第3話 自由と寂しさ

 友達がいないと寂しいという感覚は、誰が決めたのだろう? やたらと友達を増やしても、それが自己満足でしかないことに気づくまで、意外と時間が掛からなかった。友達の数がステータスだなとと思っていた時期が懐かしいが、それはやはり、自分だけが取り残された感覚になったからだろうか。

 なぜそんな気持ちになったのかというと、自分の行動に信念がなく、まわりに流されてしまったことから来ているのではないかと思うようになった。闇雲に友達を作りすぎると、反目しあっている友達の間に入ってしまって、身動きが取れなくなってしまう。そうなると、どちらかについて、反対側の人と敵対することになるか、うまく相手の都合に合わせて、立ち振る舞うかのどちらかにしかならないだろう。

 うまく経ち振る舞えればいいが、中途半端な行動をとってしまうと、それぞれに不信感を抱かせることになる。

「日和見主義だ」

 と言われてしまうのだろう。

 イソップ童話に、

「卑怯なコウモリ」

 という話がある、

 獣と鳥が戦争をしていて、コウモリは、獣に会えば、自分は身体に毛が生えているので、獣だといい、鳥に会えば、翼があるので、自分は鳥だと言って、それぞれに都合よく立ち回っていたのだが、戦争が終わって、鳥と獣が和解すると、それまで都合よく立ち回っていたコウモリに対して、鳥も獣も不信感を抱くようになり、そのせいで、相手にされなくなったコウモリは、洞窟のようなジメジメした場所で、人知れず生きていくことを余儀なくされるという話であった。

 要するに、都合よく立ちまわることは、有事であればうまく立ち回ったと言えるかも知れないが、平時になってしまうと、どちらからも疎まがられ、下手をすれば、戦犯として処刑されかねないほどの大罪だということだ。

 綾香は、自分の大学時代をそんな時代だったと思った。

 ある時、友達から、

「綾香は、コウモリだよね」

 と言われて、他の皆も、

「そうだね」

 と賛成していたが、意味を知らなかったのは、本人である綾香だけで、

「そうなの?」

 と、ごまかしたような言い方をしたが、皆は分かっていて、綾香が訝しがっていると思ったのだろう。

 しかし、実際にはそうではなく、綾香は本当に内容を知らずに、どう反応していいのか分からなかっただけだ。このあたりのすれ違いも、綾香が友達を失くす大きな理由の一つだったのだろう。

 実際にその話が広がって、いつのまにか綾香のあだ名が、

「コウモリ」

 になってしまった。

 最初はそんな悪い意味だとは思っていなかったので調べなかったが、さすがに皆から言われるようになると、そのあだ名の真意がどういうことなのかというのを探ってみた。

 さすがに、コウモリに対して、あまりいい印象を持っていない綾香にも、数人にだけなら気にもならなかったが、公式としてのあだ名として認定されたのであれば、気にしないわけにはいかない。それを自分の性格だとして、皆が認識するということだろう。

 今友達でいる人たちはまだしも、これから友達になるかも知れな人が、綾香のことを、

「コウモリというあだ名なんだ」

 と認識して、その時どう思うかと思うと。

「ああ、やっぱり」

 と言って、ほくそ笑んでいるのを思うと、どうにも気持ち悪い気がしたのだ。

 その気持ち悪さが恐怖に繋がることがないことを望んでいる。もし、これが恐怖に繋がるとすれば、前述の小説のように、生き埋めにされた男への加害者の悪魔の微笑みが想像されるからだった。

