第5話 くらげ


 綾香の大学の同級生に、少し変わった女の子がいることを、綾香はあまり気にしていなかった。そもそも、初めての彼氏ができてから、彼女の視線は男にしか向いていなかった。友達をたくさん作ったのに、彼氏ができたとたん、男子にばかり視線を向けていた。

 男子は綾香のそんな視線に気づいているわけではなかったが、女性からみれば、これほどあざとく見えることもなかった。

 そんなところからも、男性に対してあっちについたり、こっちついたりしているように見えて、

「コウモリ」

 と言われているのを、彼女のそんなところだと思っている人も多かった。

 彼女がコウモリと言われるゆえんは、

「男子ばかりしか意識せず、男子の生き血を吸う」

 という意味で、男女が逆になっているが、女ドラキュラとでもいうべきか、そんな存在から、彼女のことを、皆が、

「コウモリ」

 と呼んでいると思っている人も少なからずいた。

「コウモリ」

 と言われて、卑怯なコウモリのイメージなのか、それとも、吸血鬼「ドラキュラ」のイメージなのか、まったく違う感覚であるが、どちらも、あまりいいイメージではない。結果として、人知れず、暗くジメジメしたところに生息していて、その姿をまともに見られることがないというイメージに結び付いているのだった。

 綾香を見た男性は、

「あれだけ綺麗で、目立っているのに、そんな彼女のどこがコウモリだというのだ?」

 という発想から、実際の生態系や形状よりも、完全に伝説でしか考えていないことは分かっている。

 では、卑怯なコウモリのように、そんなにあっちにこっちに都合よくいい顔をしているように見えるかと言われると、別に彼女に、パシリがいるわけではない、

 かといって、吸血鬼「ドラキュラ」のごとく、男の生き血を吸って、吸われた男は自分も吸血鬼になっていき、次第に皆彼女のいうことを聞くしもべのようになっていくというわけでもない、

 奇しくも、もしそのような状況になってしまうと、結果的に、卑怯なコウモリにおけるコウモリの行動の結果と一緒になってしまうというのは、ある意味、

「悪しきイメージのあるものは、最終的に行き着く先は決まってしまうのではないだろうか?」

 言えるような気がした。

 どちらにしても、綾香のあだ名である「コウモリ」というのは、あまりいいイメージのあだ名ではない。しかも、彼女を知っている程度の男性であれば、彼女がどうして、「コウモリ」などというあありいいイメージではない皮肉を込めたようなあだ名で呼ばれているのか、まったく分からないだろう。

 やはり、男性でも、ある程度仲良くなってしまわないと、彼女の本性が分からないというのが男性の見え方なのだろう。

 逆に女性は、そんな彼女のことを、皆が「コウモリ」と呼んでいるということを、さほど仲良くなくても分かるのだった。

「同性から見れば、あんなにあざといのを見ていると、コウモリって言われている彼女の本性はすぐに分かるわよ」

 と言っていた。

 その理由を聞くと、

「彼女に限らず、女性というのは、皆どこかコウモリのようなところがあるのよ。あざとさそのものをコウモリのように感じている人は多いの」

 というのであった。

 そんなありがたくもないあだ名をつけられた綾香だったが、自分がコウモリというあだ名をつけられていることは分かっていたが、どうしてコウモリと言われることになったのか、自分で分かっているわけではなかったのだ。

 そんな綾香の同級生の変わった女の子は、今でこそ、

「いつの間にか友達になっていた」

 という吉倉あいりだった。

 普通なら知り合うはずもない二人だと思えたのだが、二人の間に共通の友達がいたというだけのことだった。

 綾香の場合は、容姿は男子ウケが抜群であるが、コウモリと呼ばれるほど、女性からはロクな目で見られておらず、男性からもよく知らない人は綺麗だというだけのイメージを持っていて、ある程度仲が良くなると、次第に彼女のあだ名がコウモリであるということに疑念を抱き始め、卑怯なコウモリと、吸血鬼「ドラキュラ」の両極端なイメージを抱き始めるのだが、最後には同じ着地点が待っているという、ある程度分かりやすいタイプの女性であった。

