが一番嬉しいと思っていたのだ。

 それを感じたのは、高校生の頃に、デパートで迷子がいたのを、たまたま一人で買い物をしていた彼女が見つけ、総合案内所に連れて行ったことがあったのだが、その時、それまで泣いていたその男の子が、母親の顔が見えるか見えないかという時、何に気づいたのか分からないが、

「お母さん」

 と言って、すぐに反応した時だ。

 すぐに泣くのをやめて、笑顔になった。母親が子供の顔を見た時は、それまでその子が泣いていたなどということが分からなかったくらいだ。

 それを見た時、子供がすごいとも思ったが、子供にそこまでの感覚にさせるというのは、母親の母性が、そうさせるのだと思うと、感動した。

 自分も自分の子供以外にも、同じような思いをさせられればいいと思って、保育士を目指したのだ。

 実は、本当は子供が好きだったわけではない。その証拠に、その子が泣いて近づいてきた時も、

「うわぁ、こっちに来ないでくれ」

 と思ったほどだった。

 厄介なことに巻き込まれるのは嫌だという思いが露骨にあり、その子の前でそんな露骨な表情をしてしまった時、さすがに、

「しまった」

 と感じた。

 その子は、さらにベソをかいたような表情になったが、それは明らかに、彼女の表情がそうさせたのだろう。

 だが、その子はすぐに彼女を慕うようになった。ひょっとすると、ここで彼女に見捨てられてはいけないという、子供ながらの本能から、媚びを打ったのかも知れないが、

「しまった」

 という後ろめたさもあったことで、厄介なことを感じるというよりも、その子が自分を慕ってくれていると思ったのは、母性が芽生えたからだったのかも知れない。

 子供の手を握ってあげると、子供は手を握り返してくる。まるで、自分がその子になって、母親の手を握り返しているかのような感覚になったからだ。

 母親からの愛情をあまり感じたことがなかっただけに、なぜか手を握った時などのような感覚しか、母親には感じなかったのだが、今から思うと、母性を急に感じるようになったのは、あまり母親から直接的な愛情を受けていなかったからではないかと感じたが、それも間違いではなかったような気がする。

 彼女は、倫太郎が綾香か、あいりのどちらかを意識していることは分かっていた。

 倫太郎と付き合っていることを、なるべくまわりに知られないようにしていたが、それは深い仲で、という意味で、倫太郎が複数の女性と交際をしていることは公然の秘密だったこともあって、彼女としては隠しやすかったのだ。

 彼女は、倫太郎の本命は、あいりだと思っていた。まわりのほとんどの人は、あいりと綾香では、綾香の方だろうと思っている。

 あいりは、自分のことを好きになる人は、女性であれば、すぐに分かると、倫太郎に話していた、そして、その人が自分のまわりにいることも、仄めかしている、だが、それが誰かということまでは言っていなかったが、倫太郎の彼女は、それが自分だということを悟っていた。

 明らかにあいりの彼女を見る目は違っていた。自分を慕っている目だということが分かったのだ。その視線は誰に対しても浴びせるものではなく、真正面から見なければ、その感情は分からない。あいりは他の人には、絶対に正対しようとはしないが、彼女にだけは正対しようとする。まったく態度が違うのだ。

 倫太郎に対しても正対しようとしない。それを思うと、倫太郎の性格からすると、自分に近寄ってくる女性が、自分を正対しようとしないなどありえないという感覚が、彼のプライドに火をつけていたのだ。

 だが、これは別にあいりが、倫太郎の気を引きたいがためのあざとさではなかった。それをあざといと感じていたのは、綾香だった。

 綾香は、お互いに倫太郎を中心に、正対した形で同じ高さの目線にあった。その目線がお互いの感情を高ぶらせ、ライバル以上の意識を感じさせるのだった。

 あいりは、倫太郎を中心とした三人の女という構図の中、一人だけが、三人三様で注目を浴びていたのだ。中心でもない人間が、偏ったかのような視線を浴びるというのは、どこか歪な関係を想像させる、この四人には、

