第2話 悪魔の応酬
どうやら、養育費を貰わないという条件で、綾香の大学の学費を父親が払うという条件が成立していたようで、綾香は晴れて大学に入学できた。元々成績はよかったので、どこかの大学に入学はできるだろうということだった。何とか地元では一流大学と言われているところに合格できたので、それはよかったと思っている。私立であるが、そんなことは気にする必要もない。何しろ、学費はあの父親が払うのだ。私立だろうがなんだろうが、払わせればいいのだ。
大学に入ると、それなりに友達もできる。そして友達との会話の中で、
「ウソでしょう? 今までそんな生活をしていたの?」
という言葉を何度聞いたことだろう。
綾香が、
「これは、どこの家庭にもあることで、普通のことなのだ」
と思っていたことを普通に言うと、
「えっ? 何言っているの?」
と言われるので、自分の育った家庭がそうだったのだということを普通にいうと、
「ウソでしょう? ウケるんですけど」
などと言われて、半分呆れられているというか、嘲笑われているという状態だった。
「それが、一般家庭で皆していることだなんて、本気で思っていたとしたら、あなた、時代錯誤もいいところよ」
と言われた。
「うん、そうなのよね。学校の歴史の授業などを聞いていると、何かおかしいとは思っていたんだけど、そして、親に対して反感も持っていたんだけど、それは私だけに限ったことではなく、同い年の皆も同じ思いをしていて、それは口にしてはいけないタブーなことなんだって思っていたの。まさか、本当に私の家庭がそこまでおかしいとは想像もしていなかったわ」
と綾香がいうと、
「確かに稀に、そういう家庭もあったりするけど、それが普通だと思い込んでいる子供もさらに珍しいんじゃないかしら?」
と友達に言われて、
「どういうこと?」
と聞き返すと、
「どういうことではなくて、普通は、思い込んだりはしないということよ。皆おかしいということを理解しているけど、親に逆らえないという感覚でいるのね。そういう意味ではあなたは、よかったのかも知れないけど、不幸だったとも言えるわね」
というので、
「ますます分からない」
と綾香がいうと、
「分からない? でしょうね。あなたはね。親から洗脳されていたのよ。マインドコントロールされていたということ。怪しいという気持ちが端の方にありながら、当たり前のこととして結局はそちらに考えがすべて集中してしまって、意識の中に吸収される。それが洗脳というものなんじゃないかしら?」
と言われた。
洗脳という言葉、もちろん聞いたこともあるし、怖いものだという意識はあった。しかし、それはすべて、自分とは関係のないところで存在しているものだという意識があるので、余計なことを必要以上に考えないようにしていた。
考えないのではなく、考えることから逃げていたのだということを、自覚できないでいた。それが綾香の中での自分の気持ちであると思っていたが、それがまさか親からの外圧だったなどと、夢にも思っていなかった。しかし、友達の話には説得力があり、抗えない自分がいたのだ。
おばあちゃんが、父親の転勤の時に、ついてくることなく、老人ホームに入所した気持ちが今となれば分かってきたような気がする。
「おばあちゃんには分かっていたんだ」
と思った。
自分が育てた子供のはずなのに、その子供から迫害のような洗脳を受けるのが耐えられなかったのだろう。
母親はすでに洗脳されていて、どうしようもない。ただ気になるのは綾香のことだったのだろうが、これも、親に親権がある以上、どうしようもない。そんなことを考えていると、綾香はいろいろなことが見えてきたような気がした。
だが、分かるのは、その時々のシチュエーションで、
「昔だったら、こういう感じだったのに」
と思うことを、まわりの皆から、
「あなた、考えがずれてるわ」
と言われて、引かれた時に分かる。
引かれた時はさすがに、ショックだが、考えてみれば、やっと解決したと思えばいいだけなので、その思いが、新しい発見に繋がるのだから、喜ばしいことであった。
やはり、一番感じたのは、欲というものだった。
食欲など、今まで家にいる頃には感じたことがなかった。
「お腹が空くから食べるんだ」
というのを食欲だと思っていた。
確かに本能としての食欲ということなのだろうが、楽しむという意味の食欲とは、まったくかけ離れたものであった、
たまに、
「贅沢をしよう」
と言って、ステーキや、焼き肉、すき焼きなどをすることがあったが、決しておいしいとは思わなかった、
「これの何が贅沢なんだろう?」
と思ったほどで、確かに、値段が張ることくらいは分かっていたが、だからといって、贅沢という感覚ではなかった。