 さすがにそこまではないにしても、コウモリを調べた時に出てきた、

「卑怯なコウモリ」

 の話を見ると、なるほどと思えてしまう。

 もし、自分が他人であれば、自分のような性格の人を見て、きっとコウモリだと思うに違いないと感じるからだった。

 コウモリというありがたくないあだ名をつけられてから、最初は嫌だったが、慣れてくると、あまり気にならなくなった。それはきっと、

「私の性格が本当にコウモリのような感じだということが分かってきた気がしてきたからだ」

 と思うようになっていた。

 コウモリの顔写真をアップで見た時はさすがに気持ち悪いと思ったが、よく見えると愛らしさもあった。

「コウモリというのは、一見で損をするのかも知れない」

 つまりは、第一印象で判断する人には受け入れられないものだということだ。

 だが、その顔に愛らしさを感じると、第一印象で勝手に気持ち悪いと感じたことを悪かったという思いで、コウモリに入れ込んでしまうかも知れない。自分の気持ちをゆだねるくらいの気持ちであろうか、しかし、仲良くなると、今度は卑怯なコウモリが姿を現すのだが、一度信じてしまった相手は、そのことに気づかない。

 そのため、自分が欺かれているとしても、気付いていないので、コウモリも調子に乗ってしまうと、それが、目に見えない亀裂を生んでいるということに最初に気づくのは誰だろう?

 だが、気付かれないわけもなく、最終的に別れてしまうことになる確率は高いのではないかと思われる。

 ただ、その時、コウモリの方よりも、友達の方が精神的にはきついかも知れない、何か裏切られたような気分になり、相手を強烈に拒否してしまうだろう。コウモリの方は、何が起こったのか分からず、こんな状況に苛立ちは抱いても、相手を恨むまでの意識はないだろう。

 それは、自分が恨むと相手も恨むことになると感じたからだが、それは時すでに遅しだったので、

 相手は、すでにコウモリを恨んでしまっていて、

「こんな人と友達になるなんて、最初に悪かったと思った感覚を返してほしい」

 と思うほどだった。

 綾香は、

「コウモリというのは、一見で嫌われることも多いが、付き合っているうちに自分が憎まれるようになることもあるんだ」

 と感じた。

 コウモリというものがそういう動物なので、いかにも自分があだ名にあった性格なのだという思いに至るのだが、そこまで分かっているにも関わらず、自分ではどうすることもできないのが腹立たしかった。

 そんなコウモリに対して、どんな人が合うのかと考えてみると、想像もつかなかった。何しろ、都合のいい方に寄生するような形でしか仲良くなれないということが分かっているので、どうしても、相手に合わせてしまう、そうなると、鳥と獣のどちらも友達がいたとして、それぞれで喧嘩になると、どちらにつくということができずに、また中途半端な位置で様子見をするしかない。

「優勢な方につく」

 というのも、うまい立ち回りなのだろうが、どちらにも友達がいれば、必ず欺いていることになるということを、忘れてしまっているのだろう。

 いくら自分が友達を失いたくないとはいえ、最後には和解する相手なのだから、結果は卑怯なコウモリと同じになってしまうことは分かっている。

 そうなると、自分の立ち回り方としては、それ以外でしかない。

「相手を絞って、どちらかに寄り添う形で、運を天に任せるか、あるいは、どちらにも加勢することをせず、中立の立場で第三者を装うという方法しかないだろう」

 ただ、中立を装うことになると、友達関係がどちらも壊れてしまう危険性もある。それはそれで仕方がないと割り切るしかないのだろうが、それが今後どのような影響を与えて、自分が立ち直るのがいつになるかと考えると、最終的にも、最初からという意味でも、孤独であったということになるのであろう。

 孤独を好きだという人もいるが、前はどうしてなのか分からなかったが、

「一人でいるということがこれほど自由をもたらすことになるなど、想像もしていなかった」

 と感じていた。

 中学、高校のように、クラスがあって、団体生活を余儀なくされると、

「孤独とは寂しいことだ」

 と思わざるおえない。

 そういう意味で、孤独と自由が同じ次元で存在するなど、考えたこともなかったのだ。

 孤独を寂しいと考えるか、自由だと考えるかは、まるで、長所と短所を探るようではないか。

 長所と短所といえば、背中合わせであり、一番近いところにあるという考えもある。しかし、実際に同じことが長所であり短所であったとしても、表に出てくることはそのどちらかなのだ。だから、同じ次元で語ることはできないだろう。