「男女関係における四角関係以上の何かが存在しているのだ」

 と言わざるおえないのだろう。

 この三人からの、三人三様の視線の中で一番強いのは、倫太郎からであった。

 綾香に対してとあいりに対しての、どちらに自分の視線が強いかということがハッキリと分かっていないのに、視線を感じているあいりには、痛いほどの倫太郎の視線を感じたが、浴びせている自分に意識がないのは、あいりが、「くらげ」だと言われるゆえんではないだろうか。

 透き通って見えるだけに、くらげの身体は中の白い部分に反射して、見ている方は見えているのに、反射の意識はあっても、自分が気にしているという意識はない。まるで路傍の石のようだが、路傍の石は、見えているのに、意識しないという感情であって、倫太郎があいりを見ているのは、逆に、

「意識しているのに、見えていない感覚だ」

 というものであった。

 だから、意識しながら、その意識がどこから来るのかを相手に悟らせないのだった。

 逆にあいりの方が意識して見ているのは、倫太郎ではなく、その向こうに見えている、

「倫太郎の彼女」

 だったのだ。

 あいりは倫太郎の彼女をじっと見ていた。綾香は、あいりが何かを気にしているのは分かっていたが、それが何なのか分からなかった。綾香は倫太郎のことを気にするようになった瞬間、自分の目の前に現れたあいりという女性をライバル視するようになっていたが、あくまでもライバルというよりも、好敵手という感情がふさわしいのかも知れない、

「もし、倫太郎さんがあいりさんを選ぶのであれば、私は素直に引き下がることができる気がする」

 と感じていた。

 だが、あくまでも同じ時期に気になった相手なので、何もせずに引き下がることはしない。それだけに、あいりのことを、

「相手にとって不足なし」

 というくらいに感じ、倫太郎に対してのアピールを忘れないでいた。

 まわりから見ていると、

「メデューサの首」

 を感じさせるのではないだろうか。

 顔と頭の部分は倫太郎であり、その頭から生えているヘビの部分は、自分に寄ってくる女たち。

 メデューサの特徴は、

「目を見ると、石になってしまう」

 というものである。

 その石は、路傍の石をは違っている。それを考えると、

「意識しているのに、見えていない感覚だ」

 とあいりに感じたのも、この

「メデューサの首」

 という発想から来ているのかも知れない。

 しかもメデューサというのは、死んでもその力を失うことはない。首を跳ねられても、目の力で目の前のものを石に変える力があるというのだ。

 古代神話において、英雄ペルセウスが、メデューサの首を使って、怪物をやっつけたという伝承が残っているが、それを思い起こさせた。

 あいりは、そのことをずっと感じていた。

 特に、倫太郎に対してではなく、その彼女に対してであった。

 その時、

「必ず自分は行動範囲の中で、ほとんどの異性と会っている。その中で自分のことを好きになってくれる人が分かるようになる。自分から告白してはいけない。相手に必ず告白させる。自分から行けば失敗する。なぜなら自分から行くと、相手に自分の後ろから見られるからだ」

 と感じているのを思い出した。

 そして、自分がこの感覚から、自他ともに、クラゲとして自分を見ているということも感じていた。

 そして、自分のことを本当に好きになってくれた相手というのが、倫太郎の彼女であるということが分かったのだ。

 だが、成就するには、自分から告白できないとう感情があった。自分のことを好きになってくれているのを分かっていて、しかも、自分も意識しているのに、自分から行ってはいけないということがどれほど辛いのかということが分かった気がした。

 倫太郎を気にするようになったのは、ある意味フェイクであった、倫太郎の後ろにいる彼女を見るために、まずは正面の倫太郎を意識した。それを倫太郎は自分への視線だと思い、今までに感じたことのなかった感情を浴びたのだったが、同じ時に一緒に感じたのが綾香からでもあった、

「まるで示し合わせたようだな。もし、どちらかが示し合わせたとすれば、綾香かな?」

 と感じたが、それが間違いであるということに気づかないことから、どちらを自分が好きなのかを決められないという情けない感覚になっていたのだ。

 綾香は自分で自分を分からなくなっていた。

 今まで、親の不倫で散々な目に遭ってきたこともあって、あまり男性と長続きしたことがなかった。

 その理由はいくつかあったが、その中には、

「二股を掛けられたりしているのが分かると、自分から引き下がってしまう」

 というのがあったからだ。

 さらに、飽きられやすいところがあるという自覚もあることから、男性とは長続きをしないと思っていたのだが、自分が母親と似ていると思った時から、父親の不倫が分かった時、母親の気持ちになってみたりもした。