むしろ、家族と一緒に食べなければいけないことに苦痛を感じるだけで、おいしいなどと感じることはなかった。
正直、朝の味噌汁の匂いを嗅いだだけで、吐き気がするくらいだった。食事に対してだけ。いや、親との生活の憎しみや恨みが、食事という生活の一部に凝縮されていただけのことで、親のことを思い出すのは一番最初が食事だというのは、当たり前のことだったようだ。
「家族なんて言葉、大嫌いだ」
と、友達に愚痴をこぼしていたが、皆それを聞いてくれた。
嫌々聞いているというわけではなく、
「自分が同じ立場だったら、どうなのだろう?」
と思って聞いている人もいれば、
「うちは放任主義で助かった」
と思っている人と、様々であろう。
だが、ひょっとすると我が身だったと考えると皆恐怖を覚えたのではないだろうか。
綾香も、いろいろな家庭の話を訊いて。
「羨ましい」
と思う人がほとんどだったが。
「まだ、私はマシな方だったのかも知れない」
と感じる人も稀にいた。
それだけ、家族にもいろいろいるということで、それだけでも、世界が広いということを思い知らされた。これまでそれを知る機会を遮断されていたことに怒りさえ覚え、まるで、江戸時代の鎖国をしていたかのような感覚だった。
そういう意味では、急に世間を広めるのは、ちょっと危険な気がした。とりあえず、まわりの話を訊くことだけは、最優先なことには変わりはない。そう思うと、
「慌てることはない。これからいろいろなことを吸収していけることに、まずは喜びを感じるところから始めればいいんだ」
と感じていたのだ。
そして、まずは、人を憎むという今の姿勢を少し和らげておかなければ、ここから先、今まで相手にしてくれていた人が相手をしてくれない可能性があるということに気づいたのだ。
それまで友達というと数人しかいなかったが、大学に入ると、環境が一変したこともあって、友達が作りやすくなった。まわりからは気軽に声を掛けてもらえるし、こちらからも声を掛けやすくなる。
特に一年生の頃は声をかけまくって、友達を増やした。挨拶を交わすだけの友達がほとんどだが、一緒に街に出かける人も結構いる。
友達はそれぞれで分けていた。
「飲み友達、ランチ友達、趣味友達など」
その中で被っている人もいるが、ほとんど被っている人はいなかった。
被っている人とは自然と仲が深まっていく。お互いに意識もするし、趣味が同じなどであれば、友人というだけではなく、ライバルでもあったりするのだ。
中学、高校時代はライバルというとガチだった。どうしても、受験戦争からは避けては通れないからだ。部活をしていた人は勉強だけではなく、部活でも皆がライバルだった。もっとも、好敵手がいるから続けられるという人もいたので、ライバルは悪いことではない。一歩そこから離れると、友達の人だっているだろう。
そういう意味では、部活などをしていると、他の学校の生徒とも仲良くなったりする。競技の上ではライバルであるが、それ以外では友達だ。一緒に買い物に行ったり、食事をしたりと、そんな関係も悪くないと思っていた。
ただ、部活の中では全国大会常連などの厳しい部活もある。そんなところでは、
「ライバル校の生徒と仲良くするなどありえない」
という風潮のところもあるかも知れない。
さすがにそんな関係は嫌だったので、綾香は最初から部活をしようとは思わなかった。
かといって、友達がいたわけでもない。ライバルもいなければ、友達もいなかった。寂しいという感覚はそれほどなかった。
「友達なんか、いないならいないでいいんだ」
という思いであった。
友達なんかいらないというところまで捻くれているわけではないところが、
「友達がいなくても寂しくない」
と思うところであろうか。
実際に、大学に入っても、いまさら部活をしようとは思わない。友達を適当に作って、バイトをして、勉強は適当に……というのが、自分の大学生活だと思っていた。
だが、考えてみれば、一生懸命に勉強して入った大学だ。やりたいこともないわけではなかったはずなのに、その気持ちはどこに行ってしまったのだろう? やはり大学キャンパスというところは、それまで閉鎖的な性格を爆発的に開放してくれただけに、一度呑まれてしまうと、なかなか抜けることができない。
人間関係も、一番勉強できるいい機会のはずなのだが、どうも友達をたくさん作ってしまうと、その友達との関係がいつの間にか、相手に気を遣うということを重要に考えるようになり、自分はいつもまわりの誰かに従順であることが一番いいと思うようになってしまった。