 それに比べて、あいりの方は、別に綺麗でも可愛いというわけでもない。見た目はどこにでもいるという女の子で、どちらかというと、

「可愛いという雰囲気ではないだろうか?」

 と言われるタイプなのだが、あまり、男性にモテるわけではない。

 むしろ、気持ち悪がられていると言って方がいいかも知れない。それは男性に限らず、女性に対してもだった。

 大学というところは、本当にいろいろな人がいる。中には、

「どこかおかしいんじゃないか?」

 と言われる人もいるが、あいりは、そんなタイプの女の子だった。

 だが、友達が一人もいないわけではなかった。どちらかというと彼女のような少し変わった女の子が集まってくる。数人集まればその中でリーダー的な存在が誰になるのかということが自然と決まってくるようなのだが、そのリーダーになったのが、あいりだったのだ。

 あいりは、

「ちょっと変わってる女の子」

 ということで、まわりから敬遠されるタイプの女の子を引き付けるようなところがあった。

 ほとんどの、変わっている女の子というのは、ほとんど一人寂しく、佇んでいて、ただ、見るからに、

「あの人何かある」

 という雰囲気を醸し出すから、誰も寄り憑かないのだ。

 しかし、あいりは、そんな女性たちから見ると、いかにも同類に見えているようで、彼女たちの方からあいりに近づいてくる。

 そもそも、まわりから変わっていると言われる人たちは、自分がまわりから気持ち悪がられるのは分かっているが、あからさまにそんな態度を取られることを嫌がる。なぜなら、分かっているつもりではいるが、いかにもそんな目で見られると、人生が終わったかのように思えてくるからだ。

 自覚する分にはいいのだが、他の人も思っていると感じたくはない。それは、まるで胸を刺されて虫の息になっているところを、ロープで首を絞められているかのような感覚だったのだ。

 だから、まわりが自分をどう思っているかということを一番知りたくない。そういう意味では、友達ができるなどありえなかった。

 もし、できたとしても、結局気持ち悪がられるか、最後は裏切られるかのどちらかである。それを思うと、友達などありえない。そして、まわりが自分をどう思っているかなど、気にしてはいけなかったのだ。

 それだけ、捻くれた気持ちを持っているということだろう。少しでも自分にいいところがあれば、ここまでは思うことはないと感じている。つまり、彼女たちは、自分にいいところなどまったくなくて、自分が気持ち悪いという自覚もあり、まわりから、それを突きつけられるのを怖がっているという、考えただけでも、近づきたくない相手だと言えるのではないだろうか。

 目の前にいるのに、その存在を意識されないという、

「路傍の石」

 のごとく、必死に気配を消して生きている。

 そんな中にも二種類いて、気配を消そうとすればするほど目立ってしまう人と、本当に気配を消してしまって、まったく自分のまわりには、結界が張られてしまったことで、姿さえ見えないような存在の人間であった。明らかに後者の方が稀であり、言われているだけで、

「本当に気配を消すことができる人間などいるのだろうか?」

 と感じるほどであった、

 だが、あいりは、そんなことができる女の子だった。それも、普通なら意識をすればできないことに思えるのだが、あいりの場合は意識をしてそれができるのだ。

 元々あいりも、人前で気配を消すなどということができるなどということは考えたこともなかった。何しろ、目立ちたいとまでは思わなかったが、気配を消してしまうと、自分の存在価値がなくなるのではないかという、普通の考えを持っていたはずなのに、いつの間にか、

「気配を消すことって、結構気が楽になれるんだ」

 と考えるようになっていることに気づくようになっていた。

 その考えを、

「これは自分だけの考えではなく、本当は皆潜在的に持っているもので、表に出してはいけない恥ずかしいことだ」

 と、自分以外ではなく皆持っているもので、裸になるよりも恥ずかしいことだとして、考えているということ自体を認めたくないという考えから、皆、意識して考えないようになったのだろうと感じたのだ。

 そんなあいりにとって、

「気配と消すことで、見えてほしくない人には見られることはないが、見えてほしい、同類と思える人には見られていて、そんな人たちを引き付ける力を秘めているのではないか?」

 と感じさせるようになっていた。

 潜在意識というものは、無意識に持っている意識であって、それは人さまざまであるので、潜在意識がどういうものなのかということは、まわりはもちろん、本人にも分かるものではなかった、