 だが、孤独における、寂しさと自由はどうだろう? あくまでも孤独というものが表に出ているのだ。そこからどちらが見えているのか、それは本人にしか分からないが、それを口にもできないだろう。

 寂しそうにしているからと言って、本当に寂しいのかどうか、そのあたりも分からない。態度によって決まるものではないと思えた。

「最初は寂しいと思ったが、実際には自由だったことが分かって気が楽になった」

 という人もいれば、逆に、

「最初は自由だと思ったが、結局は寂しさしか残らなかった」

 ということで、やるせなさしかなくなってしまったことに、憤りを感じる人もいるだろう。

 そういう意味で、結果からしか判断できずに、

「結果論でしかない」

 と言われてしまって、孤独の本質が分からないままになってしまう。

 孤独を自由と感じるには、たぶん、孤独を味わうと、まず寂しさがやってくるということが分かる人ではないといけないような気がする。孤独をいきなり自由だと考える人がいるとすると、その人は、寂しいと思う気持ちを打ち消して、最初からなかったことにしてしまうということしか考えられない人ではないだろうか。

 それを思うと、自分にとっての自由が何であるかを、常々考えていないと、いろいろ見失ってしまうことが多いと言えるのではないだろうか。

 最近では孤独を味わうという意味での、

「ソロ活」

 なるものが流行っているという。

 普段なら、数人ですることを、一人で楽しもうということであるが、その理由にはいくつかある。

 というよりも、複数でやることの理由にいくつかあると言った方がいいかも知れない。

 一つには、複数でする方が楽しいというシンプルな考え方だ。

 キャンプなどのように複数でワイワイやる方が楽しいことが多いと言えば、この一言だけで説得力があるだろう。

 もう一つには、一人でするのが恥ずかしいというのもある。

 例えば、最近では、

「ひとり○○」

 などというのも多く、会食などに多く見られるのだが、焼き肉であったり、鍋であったり、カラオケなど、数人ですることを当たり前と言われ、一人でするのが、恥ずかしいという兆候があったのだが、今では、一人でも歓迎の店が多いことで、ソロ活がやりやすくもなってきた。

 孤独を味わうために行うのがソロ活だとは断言できないが、孤独であることに変わりはなく、孤独を楽しんでいる人が多いのも事実だ。実社会から離れて孤独になりたいと感じる人が多いということだろう、

 もう一つには、一人でするのが気が楽だという人である。

 そもそも、人と一緒だと自分のやりたいようにできないことで、コミュニケーションが取れない人には、レクレーションなど、煩わしい以外の何者でもない。

 毎年恒例の、新年会や忘年会、毎日顔を合わせている相手で、しかも、いつも気を遣っている相手に対して、なぜ業務時間を離れてまで付き合わねばならないのか? それを思うと、一人になりたい時間があっても当然である。

 そういう意味でのソロ活が増えてきているのは事実だろうが、実はソロ活にもデメリットがある。

 一番のデメリットは、通常数人で手分けしてやることを、すべて自分一人でやらなければならないということである。

 キャンプなどであれば、テント設営や、食事の準備など、手分けしてやるようなことを、すべて自分でしなければならない。三人で一時間かかることであれば、一人でやると、単純に三時間かかってしまう。しかも、荷物も全部一人で運ぶことになるのだ。数人で手分けして持っても大変なのに、一人で持つというのがどれだけ大変かということを考えると、ソロでもできるという看板のかかったものであれば、インストラクターもいたりして、そこまで大変ではないかも知れない。そういう意味で、ある程度ベテランにならなければ、ソロでの活動は難しいとも言えるだろう。キャンプなどは特にその通りで、事故にならないようにしなければいけない。