 その時、母親が不倫を父親だけがしていたと言って、離婚したのは分かっていたが、慰謝料も、養育費もなかったことがよく分からなかった。

 少なくとも不倫が理由で別れたのであれば、慰謝料の請求は当然の権利であり、養育費までもないということは納得がいかなかった。

 自分も母親も、

「男から飽きられやすい」

 ということが分かっていたので、何となく母親も不倫をしていたことも分かっていた。

 あれは、離婚してからしばらくして、素性も分からない、怪しい男と付き合っていたことがあった。

 生活に疲れてのことのようだったが、その男が一度、綾香に襲い掛かってきたことがあった、綾香が必死になって叫び声を挙げたので、何もされずに済んだのだが、その時の男の台詞として、

「ふっ、お前も母ちゃんと同じで、飽きっぽい身体しているんだろうな、一回くらい抱かせてくれてもいいじゃないか。それで終わりにしてやるぜ」

 という訳の分からないことを言っていた。

 その男はその時、母親と喧嘩して、母親から罵声を浴びせられ、泥酔した状態で戻ってくると、たまたまそこには娘の綾香しかいなかったということである。

 男はそれからすぐに母親とは別れたが、何があったのか、母親も勘づいているはずなのに、母親は綾香に何も言おうとしない。

「あの男とは別れた」

 という一言だけでもいいのに、それが言えないのは、やはり、綾香に詮索されたくないという思いからであろうか。

 もし、自分が母親の立場だったら、そう思うかも知れない、綾香は母親に似ていると自分で思っていた。最初は父親に似ていると思っていたが、二人が離婚して母親と二人になると、実は本当に似ているのは、母親の方だったのだと自覚したのだった。

 結構親子で話をするくせに、いつも肝心なことはいわない。それは、綾香も自覚していたことだ。

 本当は母親に相談するのが一番手っ取り早いと思うことでも、なかなか相談することができない。

 その理由は、

「一言多い」

 からだった。

 最後の一言を言わなければそれでいいのに、どうしていうのか分からない。これは綾香にもあることだった。

 あれは、中学時代だっただろうか。唯一中学時代に、グループを作っていた時期があった。

 四人グループだったのだが、結構仲は良かったと思う。その中の一人が、障害を持っていて、子供の頃から身体の一部がマヒしているようで、どうやら、薬害被害者のようだった。

 たまに癲癇を起こすこともあり、友達の後の二人はそのことをよく分かっていたようだ。綾香はそのことを知らなかったので、ある日、四人で下校している時、その友達が発作を起こし、痙攣してしまったのだ、

 他の二人は冷静に、救急車を呼んだり、彼女の母親や学校の先生に連絡を入れていたようだが、綾香は何が起こったのか分からず、ただ見ているだけだった。

 救急車がすぐに到着し、二人のうちの一人が一緒に乗り込んで病院に向かった。もう一人の友達は、救急車でどこの病院に運ぶのかということを連絡するために残ったのだ。

 二人は実にうまく立ち回った。ただ、何もすることができなかった綾香は、自己嫌悪に陥ったのだが、何よりも気になったのが、

「自分だけが何も知らなかった」

 ということだった。

 すべてがうまくいき、その日は、それで解散ということになったが、何か翌日から気まずくなってしまった。

「どうして、私だけが知らないの?」

 と聞くと、

「前に彼女が痙攣を起こした時に一緒にいたのが、私たち二人だったのよ。その時に彼女のお母さんからね、対処方法などを教えてもらったので、今回はうまく立ち回れたということなの」

 というではないか。

「でも、私と一緒の時もあるじゃない。その時はどうすればよかったというの?」

 と聞くと、

「綾香と二人きりにならないように、気を付けていたの」

 というではないか。

「どうして? それじゃあ、まるで私が役に立たないみたいじゃない?」

 というと、

「申し訳ないけど、そういうことになったのよ。あなたの今までの行動や言動から、二人きりにしてしまうと、きっと慌ててしまって、何もできない。それどころか、まわりに間違ったことを言いかねないと判断したから、あなたには教えなかったのよ。いい? これは命に直接かかわってくることなの。中途半端な気持ちで関わるなら、関わらない方がマシだという世界なのよ、それが綾香には分かってる? 分かっていなかったら、関わってはいけないのよ」