その方がまわりからのウケは確かにいい。気を遣っていると相手も敬意を表してくれるので、気分もいい。
しかし、右にも左にも流されてしまう自分を見失ってしまっていることに気づかないのだ。
下手をすると、好き勝手に利用されて、そこから先が見えてこない状況に追い込まれ、人の言葉にだけ流されて、自分の意志がどこにいったのかすら、見失ってしまわないかというところまで来てしまうのだ。
そのうちに、まわりから置いて行かれてしまう。二階におだてられて昇ったはいいが、皆昇ってくると思っていると、梯子を外され。そのまま一人置き去りにされていまった感覚である。
しかも悪いことに、自分が置き去りにされてしまったことを分かっていながら、ヘラヘラしていると誰かが助けに来てくれると思って、自分の置かれた立場にいつまで経っても気付かないというところに追い込まれてしまうということだった。
そんな状態になって、やっと分かっても遅いのだ。
以前、読んだミステリーで、ある男が地下室の秘密の部屋の奥に追い込まれて、相手を信用している状態で、さらに泥酔していたこともあって、目の前でその人がレンガを組み立てている間、ヘラヘラ笑って、
「悪い冗談、よせよ」
と言っているが、最後まで組み立てられ、真っ暗になると、男はもう笑っていない。自分の状況を分かってしまい、永遠に出ることのできない暗闇の中で生き埋め同然に息絶えるしかないのだ。
それを見た時に感じた恐ろしさに似ているような気がした。
その男が殺されるだけの殺意を殺害者に与えてしまったのは、分からなくもないが、
「何もそこまで」
という感じであった。
殺すのであれば、一思いに殺せばいいものを、何もそこまでして相手を苦しめて苦しみぬく必要があるのかと思ったが、それほど人間というのは、怒りも極限に達すると、やることが恐ろしいと思うと、
「一番怖いのは幽霊などではなく、人間の持っている本性なのではないだろうか?」
と思わせる映画だった。
元々、その原作があったので、小説の方も読んでみた。同じ内容が文章でも書かれていて。読んでみたが、さすがに映像には適わないと最初そう感じたが、
「逆だったらどうだったのだろう?」
とも思った。
そう思って。もう一度、最初から本を読み返してみた。
最初に本を読んでいれば、その場面をきっと想像するに違いない。文章なので、いかにその場面を想像させるかというのが、作者のテクニックなのだが、十分にその効果はあるようだ。
映像を後で見れば、映像を最初に見た時ほどインパクトはないが、読書時の想像とどれほど違うのかということが分かるようで、想像の違いがどれほどのものかによって。恐怖の度合いも違ってくるのだろうが、自分の想像とあまり違わなかったのは、自分の中にもそんな残虐性があるのではないかと思うと、逆に怖くなった。
まさかとは思うが、そのあたりを考えた上での映像化だったとすれば、素晴らしい。確かにシチュエーションからすれば、どのように映像化しても、少なからずの恐怖を与えることができるのは間違いない。そして。原作と同じ恐怖が視聴者にも伝わることも分かるだろう。
そんな映像がたまに夢に出てくるようになった。目が覚めてから呼吸が荒くなっているのを感じる。よほど、生き埋めというシチュエーションが怖かったのかと思ったが、よく考えるとそうではない。
あの話の中で何が一番恐ろしいのかというと、自分が生き埋めにされるのを、目の前で見せつけられながら、
「まさか、本気で自分を殺そうとしているわけはない」
とでも思ったのか、事がすべて済むまで、茶番だと思って被害者が笑ってるところだった。
最後には断末魔の表情になり、二度と出ることのできない場所に身を投じてしまったことでの恐怖から、一度だけ叫び声を挙げるが、それ以上は何も言えなくなってしまったということだ。
それを見た時、
「何と、不気味なのだ?」
という思いと、さらに、
「気持ち悪い」
と感じたことだ。
気持ち悪いというのは、表情もそうだが、自分が加害者に対して行った背信行為が、
「ひょっとすると、殺されるかも知れないほどのことをしたのかも知れない」
と分かっていて、それでも泥酔しているからといって、恐怖に対して感情がマヒしていることを表に出しているからだった。
そもそも、この男が泥酔してしまったのも、加害者が被害者に、
「まあ、どんどん飲め。さあ無礼講だ」
などと言って、その気にさせたのも原因の一つだが、何よりも、被害者が恐怖を感じていたことで、その恐怖を少しでも和らげようと、虚勢を張ってみた感情から、ついつい飲みすぎた結果ではないだろうか。
恐ろしいことに、加害者の方もそのことを分かっていた。心理的に相手を追い詰めるということに成功していたと言ってもいい。