 だが、自由であることには変わりはない。人と合わせる必要もなければ、些細なことで喧嘩になることもない。

 皆で同じ鍋をつつくのだから、よほど気が合った人ならいいのだろうが、自分が狙っていた肉や具材を相手に先に取られてしまうと、イラっときたりすることもあるだろう。

 予期せぬ何かが起こった時など、その人それぞれに対処法が定まっている人も多いだろう。一通りの対処法しかないのであれば問題ないが、いくつかの対処法があり、その優劣をつけることができないレベルであった時、自分の対処法を主張して喧嘩になるかも知れない。

 緊急事態になればなるほど、自分のやり方に自信を持っていれば、それを貫こうとする。マウントを取りたいという思いが強い人もいるだろうが、そうでもないと分かっていても、いざとなると、相手がマウントを取るがために意地を張っていると思うと、こっちも一歩も引き下がれない。

 そうなってしまうと、どうしようもなくなる。まわりも、どちらかに肩入れしそうになると、話がこじれるし、かと言って、

「まあまあ」

 と、中途半端にしか対応できないと、喧嘩がさらにひどくなる。

 それこそ、

「コウモリのようだ」

 と思われてしまったら、自分が損をする。

「何で、喧嘩の仲裁に入って、自分がまわりから卑怯だと思われなければならないのか?」

 と思ってしまうと、仲裁に入ることを誰もしなくなってしまう。

 こうなると、お互いに疲れて言い争いもできないくらいになるまで待つしかない。

 本人たちはそれでいいかも知れないが、まわりの人間は余計に気を遣って、疲れが激しくなるだろう。そうなると、もう話にならなくなってしまい、

「もう、二度とキャンプにはいかない」

 と思うだろう。

 この連中とだけいかないだけではない。キャンプ自体に嫌気がさして、誘われても行こうとは思わないに違いない。

「ただでさえ、いろいろ面倒臭いことを、友達が一緒だからということで参加しているのに、これじゃあ、元も子もない。本末転倒だ」

 と思うに違いない。

 孤独を楽しむのはキャンプだけではないが、他のソロ活は最近では充実してきたこともあって、

「人間の感情に、社会の体制がやっと追いついてきたのかということになるのだろうか?」

 と考えていた。

 何しろ、最初は友達を増やし、孤独を少しでも感じないようにしようと思っていたのに、気が付けば、自分だけ取り残されてしまって、結局孤独を味わうことになってしまった。だったら、孤独を楽しむようにすればいいのではないか。

 と単純に考えたのだが、最近の傾向としてのソロ活が多いというのは、同じような感覚の人が多くなったからなのか、それとも、一人で楽しむことが孤独とは違うということに気づいたからなのか分からない。

 ただ、一人というのが、孤独に結び付けてしまったことが問題なのかも知れない。

「一人というのは、孤独ではなく、孤立というべきではないだろうか?」

 と考えてみたのだが、孤立というのは、その状況をそのまま表現しただけで、孤独というように、感情が入り込んだものではない。

 それだけに、言葉として当て嵌めるなら、孤独ではなく、孤立になるのであろう。

 自分のことをまわりから「コウモリ」と言われていることに、違和感はあるが、だからと言って、言われたくないというほどでもない。もし、本当にそう思われているのであれば、自分が孤独になることで、嫌な感じではなくなる。

 コウモリと言われることで、

「あいつは、どうせ日和見的なやつなんだ」

 と思われていた方が、一人になった時、却って自由な気がする。

 下手に信用されたり、期待されていると、余計なことはできないが、これも実はうまくこちらを利用するというだけのつもりであれば、これほど嫌なことはない。

 それだけ、

「人間というのは、心の底では何を考えているのか分からない」

 と、ざっくりとした言い方ではあるが、たいていのことは、この言葉で片づけられそうな気がする。

 では、コウモリに対して、孤独は自由なのだろうか? 寂しさなのだろうか?