 分かってしまえば、もはや潜在式ではないからだ。

「夢というものは、潜在意識がなせるわざだ」

 とよく言われているが、それはきっと夢というものを目が覚めた時に覚えていないというところから由来して言われるようになったのではないだろうか。

 夢というのは、いろいろと言われているが、少なくともあいりはそのうちのいくつかを信じていた。

 一つは、

「夢というのは、同じ夢の続きを見ることができない」

 ということである、

 これはある意味当たり喘のことであるが、同じような夢を何度も見ている人もいると思うが、実際にはまったく同じ夢というわけではない。

 それは、夢を覚えているからであり、一度見た夢を目が覚めてからも途中までを意識して覚えていることから、潜在意識に、さらに時代を超えた無意識の意識が付け加えられているのだ。だから、同じ夢であっても、微妙に違っている。だから、夢の中で、

「前に同じような感覚があったような気がする」

 とは感じることはなく、目が覚めてから、初めて、

「前に見た夢と同じ夢だ」

 と感じるのだった。

 つまりは、夢というものを考えた時、

「デジャブ現象というのは、夢に限っていえば、ありえないことなんだ」

 という思いである。

 たまに、

「デジャブにて、前に見たことがあるというのは、そういう夢を見たからではないか?」

 と考えるのだが、それは夢に見たからではなく、同じ夢を二度見た時だけに感じる感覚なので、それは一般的にいわれる、

「デジャブ現象」

 ではないのだった。

 少しややこしくて、考え方を理論的に説明しようとすると、説明する方も頭が混乱してしまうに違いない。

 そう思うと、もう一つ考えられることがあった。それが、

「夢の続きを、次の夢で見ることはできない」

 ということである。

 夢だとして起きてから意識してしまった瞬間、夢の中の出来事は意識で修飾されてしまい、すでに夢とは違った意識が芽生えている。これは前述の説明と同じなので、そう考えると、続きもおのずと違っている。これは、タイムマシンで過去に行って、過去を変えてしまったことで、戻ってきた世界が変わっていたという発想と同じではないだろうか。

 また、さらに、

「夢というのは、楽しい夢は忘れてしまうのだが、怖い夢は覚えている」

 と考えている、

 これは、もう一つの考え方として、

「夢を見ていない時はなくて、眠っている時、夢というのはセットである」

 という考えと結びついている。

 そう考えれば、眠っていて覚えていない夢、見ていなかったはずだと思っている夢は、すべて楽しい夢だったということになる。そう考えれば、夢というのは、ほとんどが楽しい夢なんじゃないかと思うのだ。

 では、なぜ、楽しい夢というのを覚えていないのかというと、

「夢で見る楽しいと思えることが一つしかないので、覚える必要がない」

 というものだった。

 つまりは、過去に一度は楽しい夢をどこかで見ていて、それを忘れてしまうほど、今までに何百回、何千回と夢を見てきているので、昔過ぎて思い出せないだけではないかと思うのだった。

 そんな過去のことを考えていると、その間に見た怖い夢も、そんなに種類はなかったような気がする。いくつか種類があったように思うのはシチュエーションが違っているからであって、怖い夢というのは、現実離れしているから怖いのであって、それが夢と概念が似ていることで、結び付いていると考えると、怖い夢を覚えているという理屈にもなるというものだ。

 しかし、それも最後には同じものに、結び付いてくる。

「夢の中で一番怖いのは、もう一人の自分を夢の中で見た時だ」

 というものであった、

「もう一人の自分を、現実世界で見ることは恐ろしいことだ」

 という話を訊いたことがあった、

「ドッペルゲンガー」

 というらしいのだが、ドッペルゲンガーに出会うと、その人は死んでしまうという言い伝えがあるという。都市伝説の類なのだが、過去の例としてたくさんの有名人、著名人が「自分のドッペルゲンガーを見た:

 という記録を残して死んでいるので、なまじ迷信だとか、都市伝説ということで簡単に片づけられるものだと言えるのだろうか。

 ドッペルゲンガーというのは、

「世の中には自分に似た人が三人はいる」

 と言われているような、

「似ていると言われる人」

 ではなくて、あくまでも、もう一人の自分なのである。

 だから、ドッペルゲンガーにはいくつか言われていることがあって、

「ドッペルゲンガーは、喋らない。本人の行動範囲を超えて現れることはない」

 などと言われている。

 だから、海外旅行をしたことがない人を、海外で見たと言われれば、それはよく似た人というだけで、ドッペルゲンガーではないのだ。

 夢の中でも、似たような意識があるのだろうか?