「俺が悪いんだ」
という意識はあったはずで、ひょっとすると、殺されても仕方がないとまで感じていたのかも知れない。
そう思うと、泥酔してしまったことも、相手がレンガを積み重ねていくその理由が泥酔している中で、何となく分かっていたと考えられるかも知れない。泥酔していなければ、すぐに相手に飛びつき、取っ組み合ってでも殺されるのを防ごうとするだろう。
下手をすれば、返り討ちにして殺してしまうかも知れない。相手はそのことを考えもしなかったのだろうか。
いや、相手が泥酔してしまった時点で、
「この計画は成功する」
と考えたに違いない。
何しろ、加害者の方は、酒を飲んでいるふりをして、一切口にしていなかったのだ。泥酔状態の相手にいくら何でもシラフの自分が負けるはずはない。ましてや殺されることもないだろうし、よしんば、生き埋め作戦が失敗したとしても、殺しておいて、壁に塗り込んでしまえば、この家が廃墟にでもなって、取り壊されなければ発見されることはない。
もし発見されても。この被害者が誰なのかということを解明するのは難しいだろう。完全に白骨化しているので、指紋も顔もまったく分からない。身体は原型をとどめておらず、腐り切って敗れてしまった服の下は、肉の影も形もないほどの白骨である。男か女かも分からないそんな状態、誰に分かるというのだろう」
その小説が書かれた時代は、昭和初期、戦前の話である。DNA鑑定などあるわけもなく、被害者が誰だか分からないまま、しかも、殺害時期もハッキリとしない。殺人の時効は十五年という時代だ。時効がいつになるのかも分からない事件。警察も必死になるとは思えない。
行方不明者も時期が分かっていれば、何とか被害者を絞ることもできるだろうが、白骨になってしまうと、それも難しい。さらに、この被害者の捜索願が出ているのかどうかも分からないくらいだ。
もっといえば、失踪宣告がなされて、死亡の時期を迎えて、実際には行方不明のまま死亡が確定していて、死体がないまま葬儀が行われ、空気が荼毘に付されたということになっていたとすれば、もう、どうしようもない。
小説を読みながら、たったワンシーンで、いろいろなことを想像させられて、それはそれで香味深いことだった。
興味を持ってくれば不思議なことに、最初に感じた恐ろしさが半減してきた。冷静な目で見ていると、この話の真の怖さは、
「気持ち悪さにあるのではないか」
と感じたのだ。
「この小説でいう真の恐怖というのは、自分が生き埋めになったことではなく。生き埋めになるのを知ってか知らずか、大願成就を万感の思いで迎えて悪魔の微笑みを浮かべている加害者の恐ろしい表情は、気持ち悪さよりも恐怖心から、背中がゾクッとくるのであるが、被害者の方は、まさかと思いながら、相手が浮かべている悪魔の表情に対して、決して臆していない不気味な笑みを浮かべているのが気持ち悪いのだ。いずれ、正気になって、恐怖に変わる瞬間が目に見えているだけに、その前兆である表情は、一体何が彼を笑顔にさせるのか、それが恐ろしいのだ」
と感じた。
ここでの笑顔の応酬は、
「まるでそれぞれ相手に臆してはならない」
という感情に至ることであり、笑顔の裏に、二人とも悪魔の形相を隠し持っている。
それを、お互いに、
「最初に相手に悪魔の形相を見せてはいけない」
と思ったことだろう。
見せてしまうと、その瞬間に、その場では見せた人間が負けになってしまう。確かに状況は加害者の方が圧倒的に有利である。それは、すべての運命を握っているという意味でのことで、その場の表情の応酬という意味ではない。あくまでも相手に、
「悪魔の表情を見せてはいけない」
という意味では、加害者の方が不利であった。
なぜなら、加害者は、最後には悪魔の表情にならなければいけないという思いがあった。それが最後の復讐劇の完成であり、相手が自分の悪魔の表情を見ることで、自分がいかに絶望的な状況にあるのかということを悟らさなければいけなかったからだ。
これも、自分の悪魔の表情からでなければいけない。そういうシナリオだったのだ。
そう考えると、この場での悪魔の応酬に関しては、加害者に勝ち目はない。
となると、絶望的な状態ではあるが、最後に一矢を報いるのは、被害者の方であった。
それもこの一矢を報いるというのは、あくまでも、
「加害者を目の前にしての最後」
という意味で、そこから孤独に死んでいく運命には抗えない。
空前絶後の、想像を絶する恐怖が待っている状態で、相手が死んでいくという状況を作りだしたことで、加害者は、留飲を覚ますのだろうが、最後の悪魔の応酬での敗北を、どこまで引きづることになるのか、小説はそこまで詳しくは書いていないが、ゆっくり考えれば、このようなシチュエーションを思い起こさせる、