 正直、コウモリの生態系はどのようになっているのか分からないので、物語やイメージから想像するしかないのだが、

「自由であってほしい」

 と思っている。

 イソップ寓話の中では、卑怯者のコウモリは、まわりから嫌われて、暗い洞窟で人知れず暮らすことを余儀なくされたということであるが、元をただせば、自分の身体の特徴を利用して、あっちについたりこっちについたりして、後でひんしゅくを買ったわけだが、元々、鳥でもなければ、獣でもないという特殊な身体を持っていることから、仲間外れになりたくないという思いがあったのかどうかは分からないが、少なくとも、生きるためのやむおえないことだったのではないかと思えるのだ。

 そんなコウモリを悪者にして、コウモリが暗い場所でひっそりと暮らすようになったということになっているが、逆の見方もできるのではないだろうか。

 まず前提として、

「コウモリというのは、獣のようで獣ではない、鳥のようで鳥ではないという性質を持っている」

 そして、次に、

「コウモリはいつも暗闇で他の動物と接することなく、暮らしている。しかも、暗闇の中にいることで目が見えず、超音波を使って、障害物にぶつからないようにしている」

 ということを頭に入れて考えれば、

「前者をプロローグとして、後者をエピローグとする物語を考えたとすれば、それがこの話に繋がったのではないか?」

 と考えれば、出来上がるストーリーは大体、卑怯なコウモリの話になるというものだ。

 あとは、

「ドラキュラ伝説」

 などの物語などで見られるのは吸血性である。

 吸血動物というと、どちらかというと、蚊であったり、シラミ、ダニなどの昆虫や、ヒルなどの沼地に生息しているものが代表的な吸血動物である。

 実際に、コウモリの中には吸血性のコウモリもいるが、ふつうは虫を食べたり、花の蜜を吸ったりするものであるが、限られた種類だけが吸血する。

 昆虫やヒルなどの化身だと、話としては少し吸血性が弱いところがある、特に昆虫は吸血をしたからと言って、人間が死んでしまうようなこともなく、吸血動物が人間に化けているという発想には、かなり無理がある。

 そういう意味で一番ふさわしいのはコウモリだといえよう、ただし、コウモリは吸血性はあるが、人を狙って攻撃するわけではない。そういう意味では、吸血鬼「ドラキュラ」の話は、かなり盛られていると言ってもいいだろう。

 そもそも、人間の血を吸う理由としては、食用としての生活のために吸血するもの、さらに家などの場合は、吸血にはれっきとした理由があるのだ。

 血を吸う蚊というのは、実は産卵前のメスの蚊だけである。つまり、蚊が人の血を吸うというのは、産卵するためのエネルギーを身体に蓄えるためだということである。このことを知っている人は意外と少ないのではないだろうか。

 ただ、吸血鬼の話は、相手がコウモリというある意味。よく分からない動物だからこそ、いろいろフィクションが作られやすくなる。人間のドラキュラ男爵であったり、話のように、なぜ若い女性の生き血ばかりを吸うのかということは、よく分からない。物語の中ではそれなりに理由があるのかも知れないが、それを果たして、現代の日本人が理解できるものなのかどうか疑問である。

 さらに、話は膨張していく。

 吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になり、どんどんとねずみ算式に、吸血鬼が増えていくという発想だ。

 どこからこんな発想が生まれてきたのかは分からないが、元々、その地方に伝わっている何かの都市伝説の可能性もある。

 つまり、都市伝説をいろいろ組み合わせて。ホラー小説に組み立てたと考えると、理解できるところもあるだろう。

 元々、吸血鬼ドラキュラという小説は、ルーマニアという国出身のドラキュラの話ということになっている。さらに、限定的な年としてトランシルバニアというところに居城があるということだが、この都市の名前を聞いたことがある人は結構いるのではないかと思えた。

 吸血性がある蚊はメスが産卵のために血を吸うのに比べて、ドラキュラ伯爵が吸うのは若い女というのも、何か皮肉めいたものが感じられる。

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