 ドッペルゲンガーというのを知る前から、

「夢で一番怖いのは、もう一人の自分が出てきた時だ」

 と思っていたが、それは自分の潜在意識の中に、ドッペルゲンガーという発想があったからだろうか。

 意識はまったくないのに、まるで最初から知っていたことであるかのように思うのは気持ち悪いことである。

「夢は潜在意識が見せるものだっていうけど、本当にそうなのかも知れない。潜在意識を考えることが、夢の正体に近づくのではないだろうか?」

 と考えていた。

 そんなあいりは、変なこと考えていた。

 いつからそんなことを考えていたのか分からないが、

「必ず自分は行動範囲の中で、ほとんどの異性と会っている。その中で自分のことを好きになってくれる人が分かるようになる。自分から告白してはいけない。相手に必ず告白させる。自分から行けば失敗する。なぜなら自分から行くと、相手に自分の後ろから見られるからだ」

 とそんなことを考えるようになった。

 幾重にも重なった理論なので、一気にこんなに考えが結び付いたわけではないだろが、一つの道筋を少しでも離れると、この考えには至らないだろう、迷いのない間に考えたとすれば、一騎だったと思っても仕方のないことである。

 なぜこのような考えに至ったのかまではよく分からないが、自分が引き付けたであろう人たちには共感を受けたようである。

「どこか変わっている」

 と言われている女の子というのは、

「誰に対して変わっているというのだろう?」

 そして、その変わっているという基準も曖昧ではないか、誰がどこでどのように決めたのか、分からない、

 しかも、その人に何の権限があって、人を、

「変わっている」

 という尺度で、差別的な待遇に追いやる権限があるというのか、考えると分からなくなってくる。

 昔、祖母から聞いたお話の中で、昔の漫才師が、

「地下鉄ってどこから入れたんだろうね?」

 というネタをやっていたというが、いまさら言われてみれば、確かに疑問が残る。

 そういう意味でいくと、さらに気になるのが、

 テレビなどで、芸能人などが、足場の悪いところなどを足を滑らせながら、

「危ない危ない」

 と言って進んでいるのを、正面からカメラが撮っているのである。

 今のように、ドローンなどのような機械があれば、そんなに難しいことではないだろうが、昔の映像にもそういうのがあるではないか。考えてみれば不思議である。

 また、建築の世界でもそうである。高層ビルや高層マンションを組み立てるのに、土台を汲んだり、足場を作ったり、シートをまわりにかぶせたりしているが、どのようにしているのだろう? 骨組みが出来上がるまであれだけ時間が掛かったのに、実際に建物の壁が見えてくると、出来上がるまでにあっという間に感じるのはなぜなだんろう?

 そうやって考えると、街中に溢れているちょっとした不思議なことは、無限に存在しているように思う。そう思うと、今度は前述の夢のように、すべての謎が共通の謎で繋がっているのではないかと思うと、一つが解決すると、他のことも一気に解決する。それが建築であったり、カメラであったり、地下鉄であったりと、疑問が疑問でなくなってくるのかも知れない。

 だから、あいりが考えていることも、一つ何かが思い浮かべば、そこから発想はいくらでも無限に発生するのだろうが、目指す地点はある程度見えていて、そこから派生した疑問を次々に解決することで、いち早く、結論を導き出す。それは人間にだけできることではないだろうか。

 それを人間以外の動物は、本能によって乗り切ることができるので、生きていけるのだろう。本能というのはバカにできるものではない。動物が生きる上での生命線である。人間にもその本能があるのだから、本能を研究するということは、人間を含めた動物を研究することである、

 ひょっとすると、ロボットを研究するのも、本能を無視してはいけないのではないかと思えるのだった。

 あいりは、たぶん、前述の発想は、

「本能という考え方から始まっているのではないか?」

 と考えるようになった。

 だから、異性というものが意識されたのであって、思春期において、初めて意識した異性というものがどういうものだったのかを思い出していた。

「男の子って、ニキビがあったり、すぐに裸になりたがったりと、気持ち悪いくせに、自分を見せつけたいという女には分からない感情がある」

 と考えていた。

 女の子であれば、恥ずかしいと思うものは絶対に見せないようにする。それが同性であっても同じで、いや、同性だからこそ、見せたくないと思うのかも知れない。

 男性に比べて女性は、同性、異性に対しての意識よりも、自分と、それ以外の他人という考えが強いのではないだろうか。だからこそ、嫉妬心が男性よりも強いと言われるのだろうし、異性という意識よりも、気になる相手を独占したいという意識が強く、その目的のためには、まわりの人を平気で裏切るとまで考える人が多いのではないかと勘変えていた。