 ときつい口調で言われた。

 さすがに、その通りだとその時は思って、反省をした。しかし、反省はしたが、納得できることではなかった。

「いくらなんでも、目の前であそこまで自分を否定するなどありえない」

 と思うと、何が一体中途半端に見えるのかと思うと、その時、母親の態度を思い出した。

「そういえば、お母さんも、まわりの人に対しておせっかいを焼いて、結局、余計なことをしてしまうような形になって、まわりから疎まれているような感じがするわ」

 と思うと、自分がその母親に似ているのではないかと思い始めたこともあって、母親のような性格を、友達が見ているのを想像すると、

「確かに、この人だったら、中途半端に見えるかも知れないわ」

 と感じた。

 しかし、だからと言って、友達を許す気にはなれなかった。次の日から気まずくなってしまった。発作を起こした友達に対して、どう接していいかも分からない。さらに、面と向かってあそこまで暴言を吐かれてしまうと、いかにも、

「もう、あなたなんか友達とも思っていないわ」

 とでも言われたような気がして、ぎこちない中、自分が合わせるなどということはプライドが許さなかった。

 次第に三人から離れていき、孤立してしまった。

 後の三人は、最初はそれなりに付き合っていたが、やはりぎこちなくなったのか、しばらくして分裂してしまったようだ。

「やっぱり、綾香を含めた四人だったからバランスが取れてよかったのかな?」

 と、一人が言っていたということを聞いたが、綾香は、

「ざまあみろ」

 としか思わなかった。

 友達関係において、一人が離脱したからと言って、すぐに分裂してしまうような関係は、、本当に四人というバランスがよかったのか、綾香がいることで、一足す一が、三にも四にもなっていた関係だったことを、ぎこちない形で、最後は相手を罵るという形で終わってしまったことが、しこりになったとも言えるだろう。

「綾香はいつも余計なことしか言わないような気がしていたんだけど、綾香が言っていたことって、意外と的を得ていたとは思わない?」

 と、綾香が離脱したことで、関係が崩れたと思っている女の子が言った。

「確かにそうかも知れないけど、そういう子がいるだけで、和が乱れるというのも確かなことだと思うの。だから私は綾香が嫌いだったし、綾香から好かれたいとは思わなかった。むしろ、どうしてあの子が私たちの中にいるのか分からなかったくらいよ。私があの子を避けていたの、気付かなかった?」

 ともう一人が言った。

 確かに綾香の方では気付いていた。三人の中で一人、

「めっちゃ、自分をガン見してくる人がいる」

 という感じであろうか。

 見られていて、これほど気持ちの悪いものはなかったが、綾香の方もなぜ、彼女が輪の中にいるのかが分からなかった。

 綾香は、

「もし、離脱した人が自分ではなくて、その子だったら同じように分裂したのかも知れないわ」

 と感じた。

 お互いに嫌いではあったが、どこか引き合うものがあったのだろう、それがもう一人の彼女を中心にバランスを保っていて、一人を中心に、この時も、

「歪な四角関係」

 と描いていたのだろう。

 その時、自分が歪な四角関係の中にいることから、自分が表から見ると、さぞや嫌な性格であることが分かった。

 そして、この性格がどこから来ているのかと思って、自分のまわりを見渡すと、一番嫌いな人が誰かということに気づいたのだ。

 今までもウスウスであるが気付いていたのだが、その時にハッキリと、

「母親の性格だ」

 と思ったのだ。

 母親もきっと、主婦たちの間に入って、自分一人が浮いてしまっていて、下手をすれば、いつも貧乏くじを引かされているのかも知れない。

 しかも、皆からは嫌われていて、あたかも、

「踏んだり蹴ったりの状態だ」

 ということになっていたのではないだろうか。

 その時は、父親の不倫にも嫌気がさしていたので、今までは主婦連の中で解消しようと思っていたのが、逆にいいように使われて、精神面でも自分でコントロールできなくなっていたのだろう。