その証拠に、加害者はそれからしばらく寝込むようになり、半狂乱に近くなっていったという。
被害者と不義を働いた奥さんを取り戻すことはできたが、いまさら奥さんを愛することもできず。ただ、世間体を装うだけのために、一緒に暮らしているだけで、女も後ろめたさから逆らえない状態で、
「奴隷として飼われている」
そんな状態だった。
加害者には、SMの気があったのだが、もはや、奥さんに対してSっ気を示すこともなかった。
奥さんの方も最初は抗っていたたが、どうやら、Mの性質が芽生えてきたようで、最初はそんな旦那から逃げるように被害者の近づいたはずなのに、被害者が行方不明になって、旦那にまた飼われるようになると、実は密かにSMの世界を楽しみにしていたのだろう。
しかし、そんな素振りはまったくなく、前とまるで別人の旦那を、奥さんが今度は物足りなくなってしまったようだ。
「この人は、もはや前の夫ではない」
と思うと、奥さんは夜な夜な街を徘徊するようになり、娼婦のように、ただ男にいたぶられる生活をするようになった。
加害者の夫は、それを制することはできない。自分がすでに妻を懐柔できなくなっていることを分かっているからだ。被害者を殺してしまったことで、生活のリズムが狂ってしまったというよりも、今まで憎しみの中だけで自分が生きてきたことを悟ったのだ。
「ひょっとすると、加害者は奥さんを愛していたわけではなく、憎んでいたのかも知れない。そして、憎まれた奥さんも、旦那を憎むようになり、二人は憎しみの中でしか、愛情を表現できなくなったことで、SMという異常性癖に走ったのではないか」
と感じた。
もちろん、SMという性癖があるから、お互いに憎しみ合うようになったのかも知れない。ここでの順番の違いというのは、あまり関係のないことではないだろうか。
小説を読んでいると、そんなところまで考えるようになってきた。
その一番の理由は、何と言っても、あの生き埋めシーンの恐怖の戦慄によるものだが、そこからここまでの発想ができるなんて、まさか思ってもいなかった。
小説を映像にすると、どうしても、小説の想像力に勝るものはないということで、映像は色褪せてしまいがちだが、この話に限っていえば、それはないようだった。
そんなことを考えていると、いろいろな本を読んでみたいと思うようになっていた。
特に最近嵌っているのは、昔の探偵小説だった。大正末期から、昭和初期、戦後すぐくらいまでの探偵小説である。
今ではミステリー、推理小説などと呼ばれているが、昔は探偵小説という言い方であった。
日本での探偵小説の黎明期と言われた時代でもあった。ただ、この頃にはすでに、
「あらかたのトリックは出尽くしている」
と言われた時代でもあったのだ。
それを当時の作家はいかにして自分の作品として作り上げていくのかというのが、興味をそそったのだ。
当時の探偵小説の分け方として、
「本格探偵小説と、変格探偵小説」
というものがあった。
本格探偵小説と言われるものは、トリックや謎解き重視のものであり、変格探偵小説と呼ばれるものは、ストーリー展開などから、猟奇的なものであったり、異常性癖であったり、耽美主義の小説であったりするものが、主流であった。
この時代は、激動の時代だったということもあり、変格探偵小説の方が強かったのかも知れない。現在読まれている当時の小説というのは、変格探偵小説と呼ばれるものが多いからだ。
そんな時代から次第にトリックなどを重視した本格派が出てきて、さらには社会派と呼ばれるストーリーや時代背景を重視する作品が生まれ、そのうちに、作家のオリジナル作法が、ジャンルとしての礎を築くことになる。
それが、トラベルミステリーであったり、ある特定の都市で生まれる事件であったり、するのだが、そのうちに、今度は探偵が、探偵以外の職業の人であったりするという作風が生まれてきたりした。探偵小説から、推理小説、ミステリー小説と続く歴史を見ていると、結構楽しかったりする。
そういう意味では、自分が好んで読んでいる大正末期から昭和初期というと、オカルト的な都市伝説のようなものが組み込まれていたり、そのわりに、奇抜な発想がある一定のところから先に結界があるかのように、どこか限界を感じさせるのは、帝国主義的な側面から、小説などの検閲が入るからではないかと思われる。
あの時代はそういう時代だったのだろう。
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