 この考えは究極の勘違いだとは思っているが、どこから間違っているのかが分からない。だから、本当に間違っているのかどうかも分からない。そんなあいりだから、まわりに気配を見せたくないと思っているのだろう。ひょっとすると、あいりほど、自分と他人の距離を遠くに感じ、結界を張り巡らせていると思っている人もいないのではないだろうか。

 あいりは、前述の考え方の中で、

「自分の後ろから見られる」

 という思いがあった。

 それは、自分が透けて見えるからで、

「ただ、透けて見えるだけではなく、それは告白しようとした時だけであった」

 と思っていた。

 そんな思いを皆が知っているからなのか、なぜか、高校の頃から、まわりから、

「くらげ」

 と言われるようになった。

 くらげというと、軟体動物で人を刺すというイメージが強い。くらげは、身体がゼラチン質で、透明である。多くのくらげは、身体が傘のようになっていて、その下の中心部に口があるいう形状をしている。

 またくらげの特徴としては、遊泳能力は備わっているが、絶えず泳いでいられるわけではない、漂っている場合も多いという。くらげは淡水または、海水中で生息しているというが、水流のある海で生息するものがほとんどであろう。前述のように、実際に自分で泳ぐことをしないので、水流がないところでは、沈んでしまう。それを防ぐのに、浮き上がるようにして遊泳を行い、ある程度までは昇ってくるが、また、沈もうとするという。これを繰り返しているうちに死に至るということで、くらげによって、泳ぐことを続けるのは、寿命を縮めているのと同じことになるのであろう。

 刺すのは毒であり、その毒を使って獲物を捕らえるのだという。つまり、毒を使って刺すのは、身を守るためなどではなく、

「食するための獲物を捕らえる」

 という目的のためである。

 くらげは食用になったり、遺伝子学の研究として利用されたりもするが、その一方、人間を刺すなどという意味での被害を与えるものとしても、問題があったりする。またそれ以外の問題としては、大量発生ということが時々起きているという、工場や発電所などの取水口を塞いでしまうなどという被害がおきているが、その原因と言われるものが、一種の人災だとも言われている。水質汚染などの自然破壊であったり、魚の乱獲によるものであったりがその原因とされている。これこそ、大きな社会問題の一つだと言えるのではないだろうか?

 だが、なかなか人間にはあまり印象のあるものではない。どちらかというと、あまり関わりたくないものの一つだろう。同じ刺すにしても、ハチのように、蜜を与えてくれるわけでもない。一部食用として用いられることもあるが、なかなか市民には馴染みのあるものでもない。それを思うと、

「クラゲちゃん」

 などというあだ名をつけられるのは、あまりありがたくないと思っていた。

 だが、かといって、否定するだけの思いもなかった。

 心の中で、自分があまり世の中に好まれていないということを分かっているだけに、くらげというあだ名は自分らしいとも感じていたからだ。

 そもそも、あだ名というのは、基本的にあまりいいイメージでつけられている人は少ないだろう。

 リスペクトされているというよりも、ディスられていると言った方がいい。あだ名はその人への皮肉から生まれたものだと言ってもいいだろう。

 だが、よく考えてみれば、このあだ名を最初につけたのは他人ではない。自分だったのだ。

 まわりから、

「あなたは後ろから見られているようで、その時、見ている方は透けて見えるんだよ」

 と言われて、

「何、それ。それじゃあまるで私がクラゲみたいじゃない」

 と言ったのがきっかけだった。

「それそれ、クラゲでいいんじゃない。あなたのあだ名」

 と言われたのだ。

 すっかり忘れてしまっていたが、本人はまさかあだ名になるとは思っていなかったのだろう。

 だが、すっかり忘れてしまっているということは、逆にいえば、思い出したくもないということ。それは、最初から自分のあだ名を、クラゲにしてほしいという意識があってのことだったのではないだろうか。それを認めたくないという思いから、思い出したくないと感じているのだろう。

 そう思うと、

「クラゲってあだ名。そんなに嫌でもないわ。かわいいじゃない」

 と感じたあいりだった、

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