 それを本人は分からない。だから、密かに自分も不倫をしたのだ。これがバレてしまうと、もう自分の居場所はどこにもなくなってしまうと思ったからだろう。ある意味追い詰められていたと言ってもいい。

 そんな母親の一番近くにいつもいたのが綾香である。母親のことを分からないわけもないではないか。

 自分が母親と似ていると感じたのは、歪な四角関係によるものだったのだろう。

 そんな母親が一言多いと感じたのも、自分が中学生の頃だった。

 町内会の会合に、週に一度出席することで、夕飯は一人になってしまっていたことがあったが、その頃の母親は、まだ地域への貢献には積極的だった。

 本音は、父親の不倫というのもあったが、

「複数の人間の中に埋もれていると、嫌なことが忘れられる」

 というものであった。

 確かに、たくさんの人の中にいて、自分が歯車のようなものだと思うと、感情を持つ必要などなく、気が楽になれるというものだ、

 楽しいことを考えても、それは勝手な思い込みであって、誰に迷惑を掛けるわけでもない。

 達成できないことを勝手に想像するのも、自分がそれでいいなら、別に嫌でもないだろう。

 母親もきっとそう思っていたに違いない。

「悪い方に考えれば考えるほど抜けられなくなる」

 というのが鬱状態であり、そんな状態になりかかっているのを分かっていたのだろう。

 しかし、鬱状態になると、思ったよりもきつかった。最初は。

「自分が鬱状態になることで、自分がまわりに悪いことをしていたとしても、言い訳になるというおかしな理論を持っていたのだが、絶えず、保険をかけているというだけのことであって、言い訳にはなるが、自分を納得させるわけではない」

 と感じていた。

 だったら、逆に、

「いい方に考えれば考えるほど、いい方に向かっていくのかも知れない」

 とも感じられた。

 それを躁状態というのだろうが、ただ、気になるのは、

「躁状態の後には鬱状態」

 というスパイラルがあるのではないかというものだった。

 スパイラルというのは、らせんという意味のようだが、その言葉を聞いた時に感じたのは、

「バイオリズムのグラフ」

 だった。

 プラス域とマイナス域を繰り返す波目のような線を描く、バイオリズムとは、三つの線である、

「知性、身体、感情」

 の三つが微妙にずれた形で同じカーブを描いて、その中で、三つが重なるところがちょうどその人の絶頂期に当たるというものである。

 バイオリズムのグラフを見た時、らせん状になっている形は、まるで躁鬱症のようなものではないかと思い、同じらせんが二重になっているのを感じた。

 それは、片方が上り専用であり、もう片方が下り専用である。

 しかし、それを考えていくと、必ず上限と下限で接していなければならず、それがバイオリズムの三つの線が重なっているところだと思うと、どちらも、頂点であり、底辺もある意味、頂点だと考えると、鬱であっても、その時に感じたことは、決して忘れてはいけないことだと思えてくるのだ。

 躁鬱症では、鬱に入る時、躁状態に入る時と、それぞれ分かるものだという。

 どっちが分かりやすいのかと考えた時、鬱をトンネルに例えると、躁状態になる時の方が遥かに早く分かるのではないだろうか。

 躁状態が日の光であるとすれば、暗闇に入り込んでくるのは、微妙な光であっても、分かるというものだ。

 だが、鬱状態に入る時というのは、真っ暗な中に突然入っていくもので、気が付けば真っ暗だったということもあり、一歩間違えると、足元が抜けてしまって、奈落の底に落ちてしまうのではないかという恐怖が襲ってくるのだった。

 真っ暗であれば、その場所が狭いのか、高いところなのか分からない。高所も閉所も一緒になっているということから、

「暗所恐怖症は、三大恐怖症の中でも、ある意味で一番怖いものであり、怖くないものなのかも知れない」

 と感じた。

 三つすべてを兼ね備えているということは、逆にいえば、それぞれを三分割したのと同じだと言ってもいいだろう。

 そう考えると、

「怖さが三倍になるかも知れないが、分散されて、三分の一になっているかも知れない」

 と言えるかも知れない。

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