第16話 宋・蘇州、太湖の畔で(前編)

上海鎮に到着した一行は役人に連絡をし、そこから少し上流の蘇州に船で向かった。

船の上から眺める和泉式部が不思議そうに言った。


「ずいぶんと波がないおだやかな海ですね。それになんだか水が濁っているし」


そばにいた紫式部も水面を見つめる。


「そうね。あまり海の感じがしないわね。どちらかと言うと湖みたいな……」


二人の疑問に対し、甲板に出て来た清少納言が答えた。


「ここは海じゃないわ。もう長江(揚子江)に入っているわよ」


「え、ここ、海じゃないんですか? だってこんなに広いんですよ?」


和泉式部が驚いたように振り返る。


「ええ。上海鎮から先は海ではなく、河なのよ。日本とは比べ物にならないくらい大きいけどね」


紫式部が納得したように頷く。


「そうなんですね。だから水の色もこんな風に濁っている訳ね。言われてみると東国(関東地方)の利根川に似ているかも」


その時、和泉式部が船から身を乗り出して指を差した。


「ちょっと待って下さい。あそこを泳いでいるの、アレはイルカじゃないですか?」


紫式部もそちらに目を向ける。


「本当だ。アレはイルカよね。でも河なのにイルカがいるの?」


清少納言も興味を持ったらしく、船の欄干に寄って二人が見ている方に目を向ける。


「確かにイルカみたいね。中国には河に住むイルカがいるって聞いていたけど……本当だったのね」



二か月に渡る船旅で、三人もかなり打ち解けていた。

言葉遣いも当初の堅苦しさは無くなっている。

それでも清少納言と紫式部の間には、内なる競争心の炎は消えてはいないのだが……。


付き人兼護衛役の伊藤いとうの朋祐ともすけがやって来た。


「清少納言様・紫式部様。もうすぐ蘇州に入ります。蘇州では町で宋の服を買いましょう。十二単などは皇帝に面会する時まで汚せませんし、かと言って日本の平服と言う訳にもいきませんので」


その言葉に紫式部は興味を引かれた。


「どんな服を買うの?」


「こちらの常服がよろしいかと。我が国の着物とよく似ています。頭から被るシャツに足首まで隠れる長スカート、そして大きな袖口の長い上着をいった所でしょうか」


和泉式部が目を輝かせる。


「うわぁ、宋の服! 早く着てみたいです」



港に着くと宋の役人が手配してくれていた案内人・李浩宇ハオユーが待っていた。

日本から渡って来た船は大きいため長江に停泊し、彼女たち三人と伊藤朋祐と護衛の水手三人だけが案内人の小舟に乗り移る。


蘇州は『水の都』と言われているだけあって、多くの水路が張り巡らされていた。

周囲は湿地帯か水田が多い。


「水田が多いですね。米もよく実っています。この地は豊かなんですね」


景色を見ていた清少納言がそう聞くと、李さんが嬉しそうに答えた。


「はい、この地はとても豊かです。呉の都はこの蘇州でした。今でも江南地方では中心的な町なんです」


「じゃあ宋の色んな物を売っているお店もありますね?」


そう言ったのは和泉式部だ。

彼女は異国に来た事が嬉しくてたまらないらしい。


「ここにも大抵の物は揃っていますよ。もちろん都である開封ほどではありませんが」


紫式部が尋ねる。


「蘇州は太湖の近くにあると聞きました。太湖はとても景色がいい湖だそうですね」


「それはもう、太湖は景色が素晴らしいですし、昔から貴族の別荘などもあったそうです。皆さんが今夜お泊りになるのは私の屋敷ですが、太湖の近くにあります。ぜひ太湖の景色を堪能して下さい」


「この蘇州は古い都だけあって、昔の時代の建物や庭園も多いのでしょう?」


「そうです。唐の時代に作られた庭園が滄浪亭で、他にも呉の国王闔閭が埋葬された虎丘には八角七層の雲岩寺塔があります。他にも寒山寺など有名な寺があります」


「寒山寺。鐘の音で有名ですよね。張継の『楓橋夜泊』にも出て来る」


そう言った清少納言が漢詩を読む。


「月落ち烏啼いて 霜天に満つ

 江楓漁火 愁眠に対す

 姑蘇城外 寒山寺

 夜半の鐘声 客船に到る」


李が感心したように言う。


「いやぁ皆さん、遠い倭国の方なのによくご存じですね。驚きました」


清少納言が少し皮肉っぽく笑う。


「魚臭い遠い夷族の女には似合わないですか?」


「そ、そんな事は……失礼しました」


慌てて詫びる李に、清少納言は穏やかな口調で言った。


「李さんは士人なのでしょうか? ただの案内人にしては歴史の知識が豊富なように見受けられます」


李は少し寂しそうな笑いを浮かべた。


「はい。三年に一度の科挙の試験にもう二度落ちてしまい……今はこの次の試験を待っている身です」


「でも実家は裕福でいらっしゃるのでしょう? 無理せずともよろしいのではないですか?」


だが李は強く首を左右に振った。


「いえ、科挙に合格して官僚になれるかどうかの違いは大きいです。確かに私の父はそれなりに大きな地主です。しかし家をここからさらに発展させるためには、どうしても私が官僚になる必要があるのです。これは一族みんなの願いであり、私はその期待を一身に背負っているのです。私の人生の目標でもあります」


李浩宇は力強く答えた。

そんな李に、清少納言は寄り添うにして囁いた。


「大変なのですね。でもあなたの努力する姿はとても尊い物と思います。頑張ってくださいね、応援しております」


まだ若い李は、美しい清少納言にそう言われて顔を赤くした。



●ちょっと説明

※1、河のイルカ:ここではヨウスコウカワイルカのつもり。ただしヨウスコウカワイルカは、この時代には既に数が少なかったとも言われています。

※2、常服:普段に着用する衣類。朝廷で公務する時は公服と言うのを着たそうです。本当は他にも身分によって来てはいけない服や色、それに装飾品があったのですが、難しいのと話が進まないので省きます。

※3、雲岩寺塔:現代では一般的に虎丘塔とも呼ばれそうです。現代では地盤沈下で3度傾いており「東洋のピサの斜塔」と呼ばれているそうです。(この時代に傾ていたかは分かりません)

※4、夷族:中国の東部の異民族。日本人は『東夷』と呼ばれていた。

※5、士人:官僚を目指して勉強中の学生。

 参照:兵庫教育大学大学院 修士論文『中国宋代における服飾の変遷』p40から。


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今回のウソ設定

※1,伊藤朋祐:作者の空想上の人物で実在しません。

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